第六話 白い甲殻の魔物
魔物が大盾のような爪を正面に構えているせいで顔は見えませんが、一番近い生物を挙げるなら、カニでしょうか。なんにせよ、目の前のソレが、聞いたことも無いような魔物であることは確かでした。
見つかってしまった以上、私が取れる手段は二つです。逃げるか、戦うか。
見るからに硬そうな甲殻に、先程の突進。はっきり言って、まともな攻撃手段のない私では、仕留めるのは難しそうな相手です。
ですが、近くにはあの男の子がいます。彼が非武装である以上、ただ逃げるという選択肢は取れません。最低でも、魔物を遠くに引き離してから逃げないと。考えながら、私は手のひらを胸に当て、頭上に杖を掲げます。
「自然に漂う無垢なる魔力よ!」
後退りして距離を取りながら精神を集中させ、魔術を練り始めますが、相手がしばらくこのままで、待ってくれるとも思えません。
それでも、もしあの魔物がさっきのように単純な突進しかして来ないのなら、攻撃を避けながらでも、魔術を完成させることはできるはずです。
「巡る地脈と我が身を繋ぎ……!」
思った通り、魔物が取った行動は、突進でした。二本の爪を振り上げながらの跳び込むような突進。私はできるだけ精神を乱さないよう、また岸側へと跳びます。魔物は私のいた場所を大きく通り過ぎてから、砂浜に着地しました。
「揺ぎ無き活性の法を成せ! 強壮陣!」
瞬間、両足から指先にかけて瞬く若草色の魔力の光。詠唱をもって私が作り出した、全身を駆け巡る魔力の流れ――強壮陣――は、事前に使っておくことで、以後に蓄積する肉体疲労を軽減する……ただそれだけの癒術です。
はっきり言ってパッとしない、地味で些細な魔術ではありますが、これを使うと使わないとでは、以降の立ち回りに決定的な差が出てしまいます。私の未熟な身体では、こうでもしてスタミナを担保しなければ、大声で癒術を詠唱しながら、瞬間的な運動をすることなどできそうにありません。
「さて……それじゃやりましょうか」
両目でしっかりと見据えた視界の先には、先程の魔物の姿があります。正面から打ち倒すことは難しいでしょうが、何も相手を打ち負かすだけが冒険者の戦い方ではありません。このまま私が魔物の注意を引き付けつつ、遠く逃げ去りでもしてしまえば、男の子も私も、無事にこいつをやり過ごせるはずです。
だから私は杖を構えます。相手の一挙手一投足を見逃さないように、些細な動きも見逃さないよう、目の前の魔物だけに注目して見せます。
――その考えが、仇となりました。
「何か大きな音がしたが……?」
位置関係で言えば、私ではなく魔物側。白く霞んだ霧の向こうから、男の子が姿を現しました。魔物の白い甲殻のせいでしょうか、彼は白い砂浜と霧に紛れた、魔物の姿に気が付いていませんでした。
「私に従い――」
反射的に呟き、私は彼の救出を試みますが、遅すぎます。
あと一言で完成する魔術の、その一瞬の隙を突いて、魔物が大きく身を屈めたのがわかります。
それでも今更、魔術を止めるわけにはいきません。
「ここへ寄れ!」
咄嗟に走り込みながら詠唱を終え、まっすぐに向けた杖の先で、男の子の身体を引っ張ります。その感覚で、流石に彼も気が付いたようです。私がただ引っ張るだけではきっと間に合わず、ただ彼が避けようとするだけでは距離が足りない――そんな紙一重の間隔で、彼が魔物の爪を避けました。
「ぐうっ!」
結果として魔物は彼のすぐそばに着地し、しかしてその代償として彼の身体は倒れます。砂浜に伏した彼の身体を、そのままの姿勢で追いかけます。走り込んだ身体はもう止められませんし、止めるつもりもありません。
とにかく、彼が追撃を受ける前に救出しなければ!
そう思ってふと、目線を横にやったところで、違和感を覚えました。
――魔物が、また、大きく身をかがめている?
「飛び込んでくるぞ!」
男の子のその言葉で、ようやく思い当たりました。
白い甲殻の魔物は、彼ではなく私の方を向いていました。走り込むために前方に傾けた私の身体では、その身を逸らすことはできません。
――間に合わない。
そんな僅かな思考の間にも、魔物はこちらへ飛び込んできていました。
私は咄嗟に、手に持つ杖と両腕で、頭をかばいました。
直後に伝わる破砕音――杖が真っ二つに折れる音。
それだけでなく"他の何か"も折れる音。
何もない中空に投げ出されたような浮遊感に続いて、衝撃が伝わります。
遅れてきた、全身全部が飛び出しそうなほどの衝撃で、私の意識が飛んで、
――はぁっ!
肺から空気が追い出された音で、いつの間にか、自分が仰向けに倒れていたことに気が付きました。背中に伝わる冷たい感覚は、海水でしょうか。そういえばここは波打ち際でした。
「はっ、はっ、はっ……」
短く小間切れでもいいから、とにかく息を吸い、意識をはっきりさせます。
痛みで思考が鈍りますが、考えることはできます。
大丈夫。状況は理解できます。
私はただ、あの魔物に一撃負わされただけです。
その一撃で突き飛ばされて、この水際に、背中から叩きつけられただけ。
それで押しつぶされていないということは、まだ距離はあるはずです。
だったら、追い付かれる前に立ち上がらないと。
「つッ! あぁあっ!」
身体を起こそうとして、左腕に激痛。
先ほど、魔物に突き飛ばされた時に、やられてしまったようです。
握りこまれた右手には、頭側だけの半分になった杖がまだ残っていましたが、その手は酷く麻痺していて、無事かどうかもわかりません。
それでも動く腕で、手首を地面に突き刺して、私は身体を起こします。
膝を曲げ、前を向きます。
それでも……私は、
ただ身体を起こすのに、時間をかけすぎてしまいました。
「はっ」
顔を上げ、ズレた帽子のフチ。
真正面を見てみれば、魔物が居ました。
魔物の正面は、ほとんどが白い甲殻で、
そんな中で、驚くほど下の方に付いた二つの黒い目が、
黒く濁った無機質な目が、私を見ていました。
視界の端で、魔物の爪が、動きます。
もう一度頭をかばおうにも、
右腕は、地面に立ててしまっていました。
「目を閉じろ!!」
私は咄嗟に、その通りにしました。
『フスーッ!!』
「がっ!? げほっげほっ!!?」
刺すような激臭と呼吸困難。
聞いたことのない音とともに、そんな苦しみを感じます。
「っ!? ごぼぼっ!?」
背中と頭に冷たい感覚。そして口には辛い水。
咄嗟に仰け反り、後頭部を地面を付けた私に、それらが襲いかかります。
丁度、波が来たようでした。
「ぶはっ! げほっげほっ!!」
身体を起こし、頭の帽子を押さえつけながら海水を吐き出すと、少しして、呼吸困難は無くなりました。
しかし、それでも相変わらず続く、この激臭は?
疑問が浮かんで、すぐに理解しました。この臭いを、私は知っています。
目を開き、視界に映ったのは、魔物の背中。
直後、魔物は四本の脚で横向きに走り、霧の中へと消えて行きます。
魔物が去った後に、橙色に染まった布袋が落ちているのが見えました。
それは、私が味付けにと男の子へ渡した、あの獣避けの粉袋でした。




