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基本的に静閑とは縁遠い衛士隊の詰め所だが、夕方のこの時刻になると定刻の巡回から戻って来た衛士達や引継にやって来た遅番の人間で溢れ返り、所内は俄然騒がしくなる。
街の巡回から戻ったばかりのユーリは呼び出しを受けて衛士長の部屋へと向かっていた。途中、これで上がりとなる数人の同僚に声を掛けられ、同じように労いの言葉を返す。短い挨拶だけでさっさと通り過ぎて行くユーリだが、それが彼女の常態である知っている同僚達は笑って片手を上げ去って行った。
衛士達の待機場所となる、詰め所の入口付近にある広めの部屋。部屋から出て然程長くない廊下は扉を挟んで玄関方面からも繋がっていて、奥側へ進むと向かって左手側の壁に一つ、廊下の突き当たりに一つ、扉がある。
開け放たれている奥の扉の方は地下の留置場へと続いており、階下から人の話し声が幽かに聞こえてきた。声の主はさっき確保してきた酔っぱらいの男性と、相手をしているユーリと同じ班の衛士二人だろう。まだ日暮れ前だというのに強かに酔って目抜き通りでくだを巻いていたのを取り押さえてきたのだが、甲高い怒鳴り声が聞こえるのでどうやらまだ暴れているらしい。
わめき散らす男の声に序でに様子を見て来ようかと考えて其方に目を遣り、やはり止めて左手の衛士長室の扉へ向き直る。酔っぱらいの相手をしているのはそういう者の扱いに長けた二人だ。此処は彼等に任せておいた方がいいだろう。
手の甲で軽く扉を叩いて、中の衛士長に声を掛ける。すぐさま衛士長から「どうぞ」と返事があり、ユーリは内心一体何の用だろうかと首を傾げつつも扉に手を掛けた。
「失礼します」
衛士長は入って来たユーリを認めるも、執務机に両肘を突いたまま微動だにしなかった。端正とは決して言い難いが味のある彫りの深い顔立ちを渋面に染め、衛士長は無言で机上を見つめている。
「何のご用でしょうか」
扉を閉めたユーリは机の前まで移動して、俯き加減の衛士長を見下ろして言った。
衛士長の表情から読み取れるのは、苦悩と謎の切迫感のようなもの。それだけでは果たして自分がどのような用件で呼び出しを受けたのか、皆目見当も付かなった。ユーリには仕事で何かやらかした記憶も無ければ、素行不良を咎められるような真似をした覚えも無い。かといって特段褒められるような事柄も無い筈なので、本当にどうして衛士長室に呼ばれる事になったのだろう。
ユーリは仕方無しに衛士長の返答を待った。目を閉じて眉間に皺を寄せた衛士長は暫らくの間低い振動音のような呻きを洩らし、どういう訳か机に突っ伏して頭を抱えた。そのまま更に待つ事、実に十数呼吸。突如として勢い良く顔を上げた衛士長はユーリを見上げ、さながら誰か大切な存在の助命を嘆願するかの如くに叫んだ。
「――頼みます、ユーリ!精霊宮に行って下さい!!」
「了解。それで、使いの用件は?」
聞き慣れた野太い声で丁寧に申し付けられた用件にユーリはすぐに頷いてみせた。
「違いますよ!そういう意味じゃあないですよ!!」
だん、と拳を机に叩き付けて衛士長は即座に否定する。ではどういう意味だと首を捻るユーリに衛士長は大きな溜め息をついた。
「はあ…。いいですか?要するに精霊宮から打診が来たわけですよ、君を新しい巫女守に欲しいって。今の巫女守殿はもうご高齢ですからね」
「断って下さい」
「即答禁止です」
「断って下さい」
「もう一回言い直しても駄目。承諾という選択肢は無いんですかね、ユーリ君?」
「ありません」
悩むまでもない事だった。ユーリはきっぱりと切り捨てるようにして答える。
取り付く島もない返答の仕方だったが、もう何年も上司をやっている衛士長は流石に慣れたものでめげずにしっかりとユーリの目を見て話を続ける。そこはかとなく恨みがましげなその眼光には絶対に引けないという衛士長の決意のようなものが宿っており、断ってくれるよう説得するのにはかなり骨が折れそうな雰囲気だった。
「いいですかね、ユーリ君。君は以前騎士団への異動も断ってるんですよ。その時ボクがどんな気持ちだったか解りますか?」
「いいえ」
「そうでしょうとも!解っていたらそんな返事は出来ない筈だ!…あの時ボクは胃に穴が空く思いだったんですよ。騎士団長自らのお誘いを無下に断るなんて、部下の教育の仕方がなっていないと責められるんじゃないかと、冷や汗で溶けてしまいそうな気さえしましたね」
思い出すだけで肝が冷えると衛士長は額を押さえて天井を仰いだ。
「騎士団長は別に私が欲しかったわけではなく、〝精霊憑き〟の人間が欲しかっただけでしょう。それを断って何の問題が?」
客観的には衛士長の言い分は解らないでもない。だが、ユーリとて訳も無く騎士団長の誘いを蹴ったのではないのだ。此方には此方の言い分がある。
ユーリの反論に衛士長は一瞬言葉を詰まらせたが、挫けずに尚も言い募ろうと声を張り上げた。ただでさい低く太い声がほとんど胴間声のようになっている。
「いや、この際この間の件は水に流しましょう!という事で今回は是が非でも承諾してもらいます!でないとボクが心労の為に帰らぬ人になる事でしょう」
少しも水に流していないどころか、その発言は脅迫に及んでいるのではなかろうか。そうまで言われて断りでもしたら悪者はユーリの方という事になるに違いない。だからといって脅しに屈して素直に意見を曲げるユーリではないのだが。
「衛士長がお亡くなりになった際には皆で副長を守り立てていくのでご安心を」
ユーリが平然と言って退けると衛士長は捨てられた仔犬染みた哀しそうな瞳で見上げてきた。が、それも束の間。懊悩するように頭を掻き毟った衛士長は、がたん、と椅子を蹴倒して立ち上がり、部屋の外にまで聞こえる程の大声を出した。
「ユーリ・ヴィッセ!衛士長命令だ、いいから黙って承諾しなさい!!」
温厚な衛士長が此処まで声を荒らげるのだ。前回の一件は彼の心と胃に余程の痛手を与えているらしい。ついには権力まで行使してきた上司にユーリは追い詰められた彼の心の内を感じ、承諾の意までは表さないまでも多少は前向きな質問をしてみた。
「……何故私なんですか?巫女守とは精霊宮の守護士か、騎士団の団員から選ばれるのが慣例だと聞いた覚えがありますが」
それがどうして城下の衛士隊に所属する自分に話が持ち込まれるのか。不可解な事この上無い。剣の腕には自信があるが、腕の立つ人間ならば守護士にも騎士にも幾らでもいるだろうに。
「それは直接精霊宮に行って聞いて来なさい。先方には巡回から帰ったら伺わせますと既に伝えてありますからね」
端から断らせる気など毛頭無かったのだろう。いや、ユーリが何と返事をするか解っていても断る事など出来なかった、という方が正しいのかも知れない。この衛士長、仕事には人一倍真面目に取り組み、良識に照らし合わせてみた上で自分が納得出来ない事には決して首を縦に振らない人物なのだが、些か小心者の嫌いがあった。要するに己が是としない事はきっぱりと撥ね付ける癖に、後々までそれを気に病むようなところがあるのだ。それが当人であるユーリの意思であり己は単に部下の意見を尊重しただけだとはいえ、騎士団長直々の誘いに対して彼女を騎士団にやらなかった事について衛士長は大層悩んでいたのだろう。他人事ながら難儀な性格だ。
「どうしても行けと?」
「当然ですとも」
強気な言葉とは裏腹に衛士長は早くも縋るような目をしている。生来の面倒見の良さで入隊時から何くれと世話を焼いてくれた衛士長には恩もある。というか、この人に此処まで拝み倒させておいて頼みに応じず無視などしたら他の衛士から袋叩きにされ兼ねない。何だかんだ言って衛士長はユーリを含め部下達の篤い信頼を勝ち得ているのである。
気は進まないが仕様が無い。悪足掻きに長い間を置き、ふう、と諦めの溜め息を吐き出してからユーリは重い口を開いた。
「――了解。取り敢えず精霊宮に出向きます」
途端、衛士長が顔を輝かせた事は言うまでもない。さっきまでとは打って変わって満面の笑顔になった衛士長は放っておけばそのまま踊り出し兼ねないような喜色を露わにしてユーリの手を両手で掴み、ぶんぶんと振った。
「ありがとう!ありがとう!!いやあ、持つべき者は心優しい部下ですねえ。大丈夫、いざ巫女守になってみればユーリ君も自分に訪れた幸福を噛み締めるようになりますよ。何と言っても巫女様は稀有な素晴らしい才の持ち主である事に加え、見目も大変麗しい方ですからね。ボクは先日の夏の精霊祀、家族と一緒にお参りしてきたんですが、素敵でしたよ。始終お側に付いてあの方をお守り出来るんですから、まさに男冥利に尽きるという奴でしょうねえ」
うんうん、と一人で納得して頷いている衛士長は今度は参列してきたという先の精霊祀を思い出し、恍惚に頬を染めてうっとりとしている。ご機嫌のところに水を差すのも悪いと思ったのだが、また忘れているようなので一応訂正しておかなければなるまい。
ユーリは祈りの歌の一節を口遊み出した衛士長に愛想無く言う。
「お言葉ですが、衛士長。今のところ同性を愛でる趣味はありませんので」
やや調子外れの歌と舞染みた腕の動きがぴたりと止む。平均よりも小柄な衛士長は自分より頭一つは大きな部下を見上げ、
「ああ、そうでしたね。一見して男に見えるのでつい忘れちゃうんですかね」
と。笑顔のまま、さらりと失礼な発言した。




