33.二人だけの夜 その2
「さーーて、どこに行こうか」
ゆっくりと車を走らせながら植山が言った。
「えっ? 」
どこにって、それは今あなたが言ったではないですか。晩御飯を食べにと。それに、向かうべき場所が決まっているからこそ車を発進させたのでは……。
紗友子は一抹の不安を覚えながら彼を見た。
「林田さんは何が食べたい? フレンチ? それともイタリアン?」
「いや、その、先生が決めていらっしゃるところで」
「ええ? そんなのまだ決めてないし。林田さんの行きたいところで、と思ってね」
ああ、やっぱりそういうことだったんだ。紗友子はある意味もっとも彼らしい展開にやや呆気にとられながらも、そうですかと深く頷いた。そして姿勢を正し、彼に訊ねた。
「あの、植山先生。今日は何の日だが知ってますよね?」
聞くまでもないことだが、あくまでも念のために確認してみる。学校内の掲示板にも子どもたちが工夫を凝らした手作りオーナメントが飾ってある。それぞれの教室にもそれらしき雰囲気を醸し出した装飾がなされていた。いくら植山であっても、気づかないはずがない。
「うん、知ってるよ。今日は終業式で、ひとつ大きな節目を迎えた日。それが何か?」
そうだった。彼にとっては一世一代の大勝負に出た日でもある。けれど、けれど。今日は二人が迎える初めてのクリスマス……イブ……。
「そ、そうなんですけど。今日はその……」
「あ! そっか、そうだよな。クラスの子どもたちも家でパーティーするとか言ってたし。クリスマスイブだったね。皆、家でクリスマスケーキなんか食べてるのかな? 僕はあまりそう言った経験ないしね。旅館はかきいれどきで家族はみんな忙しいし、パーティーとかやってる暇はなかったんだ。でもね、常連のお客さんがプレゼントをくれたりして、子どもながらに嬉しかったことを憶えてるよ」
楽しげに話し終えた後、急に真顔になった彼がじっと前方を見据えながら声を上げた。
「た、大変だ。クリスマスイブってことは、どこも店はいっぱいだよね。どうしよう。困ったことになっててしまった……」
「ええ。多分どこも予約でいっぱいかと。私ももっと早く先生に今夜のことを言えばよかったのに、毎日いろいろありすぎて、なかなかクリスマスの話題に触れられなくて……」
「そんな、林田さんは悪くないよ。僕のミスさ。ああ、なんてことだろう。どうしよう。そうだ、キャンセルがあるかもしれないし、ネット検索してみようか」
「わかりました。ちょっと待って下さい」
紗友子はスマホを取り出し、外食ランキングサイトを開いてみた。ここからそう遠くはなく、口コミの評価が高いところを拾い出してみる。
「もしもし、今からお伺いしたいんですけど……。あ、そうですか。すみませんでした」
「あ、もしもし、今夜空いていますでしょうか? わ、わかりました……」
そんな不毛なやり取りを五件ほど続けただろうか。どこもいっぱいで受け入れてくれるところは皆無だった。
「林田さん、電話かけてくれてありがとう。残念だけど、もうあきらめようよ」
「その方がいいみたいですね」
「じゃあ、このままドライブして、スーパーかコンビニで何か買って食べようか」
「……はい」
気持ちが沈んでいくが、なんとか気を取り直して笑顔を作ってみる。そうだ、何もクリスマスイブだからって、特別な食事をする必要なんて決まりはないはずだ。彼と一緒に過ごせることが何よりの幸せ。スーパーでもコンビニでもいいではないかと自分に言い聞かせた。
「それとも……」
「それとも?」
しばらく黙り込んでいた植山が何かを言いかけた。違う過ごし方を思いついたのだろうか。映画とか、イルミネーション見学とか。
「僕のうち、来る?」
「え? 先生の家、ですか?」
それは紗友子の想像の域を大きく飛び出した提案だった。
「夕食の食材やケーキなんかを買い込んで、うちで食べない?」
「突然おじゃましてもいいんですか?」
「別にかまわないよ。ただし、きれい好きな林田さんに見せるには少しばかり恥ずかしい部屋だけど、でもありのままの僕を見てもらういい機会だと思うんだ。よかったらうちに来ませんか?」
紗友子は一瞬ためらいながらも、ある決意とともに、はい、と頷いた。
彼の住むアパートに着いた。そこはアパートには珍しく、庭がついている。そうだ、テラスハウスだ。
一階はリビングとキッチン、そしてユニットバスが設置してある。二階に洋間が二つあり、一部屋はがらんとして何もなかった。
郊外の大きなスーパーで買い込んだものを所狭しとリビングのこたつの上に並べた。
何か作りましょうかと言ってみたが、鍋くらいなら僕が作れるからと、沙友子の手を煩わせることは一切なかった。手早く準備して卓上コンロの上に鍋がのせられた。それはこんなに短時間で作ったとは思えないほど彩もよく、美しい仕上がりだった。
「これはね、うちの旅館でこの季節よく登場する鍋なんだ。本当はカニがメインなんだけど、こっちではなかなか材料が揃わないからね。こんなので我慢してもらえるかな」
「すごいです! 我慢だなんてとんでもない。なんか嬉しいな。どんなレストランより、絶対にこっちの方がおいしそうだし。ああ、いいにおい。本当にありがとうご……」
湯気で前が見えないけれど。でも確かに目の前には彼の顔があった。そして、額に柔らかい感触が舞い降り、彼が口づけたことを知る。
「さあ、いっぱい食べて。僕たちのこれからのことを話し合わなくちゃね」
「はい……」
鍋の野菜もとろっと煮えてきているが、沙友子の心もとろとろに溶けそうだ。額が熱くなってくる。
「向こうの仕事が軌道に乗るまでは君はこっちで教師を続ける。それでいいんだよね」
「はい……」
彼の実家からの帰り道、おおよその将来像はすり合わせ済みで、沙友子の希望はすべて彼に伝えてある。
「そして結婚の準備が整ったら君は転勤願いを出して、向こうの小学校で働く。本当にそれでいいの? 」
「はい……」
今の職場もそろそろ転勤になるはずだ。ならば彼の地元に転勤できれば一石二鳥。県教委管轄の職場でよかったと思っている。
「そして僕と兄貴は、自然学校のようなカリキュラムを立ち上げ、旅館業務を一新して」
「はい……」
「君はそのまま学校を続けるのもよし、自然学校に携わるのもよし。君の意思に任せるってことだけど」
「はい……」
「新年には君のご実家に伺い、きちんと報告をする」
「はい……」
「いろいろ迷惑をかけるけど、幸せになろうね。いや、絶対に幸せにするから」
いつの間にか彼の腕に抱きとめられ、そして。
沙友子と植山の二人の夜は、甘く、静かにゆっくりと、更けていった。




