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それはイブの夜に  作者: 大平麻由理
四時間目 決断
29/33

29.恋の証明書 その4

 植山がびっくりしたように目を見開いて紗友子に聞き返す。僕が、君のことをわかっていないの? と。


「そうです。あなたは何もわかっていない。旅館の仕事がどんなに大変かなんてことは、もちろん私はまだ何も知りません。けど、大体の想像はできます。朝も早くから起きなくてはいけないだろうし、お客さんのニーズに応えて、夜も眠れないこともあるかもしれない。ご両親やおばあ様との同居も、いろいろ難しい問題が起こりそうだなってくらいは想定内です。世間一般で騒がれている嫁姑のバトルなんかもリアルに経験するのかもしれません」


 紗友子は着物姿になって客室と厨房を行き来する将来の自分を思い描く。

「紗友子さん、いつまで寝ているのかしら。あなたが一番に起きて、お客様のお世話をしてくれなきゃ。嫁として当然のことよ」「あら、これで掃除は終わり? もっと隅々まで拭いてちょうだい。これじゃあ、お客様からクレームの嵐だわ」「まあ、携帯ばかり見てないで。休憩なんてしてる場合じゃないわよ」「気が利かないわね。ホント、最近の若い人はこれだから困るのよ」などと言われて目が回るほど多忙な日々を送るのだ。

 それでも紗友子はひるまなかった。そんなことは取るに足らないこと。何を言われても彼と一緒なら大丈夫だと何の根拠もない自信すら湧いてくる。


 植山が神妙な面持ちで紗友子の話を聞いていた。


「でもそんなことが問題じゃないんです。私は、私は……。先生が一緒にいてくれるだけで、それだけでいいんです。先生がそばにいて下さるだけで、どんなことも乗り越えられるような気がするんです。でも私のこの気持ちは先生には届かなかった。残念です」

「林田さん……」

「すみません、もうここであなたとはお別れです」


 紗友子はシートベルトを外し、ドアに手をかけた。


「え? ちょっと待って!」

「道路を下りれば民家もあるだろうし。ここまで車に乗せていただいて、ありがとうございました。ガソリン代と高速道路の通行料金は、後日お支払いたします」


 この場所から自力で彼の実家に向かうにしても、あるいは、自宅に帰るにしても、交通費がかかるのは否めない。本当ならすぐにでも経費を清算すべきなのだが、現金が必要な今はこうするしかなかった。


「何を言ってるんだ。君からガソリン代をもらおうなんてこれっぽっちも思っていないよ。そもそも僕が無理やり送って行くって言ったんだからね。それに……。林田さん、ここは高速道路だよ。こんなところで別れるとか、そんな無茶は言わないで」


 植山もシートベルトを外し、ここから逃げ出そうものなら、どこまでも走って追いかけてきそうな勢いで紗友子をけん制する。


「ならヒッチハイクでもします。それかタクシー会社に電話して、ここまで車を手配してもらいます。それなら文句はないでしょ?」

「だからどれもだめだってば。君が何と言おうと、ここでは別れないから」


 植山が紗友子の手首をつかんだ。


「もう私のことは放っておいてください」


 紗友子は植山の手を振りほどこうとするが、彼は決して離してはくれなかった。


「いや、誰が何と言おうと、君を家に送り届けるまでは僕が責任を持つって決めたから」

「先生に責任なんてありません。私も子供じゃないんです。自分で判断して自分で行動します。なので、私にこれ以上構わないで下さい」

「お願いだから、今日は僕の言うことを聞いて。ほら、外を見てごらん。雪が降り始めたよ。こんなところに立っていたら凍えてしまうよ」


 紗友子は窓の外を見た。白い粉雪が売店の明かりに照らされて暗闇の中を舞っているのが見えた。そういえば今朝の天気予報で、クリスマス寒波がやって来ると言っていたのを思い出す。その第一陣が到達し始めたのだろう。

 タクシーを待つのなら、売店の中で待てばいい……と思った瞬間、非常灯のぼんやりとした明かりを残して、店内の電燈が全て消えた。施設の端にある手洗い場の電球だけがやけに眩しい。


「営業時間が終了したみたいだね。ここは小さなサービスエリアだから店じまいが早いんだ。ところで、さっきから考えていたんだけど。林田さん、本当はどこにも行くあてなんかないんじゃないの? 北のどこかで用があるなんて、僕から逃げるための口実のような気がしてならないんだ」


 紗友子ははっとして植山を見た。やはり彼に例の計画を悟られてしまったのだろうか。


「だとしたら、こんなことを続けてても意味はない。時間の無駄だよね。これ以上北に行く必要がないとなれば……。帰ろう。君の家まで送るから」

「帰りません」

「え? どうして?」

「どうしても、です」

「今夜の君は何か変だよ。とにかく次のインターで降りて、来た道を引き返すから」


 そう言って、植山がシートベルトを再び装着する。エンジンをかけて今にも車が動き出そうとした時、紗友子はカバンの中から、印刷した用紙を取り出した。

 民宿旅館うえやまと書かれた装飾文字の下には、住所と電話番号、そしてカラフルなアクセスマップが記されていた。


「私の目的地はここです。口実なんかじゃありません。植山先生のご両親にお会いして、私の気持ちをお伝えしようと思っています」


 紗友子から用紙を受け取った植山は、次第に険しい顔つきになっていく。そして、文面をじっと見入ったあと無言のまま頷いた。

 ゆっくりと動き出した車がやがて本線に合流してぐんぐんスピードを上げて行く。粉雪が降りしきる中、いつしかヘッドライトが闇夜に呑み込まれて行った。





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