第1324話 零無(5)
「零無・・・・・・か。ふむ・・・・吾は零無・・・・・・ふふっ、そうか。それが吾の名か」
影人にそう聞かれた女は少しの間、その名前を吟味するように呟くと、やがて笑みを浮かべた。
「・・・・・・いいだろう。その名前、気に入ったよ影人。吾はこれより――零無だ」
そして、女は――零無はその名前を受け入れた。
「本当!? じゃあ、これからお姉さんは零無。零無お姉さんだ!」
零無に名前を受け入れられた影人は、嬉しそうに笑った。その笑みを見た零無は、また先ほどと同じような、ドキリとしたような甘美な衝撃を味わった。
「っ・・・・・・そうだな。吾はこれから零無だよ。お前の友たる者の名だ。絶対に忘れるなよ?」
「忘れたりなんかしないよ。それこそ絶対に。・・・・・・ふぁ〜あ。何だか、名前を決められたら、急に眠くなってきたな」
「ん、まあ人間の子供が起きてる時間にしては、遅い時間だからね。影人、今日はもうお休み。吾の話に付き合ってくれてありがとうね」
あくびをした影人に、零無は優しい声でそう言った。零無にそう言われた影人は、目を擦りながら素直に頷いた。
「うん・・・・・・悪いけど、そうさせてもらうね。おやすみ、零無お姉さん。また明日会いに行くね」
「ん、明日はずっとあの神社の石の上にいるから、好きな時においで。じゃあね、影人。また明日だ」
零無は慈しむようにそう言うと、フッと影人の前から姿を消した。零無が消えたのを見た影人は、スマホの履歴やメモを消去して隣の部屋に戻ると、影仁のスマホを充電器に挿して、布団の中へと入った。
「・・・・すぅすぅ」
そして、十数秒後。影人は寝息を立て微睡んだ。
「零無、零無か・・・・・・ふふっ、まさか吾が人間から名前を与えられるとはな。全く、存外に何が起きるか分かったものじゃないな。生というものは」
一方、影人の前から姿を消した零無は、旅館の屋根に座りながら月を眺めていた。先ほどの影人との会話の余韻、それに少し浸りたい気分になったからだ。
(しかも、不思議な事に吾の中で影人の存在がどんどんと大きくなっている。何だろうな、この湧き上がってくる気持ちは。こんな気持ちを抱いたのは初めてだ・・・・・・)
あの時から、影人の笑顔を見たあの時から生じたこの気持ち。こうしている間にも、零無の中では影人に対する気持ちが更に大きくなっている。影人ともっと話したい。もっと一緒にいたい。影人を守りたい。そんな気持ちが。
「ああ、まさかな・・・・・・本当にまさかだ。もしや、この気持ちは・・・・・・」
ずっと人間を見てきた零無が、自分が抱いている気持ちがどのようなものであるのか推理する。その結果、自分が影人に抱いているこの気持ちに1番近い気持ちは――
「・・・・・・恋、もしくは愛の感情か。ああ、そうか。吾は・・・・・・お前を愛しいと思っているのか、影人・・・・・・」
零無は自分が影人に抱いている感情が、どのようなものなのか理解した。まさか、自分が人間を愛しいと思う日なんていうものが来るとは。何ともおかしな話である。
「・・・・・・だが、認めるしかないな。でなければ、それは自分を偽る事になる。不思議だな。こんな下位の存在が生きるこの世界を、美しいなどと思った事はないが、なぜか途端にこの世界が美しく思えてきた。ははっ、恋や愛は世界を変える、か。中々どうして、人間も真理をついているじゃないか」
見上げる月がどこまでも美しく見える。そして、零無は優しい笑みを浮かべながら、こう呟いた。
「ああ・・・・・・月が綺麗だ」




