第5話 春木先輩、髪フェチへの目覚め
「つ、疲れたぁ……」
放課後、俺は教室を出て、学校の廊下を歩いている。
昨日はゆにちゃんが教室に迎えにきて、大騒ぎになった。
なのでてっきり今日はクラスメートから質問攻めに遭うと思っていたのだけど……実際は逆だった。
誰も何も聞いてこない。
みんながみんな、すごく生温かい目で俺を見つめてくる。
……何も言わなくていい……。
ああ、分かってるぜ、春木……。
……幸せになれよ……きっとなれよ…………。
…………でも小桜さんを泣かせたら許さねえからな……。
そんな心の声が生温かい眼差しを通して、一日中、脳内に直接聞こえ続けた。
おかげで本当に疲れた。
頭がどうにかなるかと思ったよ。
「はぁ……」
というわけで、生殺しの拷問みたいな時間がやっと終わり、俺は部室に向かっている。
部室がある南校舎辺りはあまり人通りがない。
リノリウムの床に上履きの足音が静かに響く。
部室ではゆにちゃんが待ってるはずだ。
「…………」
ゆにちゃん。
ずっと小桜さんと呼んでいたけど、ここ数日でさすがにこの呼び方にも慣れてきた。
彼女は俺に好意を持ってくれている……のだと思う。
直接聞いたわけじゃないけれど、さすがの俺でもそれぐらいは分かる。
でも、どうして……?
はっきり言って、俺はとくに目立つところもない、モブ生徒だ。とてもじゃないけど、ゆにちゃんみたいな可愛い子に好意を持ってもらえるような立場じゃない。
ゆにちゃんは一体、こんな俺のどこを気に入ってくれたんだろう。
「……って、自分で言ってて悲しくなってくるな」
思わずため息をついてしまう。
まあ、考えたって仕方ない。
微妙な憂鬱さを振り払うために、廊下の真ん中で首を振る。
すると、ふと窓の向こうが気になった。
「……あれ? ゆにちゃん……?」
中庭に見慣れた後ろ姿があった。
リボン型のバレッタと長い髪。
間違いなくゆにちゃんだ。
どうやら花壇の花を見たいらしく、そっちの方へ歩いていっている。
しかしそのまま見ていたら、
「あっ」
細い足がつんのめり、彼女はカクンッと地面に膝をついた。
ゆにちゃん、転んじゃった!
花壇のそばはレンガで舗装されてるので、そこにつまずいてしまったようだ。
――大変だ!
俺はすぐさま床を蹴って駆け出した。
廊下を進み、中庭へ続くガラス扉から外へ。
「ゆにちゃん、大丈夫!?」
「あ、春木先輩」
顔を上げた彼女は思ったより元気そうだった。
ホッとする反面、見れば……ゆにちゃんの右の膝は少し赤くなっている。
どうやら擦りむいてしまったらしい。
俺はしゃがみ込んで傷を看ようとする。
「平気? 痛くない?」
「あっ、見ないで下さい……!」
なぜかぐるんっと背中を向けられてしまった。
「え、でも……擦りむいてるよね?」
「擦りむいてません」
「や、擦りむいてたよ? 痛いでしょ? ちょっと見せて」
「大丈夫です。擦りむいてません。痛くもないですし、わたしの足、超合金で出来てるのでノーダメージです」
超合金て。
知らなかった。
ウチの後輩は昭和のオモチャだったらしい。
でも今はそんな冗談に乗ってる場合じゃない。
「馬鹿なこと言ってないで。いいから見せて」
「やーっ、春木先輩のえっち!」
文句を言われたけど、動けないように肩を優しく抑えて正面にまわった。
するとさっき見た通り、右の膝にうっすら血が滲んでいる。
「やっぱり擦りむいてる。膝から転んじゃってたもんね」
「見てたんですか?」
「うん。そこの廊下から」
「う~……っ」
不満いっぱいのお顔だった。
「そうですよぉ。花壇のお花がきれいだったから近くで見ようと思って……そしたら途中で転んじゃったんです」
「素直に看せてくれればいいのに」
「だってぇ……わたし、有能な策士キャラなのに何もないところで転んじゃったなんて、格好悪いじゃないですかぁ」
有能な……策士キャラ?
あー、言われてみれば、ゆにちゃんは色々と作戦を立てて物事に当たっている節がある。
確かおばあちゃんの影響で、時代劇とかも好きだって聞いたことがあるような……。
「策士だって怪我したら治療しなきゃでしょ?」
「でも黒田官兵衛や諸葛孔明はきっと生涯、膝なんて擦りむきませんでした」
「いや戦国時代や三国志の人なんだから普通に擦りむいてたと思うよ?」
むしろ現代より怪我は多かったと思う。
そんなことを話しつつ、ゆにちゃんの膝を見る。
幸い、本当にちょっと擦りむいただけみたいだ。
「そこの水道まで歩ける?」
彼女に手を貸し、花壇の水撒き用の水道に移動。
そこで膝を洗い、花壇の縁に座ってもらった。
「ちょっと待ってね」
通学鞄を開け、なかから消毒液と絆創膏を取り出す。
すると、ゆにちゃんが目を丸くした。
「春木先輩、保健委員でしたっけ?」
「え? いや図書委員だよ?」
「じゃあ、なんで……?」
「ああ、これ?」
しゃべりながら消毒液のキャップを開ける。
「以前に下校中に目の前で小学生の子が転んじゃったことがあったんだ。その子はすぐにお母さんが家に連れて帰ってくれたから良かったんだけど、そういうこともあるし、これくらいは持っててもいいかな、って思って」
「それで……ずっと持ち歩いてるんですか?」
「うん。あ、ちょっと沁みるかもよ?」
断りを入れて、消毒液を噴きかける。
途端、ゆにちゃんの体が跳ねた。
「ひゃう!?」
「ごめんごめん、やっぱり沁みちゃったね。もうちょっとだけ我慢して」
「う~……っ」
ポケットからハンカチを取り出し、膝の消毒液を拭き取ろうとする。
すると、ゆにちゃんが声を上げた。
「あ、春木先輩、それ」
「大丈夫。こういう時のための予備のハンカチだから、ちゃんときれいだよ」
「予備のハンカチまで……や、そうじゃなくて、汚れちゃいます」
「いいよ、そんなの」
思わず笑ってしまった。
「ハンカチよりゆにちゃんの方が大事だもん。気にしないで」
「あう……」
消毒液を丁寧に拭き取り、絆創膏を貼る。
「よし、これでもう大丈夫。……ん? ゆにちゃん?」
顔を上げると、なぜかゆにちゃんはうつむいていた。
でも治療のために膝まづいていたので、俺からははっきりと彼女の顔が見える。
なぜか頬っぺたが赤くなっていた。
「そういうところ、本当そういう……自然体でクリティカル打ってくるところです!」
「へ?」
「……っ。もーっ!」
両肩を手のひらでぺしぺし叩かれた。
ぜんぜん痛くはないけど、ワケが分からない。
「ありがとうございましたっ! お礼になんでも一つ言うこと聞いてあげます!」
え、すごい。
お礼を言われてるのに、なぜか叱られてるような気分。
こんなの人生、初めてだ。
「なんでもって……なんでもいいの?」
「はい、なんでもいいですよっ。鶴の恩返しならぬ、ゆにの恩返しです。羽で機織りだってしてあげちゃいます」
「じゃあ……」
「じゃあ?」
ちょっと考えて、俺はお願いする。
「今夜、お風呂入った後、ちゃんと絆創膏を貼り直してね? これくらいなら跡は残らないと思うけど、やっぱり心配だから」
「もーっ!」
またペシペシ!
ほ、本当にワケが分からない……っ。
「もっとあるでしょー! ほら、パンツ見せてとか!」
「なんで!? どっから出てくるのさ、その発想!?」
「どっからもそっからも今の一連の流れからですー! 春木先輩、まったく気づいてませんでしたけど、膝の治療してくれてる間、ずっとわたしのスカートが目の前だったんですよ!? まったく気づいてませんでしたけどっ!」
「え?」
一瞬、思考がフリーズ。
しかし直後に気づいた。
「うわぁ、本当だーっ!?」
折れてしまいそうなぐらいの細い太もも。
布が薄くて防御力の低そうな、ひらひらのスカート。
それらが目の前にあることに気づき、俺は慌てて飛びのく。
一方、ゆにちゃんは両手両足をバタバタ振って悔しがる。
「こんなラッキーエッチなシチュエーションなのに気づいてもらえない、わたしの女子力とは!? 美少女の沽券に関わります! 悔しさとトキメキでわたし、どうにかなっちゃいそうです!」
「ご、ごめん! なんかひたすらにごめん……っ!」
「謝られるのもなんか違うーっ!」
「ええっ!?」
「罰として頭なでなでして慰めて下さいっ」
治療したのになぜか罰を与えられることになってしまった。
しかし、さすがに今回は俺が悪いと思う。
なので謹んで罰を受けることにした。
「えーと、それじゃあ……」
ちょっとおっかなびっくり手を伸ばす。
なんせ女の子の頭を撫でた経験なんてない。
牛歩のような速度で近づき、やがて指先がきれいな髪に触れた――その瞬間。
うわ、柔らか……っ。
ちょっと感動してしまった。
艶があって、きめ細かくて、指先からこぼれていく感触が気持ちいい。男子の髪とは大違いだ。
「春木先輩?」
「あっ」
しまった。
感動してる顔を見られてしまった。
変態だと思われる……っ。
でも彼女の反応は予想外のものだった。
感動顔の俺を目にして、ゆにちゃんは驚いたように目を見開く。
そして「あはっ」と嬉しそうに目を細めた。
「女の子って感じがします?」
「え、うん、それはもちろん……」
「えへへ」
こぼれるような笑みだった。
何がそんなに嬉しいんだろうというぐらい、心底嬉しそうな笑顔だった。
「じゃあ、もっと撫でてくれていいですよ?」
「あ、うん……」
言われるまま、彼女の髪を撫でていく。
細い髪が絹糸のように指の間を滑っていく。
なんだか……ひどくドキドキした。
そんな俺を見て、彼女は嬉しそうにずっと微笑んでいる。
放課後の中庭。
ふわふわした不思議な気持ちで、俺はしばらく彼女の髪を撫で続けた――。
次話タイトル『第6話 アルパカの逆襲、ゆにうさぎちゃんの誕生』
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