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それはイブの夜に  作者: 大平麻由理
三時間目 現実
22/33

22.忘恋会 その4

 とんでもない方向に話が向き始める。たとえそれが仮定形であったとしても、紗友子にとって苦しい内容には違いない。

 柏木が好奇心のみでこのようなことを口にするとは到底考えられないので、紗友子も覚悟を決めて真意を伝える。


「そんなこと。現実的にあるとは思えません。彼は婚約していると聞きました。だから絶対に復縁なんてありえません。そもそも彼が先に私に魅力を感じなくなったからこのような結果になったのです。堀田君は私以外の人に心を移した。そんな彼がもう一度私とやり直したいだなんて言うわけないじゃないですか。それに、それに。私……」

「どうしましたか? 大丈夫ですか?」


 紗友子があまりにも語気を強めて話したせいか、柏木が慌てたように訊ねる。


「あの。私、今、付き合っている人がいるんです」

「え……」


 柏木が目を丸くしている。もともと切れ長の目をしている人だが、この時ばかりは堀田よりも大きな目に見えた。


「なので、もしも……。もしも堀田君がなんらかの行動に出たとしても、私の気持ちはもう二度と彼に向かうことはありません」

「そう、でしたか……。付き合っている人がいるのですね。はははは。何て事だ。もしかして、そのことはまだ箕浦先生の耳には入ってないとか」


 柏木が何かを納得したのか、乾いた笑い声を立てた。


「はい、そうです。彼女も忙しく私も多忙な日々でしたので、なかなか連絡もとれずに今日を迎えてしまって。志津には今日の帰り際に彼のことを報告できたらと思っていました」


 まさかこのような事態に見舞われると思っていなかった紗友子は、電話やメッセージではなく、実際に志津の顔を見ながら現況を伝えようと思っていたのだ。


「そうか、そうだったのか。私のひとり相撲でしたね」

「ひとり相撲?」

「あ、いや、いいんです。林田先生、きっとそのお相手の方はあなたの運命の人なんでしょうね。今のあなたを見ていると、私の立ち入る隙が全くないほど、その方で占められているような気がします」

「そんな……」

「ああ、完敗だ。わかりました。よくわかりました。今日まであなたを思い続けてきて本当によかった。あなたが堀田先生と別れたと知った時、すぐに行動を起こせばよかったものの、なぜかためらってしまう私がいました。あなたも堀田先生も、二人とも私にとっては大切な仕事仲間です。別れた後、心が弱っている林田先生につけ込むようで何もできなかった。そんな意気地なしな私の気持ちを察してくれていた箕浦先生が、忘年会の打ち合わせの電話で私を励ましてくれて、こんなチャンスを作ってくれたのです。あの時にもっと勇気を出して、林田さんに思いをぶつけるべきだったと思っても後の祭り。それにあなたに気持ちを告げたとしても、実るとは限らないですから。あなたには相手を選ぶ権利があります。もしあの時、こうやって告げていたとしても、結局は同じ結果になっていたでしょう。これでふっきれる。あ、今のは私の独り言です。どうか気になさらないでください」


 柏木はそこまで言い切ると、天を仰ぎ、そしていつもの優しい笑顔を見せてくれた。


「柏木先生……」

「林田先生、お願いですからそんな悲しそうな顔をしないでください。ではそろそろ帰りましょうか。駅まで送りますよ。私はそのあと、ちょっと寄るところがありますので、あなたの家までは送れませんが。では行きましょう」

「柏木先生、あの、これ……」


 紗友子は彼が肩にかけてくれたコートを外し、両手を添えて渡す。


「あ、そうだったね。忘れるところだった」

「ありがとうございました」

「いや、いいんだ」


 柏木は照れ笑いを浮かべてそれを受け取り、ベンチから立ち上がって身にまとった。そして、紗友子の少し前をゆっくりと歩き始める。

 紗友子は何が何だかわからない今の状況に、危うくパニック寸前に追い込まれる。あまりにも目まぐるしい変化に心がついていかないのだ。

 突然の告白とも取れる柏木塾長の思いが、痛いほど伝わってくる。もし植山との恋が始まっていなければ、柏木の思いに応えることができたのだろうか。

 自問自答してみるが、柏木が言っていたとおり、やはりそれでも彼の気持ちに添うことはできなかったと思う。尊敬が愛情に変わることもあるだろう。けれど、紗友子にとっての柏木は、塾長以外の何者でもなかった。これでよかったのだ。

 駅に着き、柏木に礼を告げ別れた。彼のどこか寂しげな後ろ姿が夜の街にのまれ、そして消えていく。


 乗車カードの入った財布を取り出そうとバッグをあける。と同時に着信音が鳴った。

 紗友子は(はや)る胸を押さえ、バッグからスマホを取り出して相手の名前を見た。植山だ。どうしてこのタイミングなのだろう。

 もう少し早く連絡をくれれば、あるいは、今の柏木とのやるせない時間は経験せずに済んだかもしれない。

 いつでもどんな時でも間の悪い彼だが、そんな彼の連絡を何よりも心待ちにしていたのは紗友子自身だ。


「もしもし、私です。林田です。先生、聞こえますか?」


 一秒でも早く彼の声が聞きたい。紗友子は早口でまくしたてるように話す。


「あ、林田さん? 聞こえてるよ。連絡が遅くなってごめんね。今、どうしてる? 家かな? あ、でも何か音がしてるね。どこかに出かけてる?」


 間違いなく手にしている小さな機械の向こう側に彼がいる。

 紗友子は彼の一字一句を聞きのがすまいと、溢れそうになる涙をこらえて、彼の声に耳を傾けた。

 

  

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