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それはイブの夜に  作者: 大平麻由理
三時間目 現実
21/33

21.忘恋会 その3

「柏木先生、あの……」

「何ですか?」


 トレンチコートの襟を立てて紗友子の少し前を歩く柏木が振り返った。

 今から塾長と二人でお茶を飲みにく理由はどこにもない。紗友子は理不尽な思いをぶつけるべく、彼を呼び止めたのだ。


「せっかくのお誘いなんですが、実は私、今夜はもう帰らなくてはいけないんです」

「え? 林田先生、箕浦先生から何も聞いてませんか?」

「あ、はい。何も聞いていませんが」


 サプライズがこのことだとすれば、詳細を知らされていないのは本当だ。志津と柏木がどんな取り決めをしていたのかなど知る由もない。


「そうでしたか。それは申し訳なかった。あなたの都合も聞かず、このような時間を取らせてしまって……。では、三十分くらいでもだめですか? 要件だけでもお伝えしたいのですが」

「柏木先生、あの、今ここでお話を聞くのはだめでしょうか」

「別に私はかまいませんが。でも寒いですよ。あ、あそこにベンチがありますね。行きましょうか?」

「はい」


 川べりのベンチにたどり着き、柏木と少し離れて座った。ここは桜の名所でもある。春になると花見客でにぎわい、特にこの辺りはブルーシート争奪戦が激しい一等地だ。

 ところどころに飾り付けられたイルミネーションが川の水に映り、冷たい風の中、きらきらと揺らめいていた。


「林田さん、寒くないですか?」


 おもむろに柏木がコートを脱ぎ、紗友子の肩にかけようとした。突然の行動に身体をよじり拒絶してしまう。せっかくの親切な行いも、今の紗友子には警戒心を助長させるばかりだった。


「あの、ごめんなさい」


 とてつもなく気まずい雰囲気の中、紗友子はただただ謝るしかなかった。柏木は何も悪くない。けれど恋人でもない人から衣類を借りるのは何か違うような気がする。

 植山との始まったばかりの恋を大切にしたいと思っている以上、たとえ恩師であっても心を許すことはできなかった。


「あなたをびっくりさせてしまったようですね。何と言えばわかってもらえるのでしょうか。林田先生は受け入れられないかもしれないけど、私は心配なのです。この時期に風邪をひいて終業式を欠席するようなことになれば、子供たちが悲しみます。だから」


 柏木は自分の考えを譲ろうとしなかった。気づけば紗友子の肩にはすでに彼のコートがかけられていた。柏木のここまでに強引な態度は今初めて見る。

 彼がこのような行動に出るのは非常に珍しかった。思慮深く控えめな人が見せる、意外な瞬間でもあった。


 

「林田先生、今日は来てくれてありがとう。とても嬉しかったです」


 しばらく沈黙が続いた後、先に口火を切ったのは柏木だった。


「箕浦先生が結婚なさると聞いて、それは是非ともお祝いをしなければと思ったのが今夜の集まりのきっかけですが、こんなにも多くの仲間たちが賛同してくれるとは想像すらしていませんでした。今日仕事等で参加できなかった人たちも、皆、残念がっていました。実は……。その中に、堀田先生もいました」

「堀田、くん……」


 柏木の口から飛び出した名前を聞くや否や、胸が苦しくなっていく。


「あなたに彼のことをとやかく言うつもりはありません。けれどしっかりと確認しておきたいのです。今、堀田先生のことを、どう思っていらっしゃるのか」

「それは、もうとっくに終わったことです。今は何も関係ありません。当時、アルバイトの身とは言え、教育関係の仕事をする場であのような軽率な行動を取ってしまったことは、今でも後悔しています。彼と出会い、付き合うことで舞い上がってしまった私は、子供たちにこそ気づかれることはありませんでしたが、先生方には多大なご迷惑をおかけしたのではないかと心苦しく思っています」

「そんなことを心配していたのですか? それは大丈夫ですよ。あなたたちは、きちんと公私は区別していたようですし、保護者からのクレームも一切ありませんでした。幸い、堀田先生が講師を続けることなく別の道を進まれたので、塾としては何も影響はありませんでしたよ」

「そう言っていただけると少し肩の荷が下りますが。本当にすみませんでした」

「何も謝らなくても。でもね、影響が全くなかったと言えばうそになります。しいて言えば、私が……」

「えっ?」


 あまりよい風向きとは言えない。いったい何を聞かされるのだろう。やはり多少なりとも迷惑をかけていたのかもしれない。


「私が、寂しかったですね。どうしてこんな気持ちになるのか自分でもわからなくて。でもね、寂しさの理由に気づくのにそんなに時間はかかりませんでした。嫉妬です。堀田先生に嫉妬していたんです」

「先生……」

「林田先生。あなたは今はっきりと堀田先生とは終わっているとおっしゃいました。ではお聞きしますが、もし、堀田先生が今でもあなたのことを大切に思っていて、できることなら復縁したいと考えているとしたら、あなたはどうしますか? 心が動きませんか?」


 柏木の真剣なまなざしが、紗友子の視線とぶつかった。




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