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雛子は量が飲める訳ではなく、アルコール度数の高いものもそれほど得意ではないが、お酒を飲むこと自体はけして嫌いではなかった。むしろ、頻度こそ高くないが好きと言ってもいいだろう。アルコールの効果か、飲めば肩の力も抜ける気がして、変なところにばかり気を回して空回る自身を、とどめてくれるような気がするのだ。
食事をしながらお酒を飲むことで、雛子はようやく少しリラックスをしながらぬ会話ができるようになってきた。
「仁見先輩、すごかったんですよ。高二の秋から急に身長伸び出して、夜中に観察したら伸びてるのが目で分かるんじゃないかって勢いだったんですから」
「骨が痛いって言って、唯一静かにしてた時期だったな」
「まるで僕が普段うるさいような言い方だな!」
心外だ、と言って清春が聖司に食って掛かる。その顔は楽しそうに笑っていて、本当に仲がいいんだなあ、と雛子は和やかな気持ちになった。
千穂は気さくな女性で、雛子に気を使ってくれているのだろう、何かと話しかけてくれる。眺めて、彼女たちの昔話に耳を傾けているだけでも楽しかったが、そうして千穂が話しかけてくれることが雛子には嬉しかった。
「あの頃、私と同じくらいの身長だったのになあ」
千穂は懐かしそうにそう呟いた。どうやら三人は、高校時代からの長い付き合いらしい。会話がふと途切れた瞬間に、雛子は彼女の左手の薬指で静かに輝く結婚指輪が視界に入る。当然、聖司の方も揃いのデザインの指輪をしていた。
「お二人は、いつからお付き合いされていたんですか?」
問いかけてから、雛子は不躾だったかもしれない、と思い至り内心で慌てた。しかし、彼女が謝罪なり弁解なりをして質問を撤回しようとするよりも早く、千穂があっさりと答えた。
「私が中二で、聖司が中三のときですよ」
「えっ、すごい!」
雛子は思わず歓声を上げる。
「元々私達幼馴染で小学校から一緒にいたんです。だから世間的には長いんでしょうけど、何だか当たり前で。気付いたら十年も付き合ってました」
あっけらかんと千穂は笑う。彼女はあまりにも軽く口にしたが、十年の月日はあまりにも長い。十代なんて、特に心変わりしやすい年頃でもあるだろう。そこまで長く付き合っていた人たちを、雛子は現実に初めて見た。
「すごく素敵ですね。憧れます」
「そうですか?いやでも、なんか長く付き合うとすごく美談みたいに取られがちですけど、これでも色々あったんですよ」
千穂は色々あったというもののどこか楽しそうで、ホットワインの入った耐熱性の容器を両手で持ち上げ、一口飲む。
「別れようって思ったことだって何回もありますしね。喧嘩だって何度もしましたし、傷つけたことも傷つけられたこともあります」
「……‥…………千穂、できればそういう話は俺のいないところでしてほしいな」
「実際別れようって言い出したことがあるのは聖司の方でしょ」
千穂の隣で穏やかな表情を浮かべていた聖司が、心底気まずそうに視線を斜め下へと逸らす。千穂は少々責めるように、というかまるで意趣返しでもするような口調でそう反論した。
「あー…あれは夏目が悪かったよなあ」
「そうですよね!ちょ、もっと言ってやって下さい!」
「千穂はともかくとして、仁見にそう言われるのは納得がいかない」
雛子の知らない話題に、彼女は清春や千穂のように笑っていいものか判断しかね、曖昧な表情を浮かべてその場を誤魔化そうとする。
今は円満な関係を築いているようで、さすがにいじめ過ぎたと思ったのか、千穂はごめんね、と一言呟いてから雛子の方へ振り返った。
「でも、この十年どんなに腹を立てても、ずっと彼を好きなままでした。別れようかなって悩んだときだって。だからきっと、私は死ぬまで彼のことが好きなんだと思います」
それならもう仕方がないかなあって結婚することにしました、とあっけらかんと千穂は笑う。話が思いもよらぬ方向に転がったからだろう、聖司は少しばかり目を見開いて、それからゆっくりと細めた。愛しげな表情だな、と雛子は思った。
二十代も半ばを迎え、雛子の回りでも少しずつ結婚の話が出てくるようになった。高校や大学の同級生でも、何人か結婚した人もおり、会社の先輩の結婚式にも出たことはある。そういう人達と話していて、総じて感じることは、配偶者との未来を皆一様に信じている、ということだった。
それはとても素敵なことで、憧れるような輝かしい姿で、同時に覚悟なのだろう、と雛子は思う。だからこそ、十年という長いときを恋人として過ごしたこの二人が、この先の未来も当たり前に隣で笑い合う姿を夢想し、雛子はとても温かな気持ちになった。
食事を済ませ、千穂と聖司とは駅前で別れた。ほろ酔いの肌に、寒い寒いと思っていた十二月の北風が心地よく、無性に嬉しくなって雛子は、ふふっと一人で微笑んだ。
共に電車に乗っていた清春がそれを目敏く見付けて問い掛ける。
「楽しかった?」
「うん、とても!ありがとう、連れてきてくれて」
そう大した距離ではないからと普通電車に乗り、乗車口付近に並び立って目まぐるしく変わる外の景色を眺める。夜の真っ暗な世界を沢山の街灯やお店、家の灯りが照らし出し、今日も終わろうという時間であるのに、どこか賑やかに感じさせた。以前立ち寄ったことのある本屋の明かりを見付けて、雛子は少し嬉しくなる。
「ご飯も美味しかったし、千穂さんも夏目さんもいい人で、お店の人も親切で。すごく好き」
店からの去り際、清春が店長と呼んでいた男性も、従業員の女性も『また来て下さいね』と優しく声を掛けてくれた。
高校時代の清春の話を聞かせてもらえたのも、雛子にとっては嬉しいことの一つだった。今では何かと落ち着いたと思う清春も、高校生のときはまだ中学生の頃のように突拍子のないことをしていたらしい。ずぶ濡れになっている姿を見つけて驚いたものだと、千穂が言っていた
「それにしてもすごいね。二人、十年も付き合ってたんだね。素敵だなあ」
「すごいよなあ。毎日毎日ずっと一緒にいて飽きないのかと思うけど」
何気無く発せられた清春の言葉に、雛子は少しひやりとする。少し穿った考えで彼の言葉を受け取るならば、清春は雛子と毎日顔を合わせるようになれば、遠からず飽きてしまうのだろうか。それとも、これまでの恋人とは、飽きてしまったということだろうか。
雛子は清春に、これまでの恋人に関して尋ねたことはなかった。もちろん気にならない訳ではなかったが、あまり根掘り葉掘り聞くのもしつこくて面倒に感じられてしまうのでは、と思うと聞けなかった。今は自分と付き合ってくれている。それだけで満足しなければ、と考えたのだ。
「僕はなあ、無償の愛も永遠なんてものも存在しないと思っていたんだ。だからこそ、僕の知らないどこか遠いところにあるといいって盲目的に願っていて」
珍しく、いつも笑っている清春が真面目な顔をして電車の外の景色へ目を向け、独り言のような調子で呟いている。
「あの二人がそれなんだって、ずっと信じていたいんだ」
そう呟く清春の横顔がどこか頼りなくて、雛子には少し寂しげにさえ見えた。彼はきっと夢を見ているのだ。あの出来たての夫婦にキラキラとした綺麗な夢を見ている。まるで、お姫様に憧れる少女のように、純粋で脆い憧れだ。
雛子は、自分も叶うならば清春とずっと一緒にいたいと思っていた。けれど短い付き合いの彼女が、どうしてだってそんなことを言えるはずがない。例え恋人同士の戯れだったとしても、口に出すには軽すぎる。




