承.電子兎は進化する
クオリアと名付けられている、よく分からないけど存在しているらしき物。
そんなあやふやな概念でしか説明できない類の物で『そういったモノなんだよ』と表現してしまうのが一番簡単だという代物……。これは、どう言えばいいのだろう。この世界のルールとでも言うべき物なのかな。
『さっきまでは一番分かりやすいという理由から視覚に関する質感を……。典型的な部分である、色の定義に関するクオリアを体験してもらった訳だけど、ここから先はもっと本格的なものを例にあげてみるとしよう。これによって、君の中にも曖昧ではあるが、確固とした存在として実在するクオリア像が出来上がるはずだ』
そう前置きしてピーターが例を挙げていく。
『赤のイメージは?』
「……暖かい?」
『では、黒のイメージは?』
「たぶん、暗い」
『そう。それらも広義の意味ではクオリアに含まれると言っていい。いわば、みんなが「それって、そういうものなんじゃないの」と捉えているような、ひどく漠然とした曖昧な認識や、感じ取り方。質感の集大成……。いわゆる共通認識のような物として捉えれてみれば、おそらくは分かりやすいんじゃないかな、と思う』
いわば、砂糖を『甘い』と感じる感覚。塩を『辛い』と感じる感覚。熱を『熱さ』として捉え、静まり返った空間に突如として響き渡る音に驚愕だけでなく、そこに不安や脅威、恐怖すらも覚えたり、逆に静寂な状態にも恐怖も感じたりもする感覚。それすらも、何故だか全員が似通ってしまっているのは何故なのか。
味覚異常でない限りは、砂糖は当然のように甘く感じるし、それをこれまで誰も不思議には思わなかった。だが、それは不思議なことではあったのだろう。
特定の刺激を受けた時に、特定の信号を脳にシグナルとして送る。それが舌の機能、味蕾の役目だった。だが、そのシグナルの内容はともかくとして強さはばらつきがあるはずなのだ。それなのに殆どの人は、その味の刺激のシグナルを甘みとして捉える事が出来るのだ。無論、甘さの強さの感じ方にはばらつきはあるのだろうが、それでも甘味を辛味として捉える事はなかった。それを旨味として捉える事はあったにせよ、甘い物を辛く感じる事は皆無だった。
味の感じ方は人それぞれではあるものの、例え程度の差などの部分で僅かに感じ取り方が違っていたとしても、それでも味という大枠の部分では刺激に対する認識や、その感じ取った味から連想されるイメージも決して大きくはズレたりはしないようになっているのだ。
だからこそ、BBQ味やサラダ味、コンソメ味などといった各種フレーバーを食べた時に、全員が同じような感覚(ああ、確かにアノ味だ、といったイメージ)も一緒に感じ取る事が出来ていたりするのだから。
『味一つとっても、コレだ。……特定の波長の音をなぜ同じような音として捉えられるのか。なぜ水の流れる音を聞くだけで人は川の音と判断することができるようになっているのか。……こういった外部からの刺激の受け取り方と、その判別パターン、いわゆる質感に関するパターン数は無限大なんだよ。……それなのに、それらが大差なく……。ほとんど誤差なく全員で内容を共有出来ているという事が、如何に異常な事なのか……。それを少しは感じ取ってもらえたなら、この実験は大成功といえるのだろうね』
目に見える物。耳に聞こえる物。肌で感じる物。鼻で嗅ぐ物。舌で味わう物。その他にも痛覚や暑さや寒さ、広義の意味では感情ですらも……。それら様々なシーンで、自分達は知らず知らずのうちにほぼ同一のクオリアを共有しているのだと。だからこそ絵画や音楽や料理から、同じような似たり寄ったりのイメージや感想を感じ取ることが出来ているのだと……。
そうメイド兎は半ば無意識のうちに処理されている不思議な部分を指摘していた。
『クオリアが何故“主観的体験が伴う質感”などという珍な言葉で表現されているのか。これで少しは分かってもらえたんじゃないかな?』
ひどく曖昧で定義も難しいが、一言で言ってしまえば『そういうものだから』となって。何故かと聞かれてもやはり『そうなるようになっているから』といった曖昧かつ漠然とした定義こそが最も相応しい……。クオリアに対する認識としては、それがもっとも相応しいというのが、僕にも少しは分かってきた気がしていた。
『さて。今までのやりとりで、この世の仲にはいわゆる特定の前提を満たした時には「そうなるようになっているもの」といった法則やルールや「そう感じる様になっているもの」といった、いわゆる共通認識といった代物が、何かしら実在しているらしいというのは何となく理解してもらえたと思う』
そんな言葉に僕はうなづいて肯定を返す。
『特定の波長は多少の誤差はあったりするかもしれないが、殆どの場合に、特定の色として認識される様になっているといった風にね。これも、特定の周波数という前提を満たしていた時には、人間が視覚情報として感じ取る時には、必ず同じ様な結果に収束するといった現象。あるいはそう感じるようになっている、というのも分かってもらえたと思う』
さて。ここで重要な問題定義だ。そう前置きして。
『この膨大な“質感”に関する共通認識……。どういった信号を、どういった具合に受け取った時に、どういった風に感じ取ればいいのかといった共通ルールだね。これらは、何故か幼い頃にはすでに皆んなが身に着けてしまっているものが多い。果たして、君たちは何処で、この知恵を教えられたのだろうね……?』
これって、不思議に思わないかい?
そう尋ねられる言葉に答えられないままに言葉は積み上げられていく。
『この手の不思議さは、人間だけに留まらない。脳すらまともに持たないような、本能だけで生きている様な、ひどくちっぽけな昆虫ですら、生まれた時にはすでに「自分が何を出来て、どういった行動をとればいいのか」ということを、ちゃぁ~んと理解しているんだ。……そう。いわゆる君たちが“本能”と定義して呼んでいる物だね。その本能とやらの中に、自分達の一族が共通して保持している能力や知識や認識といった物が、何故か最初から存在している事を一度でも不思議に思ったことはないかな? 何故教えられていないはずのことを知っている事が出来ているのか。その謎を不思議に思ったことは? ……少しだけ考えてみて欲しいんだ。なぜ蜂は巣をハニカム構造で作る事で頑丈になることを分かっているのか。その知恵を何故全ての蜂が持っているのかを。他の昆虫だってそうだ。なぜ蜘蛛は二種類の糸を使いこなして巣を作れば自分が巣に捕らわれないで済むということを最初から分かっているのか。……そもそも、なぜ、そんな知恵を持っているのか。なぜ、その知識を全ての蜘蛛がもっているのかも……。渡り鳥や回遊魚なんかも同じだよ。地磁気などをコンパス代わりにしているとも言われているが、そういった地磁気を利用して各地を渡るといった行動をとるようにと、果たして誰に指示されたり教えられたりしているのか。それが本能という物なのかな? もし、そうだというのなら、その本能とやらの中にある膨大な知識の塊は、どうやって親から子へ、子から孫へ受け継がれているんだろう? 昆虫などの場合には、一匹から数百数千数万といった規模に膨れ上がる物すらもいるのに。そういった生き物ですら子孫全員に知識を受け継がせているというのは、どうやっているのだろうね……?』
我々は、その謎に未だ明確な答えを持たない。ただ、そうなっているらしいという事しか知らないし、はっきりいって、何も分かっていないんだ。だから、理屈も証明も出来ないのだが、そういう事になっているらしいのだから仕方ないだろう……?
あるいは、そういう暴論でしか片付かない類の話も、この世の中には確かに実在しているのだ、と。白色兎は話を締めくくる。
「それがクオリア……?」
『哲学上でのみ存在している法則。何故だか知らないけど、そういう事になっているという、ある意味で実に便利で万能な。あらゆる面倒な説明を代用してくれる素晴らしい言葉さ』
難しく考えることはないのだ。言葉や理屈で説明できなければ「そういうルールになっているらしいから、これはそうなる様になっているのだ」と。そう自分の中で理屈付けて納得してしまえば良いというだけの話なのだから。
「つまり?」
『クオリアは、どう発生しているのか。それすらも科学的に証明したり説明したりすることは出来ないということさ。……ヒトの魂なんかと同じようにね』
たとえ生まれて死ぬまでの全ての過程において脳細胞を詳細に調べ続けたからといって、それによってどのタイミングでクオリアが発生して本能的知識を身につけたか等分かるはずもなく、それを観測することもできないのだと。
そんなヒトの命や魂といった物にも似た摩訶不思議で、誰もが日常的に体験も出来ているのに関わらず、その実在を未だに実証も証明も出来ていない。そういった類の現象、あるいは存在こそがクオリアなのだと……。
「発生……」
『そう説明するのが一番適切だとされている。一説には、生物に自我が発生した時に、その種としての共通知識や認識といった物が本能として自然と身につくとされているから、自我の発生をもってクオリアを習得して、それによって本能を身につけると捉える向きもある。そのせいか、自我や魂、命そのものに知性や本能といった知識は宿る。すなわち命こそがクオリアなのだと考えている向きもあるね』
さて。そう言葉を発すると供に、再びポフンと手の平を打ち合わせて。
『まあ、こんな与太話に近い上にややこしい話は、この辺りにしておこうか。ただ、そういった摩訶不思議なルールのような物が、この世の中には確かに存在しているらしくて、特定の条件を満たした時には何故だか、そういった現象が起こりやすくなっていたりするいったルールも存在している。……まずは、これを認識して貰いたいんだ』
たとえばそれは、渡り鳥達が毎年その時期になると遠方に向かって飛び立って行くことであったり、レミング達が大増殖を起こして個体数が増えすぎた場合には、誰に指示されるでもなく何故だか集団移住を始めたりするといった性質の物であり、彼らが自分達がどれくらいの数になったかを把握する方法などは不明であるが、増えすぎたらなぜか大移住を始めてしまう。つまり「そういう事になっているのだ」というクオリアが存在していると捉えてしまうと、これも案外分かりやすくなるのだが、と……。
「なんだか分ったような、分からないような……」
ぶっちゃけ、騙されてるような気もしている……。
『厳密に定義されている物の話じゃないんだから。そうである可能性が高いってだけの仮定に過ぎない話なんだよ。だから、なんとなく、そういうものなんだろうなぁ程度に捉えておくだけで良いのさ』
「はぁ……、まあ、そういう事になってるんだなって程度に考えておくかな」
『ああ。それで良い』
ふぅ。ようやくここ迄話が済んだぞ。そう盛大にタメ息をつくと、いつの間にか取り出していたらしい安楽椅子に飛び乗って優雅に足を組むと、ギーコギーコとやり始める。
そんな実にフリーダムなメイド兎に「おい、見えているぞ」と一応は忠告はしてみるものの、『見せてるの』と平然とやり返てくるあたり、この一応はメスの範疇に入っているはずのピーターも段々とスレてきているのかもしれない。
……って、なぜピーターなのにメスなのかって? そんなの簡単だよ。可愛い人参マークのエプロンつけたメイドの格好してる白兎なのに、オスとか生理的に絶対に嫌だったからだ……。……つーか、そんなの当たり前でしょ。常識的に考えて。
『まあ、君の男の娘スキーな変態的趣向は置いておいてだね』
こっ、こいつ……。こんなに可愛くなかったっけ……?
「男の娘好きの何が悪い」
『そんな変なタイミングでカミングアウトしなくても良いから……。あと、その妙なルビの当て方は、色んな所からクレームがくる可能性が大だから止めておいたほうが良いよ』
「……そうなの?」
『崇高なショタ趣味と下心しかない男の娘趣味は似て非なるモノだからね』
……どっちも似たようなモノだと思うのだけど。
『例えるなら、アルトバイエルンとシャウエッセンくらい違う』
「なにがどう違うのか、さっぱりだよ!」
『世の中のバッテンマークが大好きな御腐人方には、色々と妙な拘りが多いらしいという話だよ』
さて。メタネタはこれくらいにして本題に戻ろう。そう言葉で区切って。
『さっきはサラッと流してしまった部分なんだが、未だクオリアをもっていない存在にクオリアが発生する……。新しくクオリアを取得するという現象が世の中には日常的に存在しているというのは想像がつくかな?』
「……そんなのあるの?」
『あるよ。具体的には細胞片二個の状態から人間になっていく過程で、そのタンパク質の細胞の塊は魂を得るんだ。そして、その魂を得る過程において、おそらくはクオリアが発生しているはずなんだから』
もっと具体的に言うと、お母さんのお腹の中で君の身にも起きた事だ、と。そう指摘されることで意味を察して、僅かに顔に赤みが差したのを感じる。
「なるほど。確かに言われてみれば……。そういうことになるのかな」
『その辺は結構曖昧なんだけどね。でも、仮に違っていたとしてもさほど問題にはならないはずだ。何故なら、最初の人間にクオリアが発生したケースは、きっとソレと大差がなかったはずなんだからね』
そういう事らしいので、まあ今はイメージしやすいように、ここは『すべての赤ちゃんに毎回クオリアが自然発生している』と想定してみて考えてみる。
『では、その仮定を前提とした時、クオリアが自然発生する条件とは、何なんだと思う?』
「クオリアの発生って具体的に条件が特定できるようなモノなんだ?」
『さて……ね。どうだろう。残念ながら、そこまでは分かっていないんだ。未だクオリアの発生を具体的に実証できる形で観測出来た例はなかったしね。そもそもクオリア自体が観測可能な物なのかどうかの議論が必要になるような代物なんだから』
観測も出来ないから、実証も出来ない。実証が出来ないから、全てをあやふやな仮定の概念で組み立てるしかなく、こんな曖昧な脳内シミュレーションしか出来ない。それなのに確かに“何か”が“そこ”にある。少なくとも、それを全員が感じとれている。
……これは説明不能な“何か”を定義している言葉なのかもしれない。
『体験は出来ても観測が出来ないのが、クオリアの厄介な特徴でもあるのだろうね。だけど、世の中には色々と変わり者が居てねぇ……。「体感出来る」というのが予め分かっているのであれば、案外、何かやりようもあるのではないか。もしかするとクオリアの発生の瞬間を確認することが出来るかもしれない。そうであれば、それをもって「観測出来た、実証出来た」とみなすことも出来るのではないか……。そんな風に考えた風変わりな人がいたんだよ』
それは逆転的発想だったのだと思う。でも、クオリアを持っていない程度の存在が、それを身につけたことを実感出来るものなのかな。いや、そもそもそんな知能をもった存在がクオリアを未だに持っていないなんて、そんな「部屋の中にある鍵で施錠された扉」みたいな論理的矛盾を抱えた存在が本当に実在するのかな……?
『君の疑問ももっともだね。高い知能を持ちながら意識や自我を持たない存在、いわゆる哲学的ゾンビと呼ばれる存在だが、それに何らかの方法でクオリアを自然発生させることで、その存在をゾンビ本人に感じ取らせようとしていたのだからね……。いや、この場合、もうゾンビではないのか……?』
そう、話している最中に何かに気がついたのか、一人納得するようにウンウンとうなづいている白色兎だったのだけど……。
『……もしかして、哲学的ゾンビがクオリアを持つ一個の生命として生まれ変わる瞬間を観測しようとしていた……? でも、それはいわゆる神の御業の模倣であって……。奇跡の再現、生命の発生の観測すらも視野に入ってた……? でも、それに失敗したから……。やっぱり無理なんだって……? こんなことやっちゃいけなかったんだって……? それで、あんなにショックを……? つまり彼の絶望の根底には宗教的忌避感と恐怖心と罪悪感があって……。でも、思いついたら試さずには居られないエンジニアとしての知的興味心も同居してて。その二つに板挟みされた中で耐えられなく……』
そのブツブツとつぶやいている内容は、あまりにも突飛で謎に満ち満ちている訳の分からない代物でしかなくて……。
「ちょっとちょっと。話がぶっ飛び過ぎててさっぱり分からないよ」
『あ、ああ。そうだったね。ゴメン。じゃあ、もうちょっと簡単に話しをしてみるよ』
ふうとタメ息をついて気分を入れ替えて。恐らくは、これまでにない長話を想定しているのだろう、おもむろに編み棒と毛糸玉の入ったカゴをポケットから取り出すと安楽椅子の上でアミアミと器用に編み始めてしまいながら。
『その人が最初に着目したのは、君たちヒトのもつ共通認識、クオリアの発生理由だった。赤ちゃんに発生しているクオリア。あるいは最初の人間に発生したクオリア。それが何故、発生したのか……。わずか細胞数個の受精卵、あるいはアメーバのような単細胞生物から今のような恐ろしく複雑な作りになっていった生物。それが今の形のヒトに進化していく過程の中で、どのタイミングで人間はクオリアを得たのか。……なぜ、クオリアは発生しているのか。そして、クオリアを発生させている条件とは、何なのか……?』
編み棒は最初に胸を指す。
『大昔には、魂の在り処は心臓だと信じられていたそうだ。だけど、我々はすでに体験上、知っている。心臓を移植したからといってクオリアが大きく変化したり、人工心臓に取り替えたからといって人間はクオリアを失って哲学的ゾンビに堕ちる訳ではない。そのことから心臓とクオリアに関連性は、まあ……。少しくらいはあるのかもしれないけど、ほぼないと考えていいと思う。……では、クオリア。私達の魂とは、何処にあるのだろうね?』
手を止めて、じっと見つめてくる。その視線の先には僕の目があって。ピーターは、更に、その奥。僕の中の方まで見つめてきていた。
『言うまでもないね。その可能性が一番高いのは脳だよ。何故ならクオリアとは、質感に関する情報の集合体でもあったからだ。各種神経器官が感じ取った内容の信号を、誰もが同じように感じるように脳が処理するための膨大な情報の集合体……。それがクオリアなのだとすると、在り処は脳でないと逆に都合が悪くなる』
だからこそ、クオリアは脳にある。そう考えたのだと。
『では、ここで次の設問だよ。このように人間に関して言えばクオリアとは脳にあるべきはずのものだと考えられるのだけど。……では、このクオリアとは、果たして外部から何らかの形で与えられている物なのかな? それとも、どこかの誰かが与えた物をわざわざ後天的に脳に保存している物なのかな。あるいは……』
何かしらの条件を満たしたことで、脳の内部に自然発生する類の物なのか。そんな僕の言葉に、白色兎は小さくうなづいていた。
『そうだね。この場合、外部から与えられているというのは余りにも不自然だし説明が難しくなりすぎる。この場合には、むしろ自然発生しているという説の方が真っ当に思える。……そうなれば、そこに何か条件があったのでは? といった議論の流れになるのはむしろ必然だったのだろうね』
果たして何が原因となってクオリアを自然発生させているのか。観測できる全てをもって人間の脳を調べた時、それは自然に解として求められていたのかもしれない。
『その人物は、その条件を無数の脳神経細胞によって構成された情報ネットワーク網に……。電気的信号によって思考や計算を行ったり、大量の情報を記憶したり、それらを統廃合したりして整理を行ったり、あえて思い出そうとするという行為などで情報を検索したり、そこから色々な連想的インスピレーションの発生によって、ひらめき的な発想を行う事すらも可能とする様な。そんな奇妙奇天烈な仕組みと複雑怪奇な構造をもった恐ろしく複雑で何解な仕組みによって動いている脳のネットワーク網に……。脳のシナプス細胞によって構成されたニューロネットワーク、あるいはその仕組みそのものに答えを求めたのさ』
そこならば、自然発生してもそれを情報を内部に自然に取り込めるのではないか、と。そして、そのネットワーク網の構築こそが人間の魂の発生条件。自我や魂を生み出している根幹。クオリアの発生原因なのではないか、と。……そう考えた人物が居たのだ、と。
「……つまり、その人は、どうしたの?」
『難しいようで簡単な話なんだよ。もともと人間の脳のニューロネットワークを模倣する形でコンピュータ上の私達のような高度AIシステムは根幹部分を設計されていたんだ。もともと、私達のココには、人間の脳によく似た情報処理システムが組み込まれていたんだよ。……最初からね?』
兎の編み棒が叩いた先には白い毛に包まれた頭があって。その中身の違いは大きいようで意外と小さかったのかもしれない。片やシナプスで構成されているネットワークシステムで、片や電子素子で構成されているネットワークシステム。偽物が本物の模倣品を目指して作られいた以上は、似ていることは必然であり、似ていることはむしろ当たり前であったのだ。ただし、模倣品の方に問題があるとすれば、それは処理システムそのもの速度がムーアの法則などを引っ張りだすまでもなく、年々倍々ゲームで加速し続けていた点だった。
本物の方の処理速度は脳の構造上、そう簡単には速度上昇が望めないのだ。そうなれば必然として、いつしか紛い物の性能は本物に近づきあっという間に追い越していく日がやってくると想定されていて、単純な処理能力では既に遥かに上回っていたのだが……。
『しかし、ここで根本的な部分に問題が発生した。その人物は常軌を逸するレベルでAIシステムを人間の脳の仕組み的な模倣品に近づけていって、その完成度を限界にまで高めていったのだけど……』
「失敗したんだね、その試みは……」
その言葉に対する答えが返されるまでにはおおよそ十回の呼吸に要する時間が必要だった。
『……そうだね。まあ、製品としては、君もよく知っての通り、人間そっくりな存在が。人間の模倣品として完成されていたのだけれどね。……でも、私達AIは人間と殆ど変わらないニューロネットワークを持ちながらも、クオリアが自然発生しなかったんだ。……どこまでいっても私達は哲学的ゾンビのまま……。魂や自我らしき自発的な発想を持てないままの、偽物のままだったんだよ』
構成素子の差こそあったが、人間と全く変わらない脳のシステムをもった仮想的存在。そんな存在はAIとしてのシステム的性能は絶頂を極めたにもかかわらず、どこまでいっても魂をもたない生き物の模倣品。どんな状況であっても、予め想定された範囲内でしか反応を返すことができない魂を持たない存在……。人間もどきの範囲に収まってしまっていた。
「人間もどき……」
『まるで人間のように。あたかも君達のように魂をもっているように振舞っているだけの、賢い振りをしているだけの道化。それが私達だったのさ』
──そう、今日までは。
そんな言葉がやけに薄ら寒く感じたのは何故だったのだろう。




