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それはイブの夜に  作者: 大平麻由理
四時間目 決断
24/33

24.遠い雪国 その2

「とにかく要件を先に言うね。こんなこと先延ばしにしても仕方ないし」

 

 コーヒーを一口飲んだ植山が、ある種の決意を固めたのか、一言一言をかみしめるように話し始めた。

 きっと実家で決まったことを話してくれるのだと思う。

 どんな結果が待っていようとも、紗友子は全てを受け止める準備が出来ていた。


「今すぐ教師を辞めて、家の仕事を継ぐことだけは、どうにか防ぐことができたんだ」


 彼の表情がほんの少し緩んだ。紗友子も余分な力が抜けて、身体が楽になったような気がした。


「けれど……」


 力が抜けたのもつかの間、またもや彼の顔がこわばりを見せる。


「週末はずっと実家に帰らなければならなくなったんだ。僕は仕事を辞めたくない。親は辞めて帰って来てほしい。この要望はお互いに一切妥協し合うことはなかった。兄夫婦との和解も無理だったんだ」

「え……。そんな……」


 これでは何一つ解決していないではないか。紗友子の心臓がバクバクと大音量で鳴り響く。


「とりあえず、週末と祝日は実家に戻ることが決まった。そして……」

「そして?」


 植山の表情が曇る。今までに見たことがないほど暗く沈んで行く。


「三月で小学校は退職する。実家の旅館を手伝うことにしたんだ」

「そう、ですか……」

「うん」


 植山がコーヒーを飲む。紗友子も飲んだ。ミルクも砂糖も何も入っていないブラックの苦いコーヒーを。二人とも黙り込んだまま、時間だけが経って行く。

 一番最悪な事態だけは回避できたではないか。彼が仕事を辞めたとしても、それが彼との断絶を決定的にするわけでもない。

 休日に紗友子の方から彼の実家のある町に出向いていけばいい。そして、そして。彼が望んでくれるのなら紗友子も仕事を辞めて彼と共に暮らし、歩んでいきたいと思った。


「君と仕事以外で会える日が限られてしまう。それに、もし将来僕と一緒に、と考えてくれているのなら、実家に来てもらわなければならない。そこには両親もいる。祖母もいる。近くには親戚もたくさんいる。時代錯誤というか、今どきこんなの、絶対にはやらないよね。君にとって拷問以外の何物でもないよ。せっかく思いが叶って手にした教師生活も手放さなきゃならないんだよ。そんなの無理だ。君に無理強いすることはできない。林田さんの人生は、君と家族の物だから」

「先生、何言ってるんですか?」


 紗友子はきっぱりと言い放った。


「え? 何って、君を実家に連れて行くことは、誰がどう見ても、不可能だって……」

「誰がそんなこと言ったんですか? 先生は私をわかっていない。私が、そんな生半可な気持ちでいると思っているのですか?」

「いや、そういうわけじゃ」

「私も仕事を辞めて先生のご実家を手伝います。もちろん、仕事には未練があります。それは否定しません」

「やっぱりそうだろ? だから……」

「けれど、植山先生と離れ離れになる方が、もっと後悔します。だって、だって、今日までの三日間、先生に会えなくて、本当に辛かった。寂しくて、悲しくて、おかしくなりそうだった。もうこんなのは嫌です。絶対に嫌なんです」

「林田さん……」


 紗友子はテーブルの上で両手を握りしめた。手の上に涙がぽとりと落ちる。またひとつ、そしてまたひとつ。指先にまで涙が伝っていく。


「林田さん、ありがとう。そんなにも僕のことを思ってくれていたんだ。嬉しいよ。でも……」

「でも? でも、何ですか?」

「その。君の気持ちは、死ぬほど嬉しい。こんなに幸せでいいのかと思うくらいに。でもね、将来君を幸せにできる保証は何もないんだよ。旅館だって、この先成功するかどうかは誰にもわからない。兄夫婦の言うように、時代の流れに乗った方が安泰なのかもしれない。いや、多分、その方が未来が開けると思う。みすみす、つぶれてしまうかもしれないビジネスに君を道連れにするなんて、男として絶対にやっちゃいけないことなんだ。でも、何十年も続けてきた今の旅館がつぶれていくのを黙って見ていることもできない。あそこで両親が頑張ってくれたから今の自分があると思ってる。でも、そんな自己満足に君を付き合わせるわけにはいかないんだ。ねえ、林田さん。僕ごときがこんなことを言うのはおこがましいことだと思う。でもあえて言わせて。君は絶対に教師を辞めちゃいけない。ずっと続けて欲しい。君と共に笑顔になる子供たちを、これからももっと増やしてほしい」

「植山先生……。でも、先生は言ったじゃないですか。どんなことがあっても、君とは離れないって。私は大丈夫です。連れて行って下さい、先生のご実家へ。先生の旅館へ」

「林田さん」


 植山の手が紗友子の手に重なった。大きくて温かい彼の手がすっぽりと紗友子の手を覆いつくす。


「林田さん、ごめん。僕は嘘つきだね。あのね、もうひとつ聞いてくれる? 見合いの話」

「……はい」

「あのね、あの話。受けることにしたんだ。向こうも同じ村の同業者の娘で。お互いに提携してやっていこうと、そんな話に……」

「うそ……」


 いったい彼は何を言っているのだろう。紗友子はわけがわからず、植山の目を見る。けれど彼は紗友子から視線をそらし、ごめんごめんと繰り返し謝るばかりだった。


 







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