第10話 どうかこの恋が叶いますように、わたしは星に願いをかけて
空は赤い夕焼けに染まっていた。
しかし太陽自身は西へと半身を傾け、東の空はすでに夜の帳が下り始めている。
やってきたのは高校からほど近い、アスファルトの小さな橋。
涼しげな音を響かせる川の上に築かれ、たまに大きなトラックが通るけど、人通り自体はあまりない。
「ここに来るのは久しぶりです。ちょっと懐かしいかも……」
軽やかなステップを踏み、ゆにちゃんは橋の中程へと歩いていく。
俺はその後ろをゆっくりと追っていた。
「春木先輩、わたしと初めて会った時のこと、覚えてますか?」
「もちろんだよ。忘れたことなんてない」
「本当ですかー?」
ゆにちゃんは肩越しに振り向き、からかうように笑っている。
俺は苦笑で答えた。
「本当だってば」
この橋は俺とゆにちゃんが初めて会った場所だ。
約半年前の12月。
俺はまだ高1。
ゆにちゃんは中3の受験生だった。
「覚えててくれてるならいいです」
ゆにちゃんは立ち止まると、橋の欄干に寄りかかった。
ああ、そうだ。
あの時も彼女はこうやって橋に寄りかかっていた。
「これ、今はパスケースに入れてるんですよ?」
そう言ってポケットから取り出されたのは、1枚の写真。
彼女の言う通り、桜色のパスケースに大事に入れられている。
以前に見せてもらったことがある。
あれはゆにちゃんのおばあちゃんの写真だ。
――12月のひどく寒い日。
俺はたまたま家を出るのが遅れ、ショートカットのためにこの橋に立ち寄った。
その時、今と同じように欄干に寄りかかっていたのが、ゆにちゃんだった。
当時の彼女は受験間際で、きっと不安に駆られていたのだろう。
まるでお守りのようにおばあちゃんの写真を持ち、たった一人で立ちすくむように佇んでいた。
当時の俺は遅刻しないように走りつつ、彼女に気づいて目を瞬いた。
『……中学生? こんな時間に?』
中学校は反対方向だ。
不思議に思ったけど、受験生ならもう授業もないのかもしれない。
そんなことを考えながら橋に差し掛かった時、ふいに強い風が吹いた。
写真が――飛ばされていった。
吹きすさぶ風に対して、彼女は無抵抗だった。
髪が風に乱れ、体は微動だにせず、指先は写真を追わない。
ただその瞳だけが色を失っていくのが分かった。
あの写真は、きっとあの子の大切なものだ。
そう直感した時には欄干を蹴り、俺は橋から飛び出していた。
『え……』
耳に残ったのは、呆気に取られたような彼女の声。
俺は空中で写真をキャッチし、そのまま川にドッボーンッと落下した。
「あの時は心底びっくりしました。誰かが横を通ったと思ったら、そのまま景気よく川に飛び込んじゃうんですもん」
ゆにちゃんは欄干に寄りかかったまま、楽しそうに笑う。
その表情は、あの冬の日とは似ても似つかない。
一方、俺は何とも言えない顔で頭をかいた。
「いや……びっくりさせるつもりはなかったんだよ。あの時はなんか必死で……」
どうにかして写真を捕まえないと、彼女が壊れてしまうような気がした。
根拠なんてなかったけど、彼女の目を見てそう思った。
今にして思えば、そんな思い込みで橋から飛び降りるなんて、恥ずかしい限りである。
結局、写真は俺と一緒に川に落ちた。
でも汚れを落として乾かしたら、きれいになったそうだ。
確かに風は強かったけど、写真の一枚や二枚、そう遠くへ飛んでいくとも思えない。
あとで拾えばいいだけのことだったので、思い返すと俺はかなり恥ずかしいことをしたと思う。
「ごめんね、あの時は受験生のゆにちゃんに余計なことしちゃって、反省してます」
「余計なことなんかじゃありませんよ」
パスケースを握り締め、彼女は柔らかく笑った。
「春木先輩はわたしを助けてくれました」
「え? でも……」
ゆにちゃんが振り返る。
そして悲しそうに、少しだけ肩をすぼめて。
「わたしのおばあちゃん、天国に行っちゃったんです。去年の夏に」
「え……」
思わず言葉に詰まった。
それは……知らなかった。
ゆにちゃんはおばあちゃんの影響で三国志や戦国時代が好きで、自分を策士キャラだと言うのもたぶんそれが下地になっていて、そういう話は聞いていたけど、まさか……。
「わたしの家、共働きで……お父さんともお母さんとも仲は悪くないんですけど、子供の頃から育ててくれたのは、おばあちゃんでした。だからわたし、すっごいおばあちゃんっ子で……」
夕焼けのなか、彼女は目を細める。
在りし日に想いを馳せるように。
「だからおばあちゃんが天国に行っちゃっても、それを上手く飲み込めませんでした。お父さんもお母さんもおじいちゃんも、わたしのことを心配してくれたけど、『大丈夫』って言い続けました。ほらわたし、ハイレベルなウソつきなので」
それは……きっとウソとかじゃない。
生々しい傷を受け入れられなかっただけだ。
「頑張って笑顔を張り付けて、ずっと日々を過ごしました。でもそうしていると自分の心と体がどんどんかけ離れて……ある日、とうとう限界を越えちゃいました。それが――あの冬の日」
ゆにちゃん曰く、あの日は学校をサボっていたそうだ。
おばあちゃんが亡くなってからというもの、世界からどんどん色が失われていくように思えて、もう受験も将来もどうでも良くなって、この橋で佇んでいた。
唯一の心の拠り所は、ずっと肌身離さず持っていた、おばあちゃんの写真。
それが――風に飛ばされた。
写真が指先から離れた瞬間、おばあちゃんが遠くに消えてしまうような気がした。自分の心がひび割れる音が聞こえた。もうこれで自分は決定的に壊れてしまう。
そう感じた、次の瞬間。
「どこかの誰かさんが飛び出してきて、わたしの心の拠り所を掴み取ってくれたんです」
ゆにちゃんは桜色のパスケースを胸に抱きしめる。
何より大切な宝物のように。
「あの時、あの瞬間が大事だったんです。たとえ川に下りて写真を拾っても意味がない。春木先輩が写真を掴んでくれた時、思いました。――この人がおばあちゃんとわたしを繋ぎとめてくれた、って」
透明感に満ちた瞳が俺を見つめる。
ありったけの感謝と憧憬を込めて。
「わたしには春木先輩がヒーローに見えました」
……参ったな。
俺は困り果てて頭をかく。
あの時の自分の行動がゆにちゃんの役に立ってたなら嬉しい。頑張って飛び出した甲斐があったと思う。
だけど……。
「俺はヒーローなんかじゃないよ」
そんな大層なものじゃない。
俺はどこにでもいる、ただのモブ生徒だ。
そう告げた途端、彼女は噴き出した。
「あはっ」
「え?」
笑われて目が点になる、俺。
ゆにちゃんはパタパタと手を振る。
「言われなくても知ってますよ。それこそ嫌と言うほど」
「い、嫌と言うほど?」
「はい。骨身に染みて知ってます」
なぜか得意げな顔で彼女は言う。
「だって春木先輩、アルパカですもん!」
「えー……」
ヒーローから一転、草食動物になってしまった。
それはそれでガックリきている俺へ、ゆにちゃんはさらに言い募る。
「いいですか? わたしは憧れのヒーローを追って一念発起しました。頑張って勉強して夏からの遅れを取り戻して、『ぜったい受かりますから!』って頼み込んで、1月のうちから手芸部にも出入りさせてもらって、そして憧れのヒーローに猛アタック」
「え、猛アタック? そんなことしてた?」
「はい、アルパカーっ!」
「うわ、すみません!?」
ビシィッと指を突きつけられ、俺、平謝り。
ゆにちゃんはプンスカしてる。
「しましたよ! お菓子作ってもってきたり、オシャレして気を引いてみようとしたり、それこそ今日の風紀委員の先輩さんと同じように! な、の、に! まったく気づかない! 自信が粉砕されて自分が美少女だってことを忘れそうになったんですからねー!」
「ほ、本当すみません……っ!」
とにかく平謝りするしかなかった。
そっか、ゆにちゃん、そんなに色々努力してくれてたんだ……。
言われてみれば、ゆにちゃんのことを相談した時、近藤も似たようなことを言ってた気がする。
確か……『たぶんその子、今までも春木にアプローチして来てるぜ? でもぜんぜん気づいてもらえなくて、ついに直球勝負に出たってとこだろう』だったかな?
俺、かなり鈍感だったのかもしれない……。
「正式に謝罪致します。大変申し訳ございませんでした……」
「よろしいです。正式に謝罪を受け入れましょう。以後は気をつけて下さいね?」
俺が深々と頭を下げると、ゆにちゃんはドヤ顔でうなづいた。
そうしてしっかり俺を詰め終え、彼女は肩から力を抜く。
「でもまあ、そんなアルパカな春木先輩も意外に悪くありませんでした」
「……そうなの?」
「はい」
ふふ、とゆにちゃんは笑う。
「春木先輩はわたしはもちろん、他の人からのアプローチにもぜんぜん気づかなくて、心底思いました。『あー、この人、本当ダメだなぁ』って」
「ダ、ダメだなぁ……」
「でもそれがだんだん『わたしがどうにかしてあげなきゃ』に変わっていったんです」
むん、とゆにちゃんは気合いを入れた顔をしてみせる。
「わたしの『アルパカ先輩、人間化計画』の始まりです」
「そんな壮大な計画が……」
「毎日、あれこれ策を考えて、試行錯誤を繰り返して……そんな日々を送っているうちにふと気づきました」
ゆにちゃんは目を閉じ、自分の胸に手を当てる。
「わたし、立ち直ってる……って」
柔らかな風が吹き、彼女の髪を揺らした。
瞼が開かれ、そこにいるのは、真っ直ぐに前を見つめる少女。
「あなたを追う日々がわたしの世界にもう一度、光をくれた」
ほのかな笑みを浮かべ、彼女は背を向ける。
きれいな髪が舞い、彼女の見上げる先には、美しい夜空が広がっていた。
「ヒーローじゃなくていい。鈍感で、にぶくて、アルパカみたいで、でも誰より優しくて、一緒にいると楽しくて、胸が自然と温かくなる……そんなあなたに惹かれたんです」
彼女が見つめるのは、一番星。
夜のヴェールのなかで鮮烈に輝く、銀色の光。
そんな一番星に願いを掛けるような間を置いて、彼女は囁く。
「ここまで本当に長かった……。でも今なら届く。今なら伝わる。そう思えます。――春木先輩、今、気になる女の子がいるんですよね?」
背中越しにストレートに聞かれ、俺はドキッとしながらうなづく。
「う、うん」
「だったら、わたしも――っ」
鮮やかに髪が舞い、彼女は勢いよく振り向いた。
「春木先輩っ!」
一番星が輝く、夜空の下。
2人だけの小さな橋の上。
朱に染まった頬。
今にも泣きそうな必死な瞳。
過去も。
今も。
未来も。
すべてを懸けた、ありったけの想いで彼女は声を張り上げる。
「わたし――」
届いて、と祈りを込めるような眼差しで。
「――あなたが好きですっ!」
その瞬間、「……っ」と心臓がかつてないほど跳ね上がった。
何一つ包み隠さず、真っ直ぐに向けられた、彼女の気持ち。
それを前にして、俺は――っ。
次話タイトル『第11話 仏道を捨て、草原を駆け、今――主人公が目覚める!』
次回更新:明日




