26.恋の証明書 その1
「え? う、うそ……」
紗友子は初め誰がいるのかわからなかった。が、聞き覚えのある声は昔のままだった。見かけが大きく変貌した堀田が彼女の前に立ちふさがる。
「何をそんなに驚いているんだよ。ちょっと話がしたくて。あ、さゆがまだ過去にこだわっているだろうことは予想がつく。だからその誤解を解くためにも、絶対に話しておきたいんだ」
「話すことなど何もありません。失礼します」
紗友子は乱れた呼吸を整えるようにして深く息を吸い込み、堀田を振り切って駅の方向に歩き始めた。
「おい、お願いだから、俺の話を聞いてくれ。頼むから。少しでいいんだ」
紗友子の横に並んだ堀田が執拗に絡んでくる。
「だから言ってるじゃないですか。何も話すことはないって。迷惑なんです。ここは子どもたちも住んでいる街です。これ以上近寄らないで下さい」
「わかった。少し離れるよ。でも、話を聞いてほしいんだ。さゆのことは、今まで一瞬たりとも忘れたことはなかった。だからどうしても聞いて欲しい」
髪を伸ばし、ひげを生やした堀田が紗友子の腕をつかみ、迫ってくる。
「やめて、触らないで!」
腕にかかった堀田の手を払いのける。
「ごめん……。俺、こんなにも君に嫌われていたんだ。もしかしたらって望みもすべて断ち切られたってことなのか?」
「あの時にすべて終わったはずです。あなたは別の女性を選んだ。そして今はまた違う女性と婚約している。それ以上の何があるっていうのですか? 私のことはかまわないで。急いでいるの。じゃあ」
彼とは極力目を合わさないようにして、その場から立ち去ろうとする。しかし、堀田はそんな紗友子を決して自由にはしてくれなかった。
「婚約は破棄した。俺にはさゆ以外、考えられない。あの頃、浮ついた気持ちを持っていたことは認める。でも決してさゆ以外には本気になれるはずもなく。昨日、塾のメンバーと会ったんだろ?」
「え……?」
「俺も誘われたけど、んなもん、行けるわけないだろ? どんな顔して皆の前に顔を出せばいいんだ。今朝、後輩の海老野から連絡があって、ほら、芸人目指してるやつ。俺の高校時代の後輩だから」
「そう、なんだ……」
早くここから立ち去りたい。けれど堀田の巧妙な会話術から逃れるすべが見つからない。
「あいつ、仕事で抜けたあと、また夜中に一部のメンバーと合流したらしくて。そこに塾長が来てて、ひどく落ち込んでいたそうだ。どうもさゆに振られたっぽいと海老野が言っていた。塾長がさゆに気があったのは当時から有名な話で、君があそこでバイトを続けるの、正直、俺はいやだった」
「そんな……」
「もし、塾長が君に振られたのが真実なら。さゆの心のどこか片隅に、ほんの少しでもまだ俺が存在してるんじゃないかって、そう思ったら。もう居ても立ってもいられなくなって、君の職場まで押しかけてしまったんだ。車で待っていると誘拐犯に間違われるかもしれないだろ? だから駅の駐車場に停めてきた。な、さゆ。こんなところでは積もる話もできやしない。どこかでゆっくり話そう。さゆ、行こう」
堀田が再び紗友子の腕をつかんだ。
「や、やめて。私には、私には、大切なひとが……」
「大切な人? なんだよ、それ」
堀田の表情が険しくなる。紗友子はまるで別人のような堀田から身をよじって離れようとした時、歩道の脇すれすれに一台の車が止まった。シルバーグレーのスポーツカータイプ。この車の持ち主は、彼しかいない。
「林田先生。どうしましたか?」
植山が助手席の窓を開け、以前の距離感で紗友子に声をかけてきた。
「あ、先生。あの、あの……」
紗友子はこぼれ落ちそうになる涙をなんとか押しとどめる。何かを察した植山が助手席のドアを開け、乗れと目で合図をする。紗友子は急いで車に乗り込んだ。
「おい、さゆ。どこに行くんだ。まだ話は済んでいない」
ドアを叩き、堀田が大声を出す。
「もしかして、昔の彼?」
植山の問いかけに紗友子は小さくうなずいた。
「わかった。ちょっと待ってて」
そう言って、植山が車を降り、堀田のそばに回った。
「すみません、林田先生に何か御用ですか?」
植山が堀田に訊ねた。背の高さこそ堀田には及ばないが、落ち着いた態度は植山を何倍も有利な立場に見せた。
「はあ? あんたには関係ない。俺は、彼女に話が……」
「申し遅れましたが、私は林田さんの同僚で植山と申します。今日はこのあと、まだ仕事の打ち合わせがありますので。では」
「おい、待てよ。仕事の打ち合わせって、何だよ。小学校だろ? そんなもん、職員室でやることだろうが。まさか、あんたが、さゆの大切な人?」
植山がじりじりと堀田との距離を縮めて行く。紗友子の背筋が一瞬にして凍り付いた。
「これ以上、グダグダ言うな。とにかく彼女は私が預かります。失礼します」
植山の手が怒りに震えているのがわかった。彼は何も手出しはしていないのに、怖気づいたのか堀田が後ずさる。その隙に植山が運転席に戻り、すぐにその場から車を発車させた。
「林田さん、大丈夫?」
紗友子ははらはらと涙を流し、首を横に振ることしかできなかった。




