第626話 兄としての問い(3)
「頼む! この通りだ!」
影人はパンと両手を合わせ、穂乃影に向かって頭を下げた。穂乃影になぜ自分が急にこんな事をするのかの理由を言うわけにはいかない。「お前が自分の事を血の繋がっていない家族と知っていて、葛藤していても、そんな葛藤は必要ない。それを証明してやる」なんてバカ正直には話せない。言えば穂乃影は、昨日のスプリガンの事と自分の事に疑問を抱くに決まっているからだ。
だから影人は、何気ない気まぐれといった感じで、バカな兄として、穂乃影に接するのだ。今のところ、全ての事情を話して穂乃影の葛藤を完全に無くしてやる事は無理に等しい。
でもせめて、せめて少しでもその葛藤を和らげさせたい。それが影人の心からの思いだ。
「な、何度言われたって私は・・・・・・・」
自分に頭を下げてくる影人。なぜ影人はいきなりこんなお願いを自分にしてきたのだろうか。やはり、この人の行動は訳がわからない。
正直、これだけお願いしているのだから、普通ならばその願いを聞いてやればいいだけかもしれない。穂乃影は一言、兄に向かって影兄と呼べばいいだけだ。それだけで、この少しウザったらしい兄は満足するだろう。
(でも、私にこの人の事を面と向かって兄と呼ぶ資格なんて・・・・・・・・・)
だが、穂乃影の場合は少し事情が違う。穂乃影は影人と血が繋がっていない事を知っている。つまり穂乃影は、血縁的には本当の影人の妹ではないのだ。
穂乃影がその事を知ったのは、中学2年の夏の事。真夜中にふと目が覚め、飲み物を取りにリビングのドアを開けようとした時に、母親と当時中学3年生だった影人が話している事がふとリビングから聞こえて来たのだ。
それは穂乃影についての話だった。穂乃影にいつ、穂乃影が本当は自分たちとは血の繋がっていないという事を話すべきか、というものであった。
その話を聞いてしまった穂乃影は愕然とした。その場から動けずに、ただただ立ちすくんだ。穂乃影の内面では、まるで自分が立っていた揺るぎない場所が、ガラガラと音を立てて崩壊していくような感覚があった。
それからの事はあまり覚えていない。何でも穂乃影は、影人の母親の親戚の夫婦の子供であったらしいが、その夫婦が不慮の事故で亡くなったために、その事故で唯一生き残った当時1歳だった穂乃影が帰城家に引き取られる事になった。という話まで聞いた事は覚えているが、それ以上の記憶はない。ついでに言えば、穂乃影の本当の両親の記憶も、穂乃影にはなかった。
それからだ。穂乃影が影人の事を兄と呼ばなくなったのは。穂乃影は気がついてしまったのだ。自分が影人の事を兄と呼ぶ資格がないことに。
そんな自分が頼まれたからと言って、また影人の事を兄と呼ぶのはどうなのか。それが穂乃影が影人のお願いを渋っている理由だった。




