27.恋の証明書 その2
「家まで送るよ」
植山は何も訊かず、それだけ言った。
紗友子は何と返事をすればいいのか迷っていた。堀田との予期せぬ再会があった今、このまま家に帰った方がいいのかもしれない。まだ胸の鼓動は収まらないし、手にはじっとりと汗をかいている。
植山がもし紗友子のそばを通りがからなかったらどうなっていたのだろう。あのまま堀田に押し切られて、復縁話を迫られていたことはもう間違いない。
整った顔立ちを隠すように伸びた髪と髭に覆われ、最初は堀田だとわからないほどだった。
彼の浅はかな行動で終止符を打たれた恋を、再び彼の都合で蒸し返そうとする。そんな勝手な話はない。塾長の交際の申込を断った理由が、まだ堀田を愛しているからだなんて、どこをどう押したらそんな考えになるのか、紗友子には理解しがたいものだった。
そして偶然通りかかった植山にかくまわれ優しくされて、いったい何を信じればよいのか、紗友子の心は崩壊寸前だった。
「植山先生……」
紗友子は流れ続ける涙を手でぬぐい、彼の真意をたずねる。
「どうして私を助けてくれたんですか? 夕べあなたは、私との未来はないと言い切った。そんな私をかばう理由なんてどこにもないはずです。あのままほっといてくれれば、その方が先生にとっても都合がよかったのでは?」
「何を言ってるんだ。そんなこと、僕にはできませんよ。それとも、僕がそこまで冷たい人間だと思ってた?」
気分を害したのか、植山がいつになく感情を露わにする。
「いえ、そういうわけじゃ。あの、先生、さっきはありがとうございました。先生がいなかったら、私、本当にどうなっていたのか……。正直、危なかったと思います。なので、このことは夕べのことは関係なく、感謝しています」
「まさかあんなことになっているなんて、僕も想定外のことに驚いたよ。けどね、職場の同僚が困っているのに見て見ぬふりをすることはできない。そんなことしたら、一生後悔するから。そして、夕べ言った別れの理由も、君を嫌いになったとかそういうのじゃない。僕の事情に君を巻き込みたくないから。林田さんには君らしいふさわしい生き方があるからね。にしても今のはきつかった。さっきの人、本気だったし。あのまま殴り合いになっていたらと思うと、震えが止まらない。情けない姿を見せてしまって恥ずかしいよ。いくつになってもけんかは苦手だな」
情けないのは紗友子の方だ。植山は身体を張って紗友子を救ってくれたのだ。感謝こそすれ、そこを否定するつもりは全くない。
「先生、本当にごめんなさい。私に隙があったんです。堀田が何を言って来ようと振り切って逃げればよかったのに、そうできなかった。私にも問題があったと思います。それと、送っていただく身で心苦しいのですが」
「何?」
植山が何かを察したのか不安そうな面持ちでたずねる。
「私の家ではなく、どこか駅付近で下ろしてくれませんか?」
「どうして? あ、もしかしてこの後、何か用があったのかな。そっか、僕の早とちりだったね。じゃあ、その目的地まで送ってあげるよ。どこ?」
「あ、いや、別に大丈夫です。このあたりで下ろしてもらえれば」
「何言ってるの? あんなことがあったばかりだよ。あいつが追ってくるとも限らない。君をこんなところに一人にできるわけがないだろ?」
「すぐに目的地に向かいますから、大丈夫です。それに遠いですから……」
「遠いの? でも何百キロとかじゃないでしょ? それくらいお安い御用だよ。どこ? 送るから言って」
「そんなの、言えるわけないじゃないですか……」
紗友子はぶつぶつとつぶやくように反論する。植山の実家に行くことだけはまだ知られたくなかった。彼がそれを許すとは思えなかったからだ。
「本当なら車を停めて話したいところだけど、そんなことしたら林田さんは僕の車から逃げ出しそうだし。そうだよね、君との未来を築けない人間がこんなことしてるのが一番不自然なんだけど。でもね、僕に言えないような場所って、いったいどこなの? まさかさっきのあいつがらみじゃないよね?」
「それは違います。でも、あなたには、言えない……」
「じゃあ、何も聞かない。でもどの方向かだけ言って。場所を特定しなければいいよね。東西南北、ここからどの方向かだけ教えて。目的地の最寄りの駅にでも車をつけるから。ほら、黙ってないで。このままだと、君の家に直行だよ?」
「北、です……」
「北?」
「……はい」
言ってしまった。しかし、北方向にもいろいろな土地がある。彼の実家ばかりではない。ここから彼の実家までの中間地点くらいで、適当な理由を言って下ろしてもらえばいいと思った。
「わかった。とにかく北に向かう高速を走るよ。それでいいんだね?」
「はい」
植山の運転する車は北に向かって次第にスピードを上げ、滑るように走り始めた。
拍手コメントをいただき、ありがとうございました。
活動報告にお返事をさせていただきました。




