16.夢と現実のはざまで その1
紗友子視点に戻ります。
あの夜、何が起こったのか、今になっても紗友子は理解に苦しんでいた。確かに彼に抱きしめられたし、口づけも交わした、と思う。アルコールが入っていたわけでもなく、あの時の一部始終ははっきりと憶えているのだが……。
なのに、あれから三日も経ったにもかかわらず、あの日以前の二人の関係となんら変化が見られないのだ。というより、ますます他人行儀な関係になってしまった。
あと一週間足らずで終業式だ。そしてクリスマスもやってくる。あの日を境に、植山と付き合っていると紗友子は認識しているのだが、彼が一向にその片鱗を見せないものだから、どのようにふるまうべきなのか困り果てている。もちろん職場でべたべたするとか、恋人同士であると宣言しようと思っているわけではない。ほんの少しの優しい言葉がけと、一瞬でいいので見つめ合って笑顔で過ごしたい、たったそれだけが紗友子の望みだった。なのに彼ときたら……。
電話もなければメールもない。本当にどうなっているのか、紗友子は身の置き所のない自分をもてあましていた。
「おはよう、ございます……」
職員会議が始まる前に隣に着席したばかりの植山と挨拶をかわす。元気よく笑顔で発した言葉も、しょせん独りよがりな気がして、次第に語尾が消えいるように小さくなってしまう。彼も、おはよう……とほとんど蚊の鳴くような声で最小限の返事をするのみ。紗友子の心はどんよりと沈み込んでいくばかりだった。
もしかして、あの抱擁と口づけは一時の気の迷いだったのだろうか。紗友子が落ち込んでいる姿に同情しただけだとすれば合点がいく。
給食が終わり職員室で顔を合わせた時も彼はすぐさま視線を外し、そ知らぬふりをして紗友子の横を通り過ぎ、そのまま廊下に出て行ってしまった。
これはひどい。以前よりもさらに距離が出来てしまったのは隠しようのない現実だ。
いたたまれなくなった紗友子は、五時間目に返却する採点済みの小テストを抱え、急いで職員室を出ようとした。するとその時、すれ違いざまに隣のクラスの木津に呼び止められた。
「ちょっとちょっと、林田先生!」
「あ、はい。何でしょう、木津先生」
いつもおっとりしている大先輩の木津に、ありえないほどの素早い動きで腕をつかまれると、あっという間に職員室の一角にある給湯室に引きずり込まれた。
「林田さん、急いでるところ悪いんだけど、ちょっと訊ねたいことがあって」
きれいにセットされたミディアムボブがすっかり定番になった木津が、紗友子の耳元でささやく。
「あ、はい。なんでしょうか?」
「いや、それがね。う、え、や、ま、先生のことなんだけど……」
木津が声をひそめながらも滑舌よく語ったその名に、思わずはっとして目を見開く。
「植山先生のこと、ですか?」
いったい何を訊きだそうとしているのだろう。紗友子は勝手に高鳴る胸の鼓動を悟られまいと、平然を装うことに意識を集中した。
「そうなの。植山先生ったら、この数日ミスばかりしてるのよ。二学期の学習進度報告の書類も不備が多いし、終業式の指導案もまだできていないし。こんなこと初めてだから、どこか体調でも悪いのかしら、と思ってね。林田先生、何か知らない?」
「え、いや、何も知りませんが……」
というのは真っ赤な嘘で、多分、いや、かなりの高確率で、あの夜の一連の流れが原因だとは思う。まさか木津に真実を語ることなどできるわけもなく、紗友子は知らぬふりを通す。
「そっか。そりゃあそうだわね。あなたたち年も近いし、ちょうどいいパートナーシップを築ける環境に身を置いているには違いないけど、あなたにも相手を選ぶ権利ってのがあるもの。職場以外で植山先生と親しくしてる様子もないし、知らなくて当然よね」
「はい……」
ドキッとした。あの日の一部始終を誰かに見られていて、すべて知られてしまったのかと思ったがそうではないようだ。ほっと胸をなでおろす。
「変なこと訊いちゃってごめんなさいね。でもね、うちの息子とあまり変わらない年齢の植山先生が少し心配になってね。いつもあなたたち二人にいっぱい仕事を処理してもらって、申し訳ないと思ってるの。三学期は私も頑張るつもりだから、これからは何でも言ってね。自宅介護中だった父が少し快方に向かってるのよ。主人も単身赴任が終わって帰って来てくれるし、協力体制が整いそうなの。もし植山先生のことで何かわかったら教えてちょうだい。林田先生もちょっと疲れてるみたいだし無理しないようにね。それに平木先生も言ってたけど、若い二人がなんか元気がないなって心配してたから。じゃあ、また後で」
そう言って木津が教室へと消えて行った。いつもと違ってはつらつとしている先輩教師の後ろ姿が明るく弾んで見える。そうか、そうだったのかと深くうなずいてしまった。旦那さんが単身赴任中であることも、家で親の介護中であることも何も知らなかった紗友子は、木津がどうして誰よりも先に学校を出て家に帰るのか、今ようやくその理由がわかったのだ。
皆、見えない何かを抱えて生きている。そんなことにも気づかず、仕事を押し付けるなどと彼女を非難していた自分が恥ずかしくなる。
植山のよそよそしい態度も、急激な二人の展開についていけないだけなのかもしれない。もうすぐ週末だ。彼から連絡がなければ自分からすればいい。
紗友子は少しだけ気持ちが楽になったような気がした。




