17.夢と現実のはざまで その2
『……ということだから。じゃあ、月曜日の夕方。駅前に七時ね』
「わかった。志津、忙しいのにいろいろありがとう。じゃあ月曜日ね」
紗友子は電話を切り、しばし考えこんだ。結局、学校では植山とこれといった接触もないまま夜を迎え、そろそろ寝ようかなとベッドに入りかけた時に志津から電話がかかってきたのだ。
電話の内容は忘年会の誘いだった。塾のバイト生たちで久しぶりに集まろうという話になり、志津から絶対に来てねとほぼ強制的な参加通達を受けたのだ。
志津の言い分はこうだった。彼女が今春結婚することになったと知った塾長が音頭を取り、当時の講師メンバーで集まって、結婚祝いを兼ねた忘年会をしようと企画してくれた、ということらしい。
志津は仕事に結婚準備にと忙しい日々を過ごしているため初めは丁重に断ったそうだが、結婚祝いはさておき、久しぶりに皆の近況が知りたいという塾長の熱意に負けて、しぶしぶながら忘年会に参加することを承諾したらしい。
そして志津と紗友子はお互いの休みがなかなか合わず、最近は声すらも聞けないほど疎遠になりつつあったので、忘年会を名目にいろいろ話がしたいからと参加を懇願されたのだ。
学期末は仕事が忙しく、時間が取れないのは志津も理解してくれているはずだが、それを承知の上でどうしても会いたい、来て欲しいと頼まれれば、紗友子も志津に冷たく断ることは出来ない。
月曜日は高速回転で仕事を片付けて、七時の待ち合わせに間に合うよう段取りを整えようと計画を練りながらベッドに身体を横たえた。
いつもなら何かを考えようとする間もなく、すぐに眠りに落ちてしまうのに、今夜は違った。忘年会のことよりも何よりも。植山のことが脳内を駆け巡り、どんどん目が冴えていくのだ。
こんなことならもっと早く彼に電話でもすればよかったのだ。ただあなたの声が聞きたかったと素直に言えばいいだけなのに、強がって連絡を反故にしてしまった自分が情けない。
志津との電話が長くなったのもあり、とっくに日付が変わって深夜になってしまった。彼はもう眠ってしまったのだろうか。もしかしたら、自宅の机でまだ仕事をしているのかもしれない。
何度も眠ろうと目を閉じてみるのだが、彼のことばかり考えてしまい、とうとう起き上がってしまった。
すでに夢の中にいるかもしれない彼に悪いとは思ったが、ここで何も行動を起こさなければ一生後悔すると思った紗友子はスマホを手にして、彼に電話をかけてみた。
『あ、林田さん?』
それは間違いなく彼の声だった。寝ぼけた声ではなく、いつもと変わらない話し方にほっと胸をなでおろす。
「はい、私です。あの、ごめんなさい、こんな遅くに電話なんかして」
『いや、いいんだ。それより今日は、というか、この数日、君に申し訳ないことをしたと思ってる』
「そ、そうですか……」
『今もずっと、君に電話をしようかどうしようかと迷っていたんだ。もう寝てるんじゃないか、それとも、仕事をしてるんじゃないかってあれこれ想像して電話するタイミングを逃してしまって。あ、ごめん。また僕ばかりしゃべってる。どうしたの? 何かあった?』
いつもと同じ彼の声なのに、静かな夜の部屋でひときわ優しさがにじみ出てるように感じた。
「あ、あの、別に何かあったわけじゃないんですけど。あの、その……。先生の声が聞きたくて」
ついに言ってしまった。小さい声になってしまったけど、本心をそのまま言葉にして彼に告げる。
『え? あ、ああ。そっか。そうだったのか。なんか嬉しいな、林田さんにそう言ってもらえて』
「迷惑じゃないですか?」
『迷惑だって? そんなことないよ。この気持ちをどうやって伝えたらわかってもらえるだろう。今すぐにでも君に会いに行きたいくらいだ』
「私も……」
こんな感覚はいったい何年振りだろう。いや、初めてかもしれない。ドキドキしてふわふわして、体が空中に浮いているような感覚に包まれる。幸せだ。電話をかけてよかった。
『なのに、学校でどんな態度で君に接したらいいのかわからなくて、何か話そうと思ってもうまく言葉にできなくて。君に不快な思いをさせたんじゃないかな。それに、もうすでに君に嫌われてしまったのかもしれない、なんてことまで考えて、もうパニック状態だった』
「そんな……。先生を嫌いになる理由なんてどこにもないです。だってあれ以来、ずっと先生のことばかり考えてるし、私の方こそ、先生に嫌われちゃったかなって、落ち込んでいました」
『そうだったんだ。君をそんな不安な気持ちにさせてしまって、ホント、申し訳ない。なんか夢みたいで、林田さんに話しかけたとたん、その夢が覚めてしまうんじゃないかって、怖かった。ああ、でもこうやって君の声を聞けて、本当に嬉しいよ。こんなことなら、勇気を出して、もっと早くに電話すればよかった』
「私も同じです。家に帰ったらすぐに電話すればよかったです」
お互いにふふっと笑いあう。同じ気持ちだったのだと思うと、より一層彼のことがいとおしくなる。
『それでね、林田さん。実は、君に話しておかなければならないことがあって……』
「えっ? 何ですか?」
幸せをかみしめたのもつかの間、耳元に届く沈んだ声に、また一瞬にして崖から突き落とされたような気持ちになる。彼はいったい何を話すというのだろう。




