第611話 近くにいても知らぬ事(5)
『くくっ、さあお楽しみの時間だぜ影人。てめえの妹は女神の操り人形か、純朴な羊か、果たしてどっちだろうな?』
「その言い方はやめろ。まだ分からんぞ、単純にアイスでも食いたくなっただけかもしれねえし」
イヴの面白がるような声を頭の中に響かせながら、影人はそう呟く。まだ、穂乃影が不定期のバイトのために出かけたのか、それすらも分からないのだ。
穂乃影より40秒ほど後に家を出たため、マンションの廊下に穂乃影の姿はない。だが階段を降りる足音は聞こえてくる。影人は廊下を出来るだけ音を出さずに走り抜けると、階段へとたどり着いた。
影人がチラリと階段の下の方を覗いてみると、穂乃影の姿は見えなかった。影人は素早く階段を降りる。そしてマンションのエントランスの方に視線を向けた。
穂乃影の姿が見えた。穂乃影はちょうどマンションのエントランスから外に出ようとしているところだった。
「よし、この距離感がベストだと踏んだぜ」
影人は人生初めてとなる尾行を開始した。影人もエントランスを出ると、夜道を歩く穂乃影から適度な距離を維持しながら歩を進める。
少しすると穂乃影が小走りになった。なぜ小走りになるのか影人は疑問に思ったが、穂乃影を見失わないために、影人も小走りをする。その際も、出来るだけ足音を立てないように意識しながら。
「はあ、はあ・・・・・・あ、あいつ結構速いな」
穂乃影を追いかける影人は、息を荒くしながらそんな言葉を漏らした。穂乃影は小走りのはずなのに、その速力は中々のものだった。正直、スプリガン形態ではないモヤシの影人は、もう結構普通に走っていた。
穂乃影は運動が苦手というイメージを影人は持っていた。それは小さかった時、穂乃影が運動があまり得意ではなかったからだ。
だが、そのイメージは間違っていたらしい。こんなところも、影人は知らなかった。
それから5分ほどだろうか。穂乃影と穂乃影の後を追う影人は走り続けた。夏の夜、ぬるい風を全身で感じながら2人は夜の街を駆ける。
そして、風洛高校近くの路地で2人はソレを目撃した。
「アオォォォォォォォォォォォォォン!」
月下に吠えるは、2足歩行の大型の獣。灰色の毛並みをしたソレには尻尾と鋭い爪が生えていた。
一見すると犬のように見えるソレは、しかしよく見てみると目がつり上がっている。犬はあれほど目がつり上がってはいない。
更に体の大きさも犬よりもがっしりとしているように感じられた。骨格も筋肉も犬とはわけが違う感じだ。
(ッ!? ありゃ狼か・・・・? いや、2足歩行の狼なんて普通は存在しねえ。あれは・・・・・・)
「・・・・・・・闇奴。狼の獣人型タイプか。また面倒な奴の相手を任された」
電柱の陰から観察していた影人の答えを引き継ぐように、穂乃影は目の前の化け物の名を呟いた。闇奴。それは人間の心の闇が暴走させられ、肉体が変化し化け物にさせられた者たちの総称だ。
「グルゥゥゥゥゥ!」
穂乃影の姿に気がついた闇奴が威嚇するように唸り声を上げた。今にも闇奴は穂乃影に襲い掛かって来そうだ。
「・・・・バイトを始める。――変身」
「ッ・・・・・・!?」
ポケットから紺色の宝石のついた指輪を取り出した穂乃影。穂乃影はその指輪を自分の右の人差し指に装着すると、そう言葉を呟いた。そして、穂乃影の言葉を聞いた影人は、その表情を驚愕に染める。
次の瞬間、紺色の宝石が眩い光を放った。眩い光が夏の夜の暗闇を照らす。
「・・・・・・『影装』の1、『影杖』」
光が収まると、穂乃影の姿が変化していた。穂乃影の服装は黒の半袖に黒の綿パンツから、紺色と黒色を基調とした長袖のコスチュームとスカートという服装に変化していた。
穂乃影が続けてそう呟くと、穂乃影の影から真っ黒な杖が這い出て来た。穂乃影はその杖を右手で掴むと、それを狼の獣人型の闇奴に向かって構える。
「・・・・来い」
「グルァァァァァァ!」
穂乃影の言葉に反応したように、闇奴は穂乃影に向かって襲い掛かった。
(穂乃影・・・・・・・・お前は、お前はやっぱり・・・・・・・光導姫だったのか・・・・)
その光景を電柱の陰から見ていた影人は、呆然としながら内心そう呟いた。
この日、影人は穂乃影が光導姫であるという事実を知った。
心の底から、完膚なきまでに。




