第1322話 零無(3)
「本当に凄いな・・・・・・いいな。俺もいつか、世界を思うように回ってみたいな。のんびりと気ままに旅をして、時には手に汗握るような冒険をしたり・・・・浪漫だよなぁ・・・・」
少年らしい願望を、気づけば影人は漏らしていた。影人の呟きを聞いた女は、「ふふっ、人間の男児らしい願望だな」と小さく笑った。
「そう思ったなのならば、そうすればいいよ。人の生は儚い煌めきの如し。やりたい事をする時間は限られている。願いや夢という欲望のままに行動したまえ。その欲望こそが人間を人間たらしめる原動力だろう? その力だけが、君たちをここまで発展させ、進歩させてきたのだから」
続けて、そう言った女に影人は苦笑いを浮かべた。
「あはは、お姉さんの言おうとしている事は理解できるし、俺も出来ればそうしたいけど今は無理だよ。俺まだ子供だし。でも・・・・・・うん。お姉さんの言葉は胸に刻んだよ。俺がいつか大きくなったら、俺がその時にやりたい事を、夢や願いっていう欲望を何か1つ叶えるよ。今、決めた」
影人はギュッと握った右手を自分の胸部中央、心臓の部分に軽く当てる。そして、子供らしい明るい笑顔を、無邪気な笑顔を浮かべこう言った。
「ありがとう。幽霊のお姉さん。お姉さんの言葉、大切にするよ。俺、お姉さんと友達になれて本当によかった。嬉しいし楽しいよ」
「っ・・・・・・」
影人の笑顔を見た女は、今の自分にはないはずの心の臓がドキリと跳ねたような感覚を覚えた。何かの衝撃が女の精神を、心を襲う。その衝撃は今まで味わった事がないもので、だが不思議と心地よい衝撃だった。
「・・・・・・」
「? どうしたのお姉さん? もしかして、どこか調子でも悪い・・・・・・?」
しばらく、どこか放心したような顔で無言になった女に、影人は心配そうな顔を浮かべた。
「い、いや別に何もないよ。すまないね、変な態度を取って。どうにも・・・・・・どうにも不思議な、初めての気持ちを抱いたものだから」
ハッとした様子になり、苦笑いを浮かべた女はそう言葉を放った。だが、その様子はまだどこかぼうっとしていた。そして、どこか熱に浮かされたようなトロンとした目を影人に向けた。
「本当? ならいいけど・・・・・・ちょっとビックリしちゃったよ。もしかしたら、幽霊も体調が悪くなったりするのかなって」
「幽霊、もとい精神体も状況によっては体調が悪くなる事は、あるにはあるよ。例えば、悪霊が神聖な、浄化の力満ちる場所にいれば力が削がれていくようにね。まあ、吾はそこらの霊とは格も存在の次元も違うから、無関係な話だが」
「? そうなんだ」
女の話は難しく、影人は完全にはその話を理解しきれなかった。だが、女にはどこも悪いところは無いようだ。影人はその事は理解した。
「ねえ、お姉さん。やっぱり、友達になったならもっと仲良くなりたいな。例えば、名前で呼び合うとか。でも、確かお姉さんに名前はないんだよね?」
「ああ、今の吾には名前はないよ。強いて言えば、夕方に会った時に言った、『零なる始原にして、無たる終わりの権化。唯一絶対なる空の存在』が吾を現す言葉になるな」
「零なる始原にして、無たる終わりの・・・・・・ダメだ。長過ぎて、とてもじゃないけど覚えきれないや・・・・・・」
女を現す言葉を復唱しようとした影人だったが、最後まで復唱する事は出来なかった。
「ねえ、お姉さん。これはあくまで提案なんだけど・・・・・・俺がお姉さんに名前をつけるって言うのはどうかな? もちろん、嫌だったら嫌って言ってくれていいよ。それともし、怒らせたり不快な気持ちにさせたならごめんね。でも、俺はもっとお姉さんと仲良くなりたいんだ。だから・・・・どう、かな?」
恐る恐るといった感じで、影人は女にそんな事を言った。夕方、女が自分に名前などいらないと言った事を影人は覚えていた。だが、やはり友達は名前で呼びたい。女と再び話し、強くそう思ってしまった影人は、気づけばそう言ってしまっていた。




