第83話 二人きり
リビングにいて、メープルと静かにしていると、お風呂場の音が聞こえてきた。水を流す音だったり、ドアを閉める音だったり。
ドキン。もしや、さっき藤堂君も私がお風呂に入っている時に、聞いていたのかな。
洗面所のドアの閉まる音も聞こえた。そして藤堂君が頭をゴシゴシとバスタオルで拭きながら、リビングに入ってきた。
「あ、ドライヤー使うよね?」
私は藤堂君にドライヤーを渡した。
「サンキュ」
藤堂君はドライヤーを受け取り、またリビングを出て行った。
藤堂君、お揃いのパジャマ着てた。紺と白のストライプ。すごく爽やかだ。
でも、どっかで見たよね、あの柄。ああ、私の下着だ。そうか。紺と白のストライプにしていたら、藤堂君のパジャマとお揃いになっちゃってたんだ。
ドキン。また、胸の鼓動は高鳴った。メープルはすっかりおとなしくなり、床に丸まっている。もしかして、もう眠いのかもしれない。
藤堂君は、またリビングにやってきた。なぜか、鼻の横を掻き、照れながら。
「あ、あったまった?」
私は何か話さなくっちゃと思い、そう聞いてみた。あ、また司君って言えなかったな。
「うん。あったまった。穂乃香は?」
「うん。ちゃんとあったまったよ」
ああ、藤堂君は穂乃香って呼んでくれるのに。
「…喉乾かない?」
「うん、大丈夫」
「俺、水飲んでくる」
「うん」
藤堂君はリビングからダイニングに抜け、それからキッチンに行った。
時計を見ると、9時半。テレビでもつけようかな。やたらと静かで、それだけでも緊張してくる。いつもなら、ここに守君が寝そべって、テレビをつけて観ている時間帯だ。
私はテレビをつけてみた。あまり藤堂君はテレビを観ないようだけど、たまにはいいよね。
テレビでは洋画をやっていた。そこに、藤堂君がコップを持って現れた。そして、私の前に座り、水をゴクゴクと飲んだ。
あ、隣には座ってくれないんだな。いや、隣に座られても、ドキドキしちゃって大変なことになりそうだけど。
なんとなく二人で、テレビを黙って観ていた。その映画のタイトルもわからないし、出ている俳優も誰だかわからない。ついでに言うと内容も、途中からだったからわからなかった。だけど、なんとなく観ていた。
すると、いきなり濃厚なキスシーンがあり、男の人が女の人の服を脱がしだした。
げ!ベッドシーン?どどどど、どうしよう。消す?違う番組に変える?こんな時、どうしたらいいの?!
私は困ってしまい、下を向いた。そしてちらっと、藤堂君を見た。すると意外にも藤堂君は、平然とした顔でテレビを観ている。
なんだ。藤堂君にとっては、このくらいのベッドシーン、なんてことないんだ。
ベッドシーンは、すぐに終わり、コマーシャルに変わった。
「これ、なんていう映画?」
藤堂君がようやく、言葉を発した。
「さあ?」
「え?知らないで観てたの?」
「うん。つけたらやってたの」
「…なんだ。観たくって見ているのかと思った」
「違うよ。別に観たかったわけじゃ」
うわ。もしかしてあの、ベッドシーンも私が観たくて見てたんだと思ってた?
「じゃあ、もう消す?」
「うん」
そう言うと藤堂君は、テレビを消した。するとまた、部屋がし~~んとなってしまった。
私はメープルを見た。あ、目を閉じてる。もしかして寝ちゃった?
ああ、どうしよう。こんなにし~~んとしている中、どうしたらいいんだろう。メープルを無理やり起こすわけにもいかないし。
バクバク。心臓の音だけが、部屋中に響き渡りそうだ。
「穂乃香」
「え?!」
ドキン!!!
「2階に行く?」
「う、うん」
2階に行って、どうするの?わかんないけど、うんって言ってしまった。
藤堂君は、自分の部屋の前に立って、
「勉強でもする?」
と聞いてきた。とてもじゃないけど、勉強なんて手につかないことはわかっている。だけど、一緒にいたくて、うんとうなづいた。
藤堂君の部屋に入った。藤堂君がクッションを置いてくれたので、またそこに座った。藤堂君は自分の机の椅子に腰かけた。
「なんの勉強しようかな」
藤堂君はそう言うと、英語の教科書を手にして、
「英語でもする?」
と聞いてきた。
「うん」
バクバク。絶対に勉強に何てならなさそう。と思いながらも、私はテーブルに向かってちゃんと座ってみた。藤堂君も私の前にあぐらをかき、教科書とノートを広げた。
「予習でもしようか。まだ学校でやっていないところを、訳してみる?」
「うん」
藤堂君はそう言うと、スラスラとまだ授業でやっていないページを流ちょうに読み上げ、
「じゃ、ここ。和訳してみて」
と私に教科書を渡した。
うそ。わかんないよ。わかんない単語だっていっぱいあるのに。でも、必死に一行ずつ、訳してみた。
「それだと、直訳なんだ。そこの文章はね」
藤堂君は私が訳したのに対して、丁寧に直してくれた。ああ、さすがだ。藤堂君。
ザー…。雨の音が強くなった。風もかなり吹いているみたいだ。
「温泉ってどこだっけ?」
「伊豆だよ」
「お天気大丈夫かな」
「どうだろうね。雨だと露天は無理かな」
そんな話をして、それからまた、勉強に取り掛かった。私が訳している間は、藤堂君は静かにただ待っている。だから、部屋がしんと静まり、雨と風の音だけが聞こえてくる。
「かなり、風、強くなってきたね」
「うん…」
勉強なんて手につかないと思っていたのに、しっかりと2人でやっている。なんていうか、ドキドキしちゃうから、必死に勉強をして、気を紛らわしているっていう感じもある。
藤堂君の視線をふと感じた。私は辞書を引いて、単語を調べている最中だったが、そっと顔をあげ藤堂君を見た。
「…」
目が合った。ドキン。
パッ!私は視線を外し、また辞書のほうを見た。えっと、なんていう単語を調べていたんだっけ。
「……」
藤堂君が私の髪の毛に触ってきた。
ドキ~~~~~ッ!なんで?
「あ、糸屑だった」
藤堂君がそう言った。なんだ。それを取ってくれただけか。じゃ、さっき見てたのも、髪に何かがついていたからか。
ドキドキドキ。ああ、もう。いきなりまた、鼓動が激しくなってきちゃったよ。
「穂乃香の髪って、綺麗だよね」
ドキン。
「それに、まつ毛、長いんだね」
きゃ~~。そんなじっくりと、私の顔を見ないで!ああ、顔が一気に熱くなる。
「あ、あの。この単語、意味がいまいちわからないの」
私は必死でそう言った。
「どれ?」
藤堂君は顔を近づけて、教科書を覗き込んだ。わ。わわ。藤堂君の顔が近い。
ドキドキ。胸が高鳴る。
いつもだったら、ここで私は、顔を遠ざける。でも、なんでだか、今日は遠ざけなかった。こんなに胸がドキドキしているのに。
「ああ、これか。これはね…」
藤堂君はそう言うと、少し目線をあげた。そして私とまた目が合ってしまった。
ああ、顔、真ん前だ。
「………」
藤堂君が私をじっと黙って見ている。
ドキン。私は視線を下げた。藤堂君の手が目に入った。すると藤堂君は私の手の上に、藤堂君の手を重ねてきた。
ドキン!
藤堂君の顔が近づいてくる。もしかして、キス?
思わず、目を閉じた。藤堂君の唇が、そっと私の唇にふれた。
バクバクバクバク。藤堂君、なかなか唇を離さないでいるけど、なんで?
藤堂君はそっと唇を離すと、私の髪を撫でた。
ドキン。
私はまだ、目を開けられず、そのまんま固まっていた。すると、また藤堂君が唇を重ねてきた。
うわ。うわわわ。
心臓が。心臓が。どんどん早くなるよ~~~~。
藤堂君が唇を離した瞬間、私はさっと藤堂君から離れた。
心臓がバクバクで、顔から火が出たように熱くなって、胸が締め付けられ、苦しくなった。
「穂乃香?」
ドキン。わ。名前を呼ばれただけでも、心臓が飛び出そうだ。
私は思わず、後ろを向いた。どう反応していいかもわからず、ただ固まっていた。
ス…。藤堂君が立ち上がった音がした。そして、私のすぐ横に座った。
わ~~~、なんで?なんでこっちに来ちゃったの?!
「怒った?」
クルクル。私は首を横に振った。それからしばらく藤堂君は、黙ってただ横に座っていた。
ドクンドクン。私の心臓の音、聞えてないかな。雨の音でかき消されていたらいいんだけど。
フワ…。
ドキン!
藤堂君が、私のことを後ろから抱きしめてきた。
きゃ~~~~~~。どどど、どうしよう。
ちょっと待って。これ、暴走してるの?いや、そんなことないよね。でも、どうしたらいいの?
ここで、バチンってたたくの?でも、そっと抱きしめてるだけだから、このままにしていてもいいの?
だけど、心臓が持ちそうもない。どうしよう!
「さっきの、見なかったらよかった」
「え?何を?」
「映画…」
「な、なんで?」
「…ちょっと、穂乃香と俺にだぶらせちゃったから」
何をどうだぶらせたの?まさか、あのベッドシーン?
キスをしたあと、男の人が、女の人の服を脱がせてたよ。まさか、まさか、藤堂君も?!
まさかでしょう?!
バクバクバク。心臓が…。バクバクバク。ど、どうしたらいいんだ。この状況。ずっと藤堂君は私を抱きしめ、動かないでいる。
藤堂君の息が耳元にかかる。藤堂君のぬくもりが、じかに伝わってくる。
石鹸の匂いや、男物のシャンプーの匂いまでしてくる。顏、近いかも。
「穂乃香…」
ドクン!耳元でささやかれた!うわ~~~~~。パニック!
どうしよう!!
カチン…。私は動けなかった。視線だけが定まらないで、あちこちに泳いでいたけど、体はぴくりとも動けなかった。
両手はグーで握りしめていた。掌は汗ばんでいた。
どこ?どこがバチンって叩いていい場面?これ、暴走してるの?わかんないよ~~~。
藤堂君の手は、私の前で交差をしていた。藤堂君の腕が私の胸に当たりそうで、当たらない位置にずっとあった。だけど、だんだんと私のことを強く抱きしめて来て、腕がとうとう胸に当たってしまった。
ど、どうしよう。藤堂君に今、ぎゅうって抱きしめられている。さっきは、ギュってしてもらいたかった。でも、今はとにかく頭の中が真っ白だ。
嬉しいんだかなんなんだか、自分でも困惑している。
でも、けして嫌なわけじゃない。だけど、どうしたらいいかがわからなくって、困惑している。
ス…。藤堂君の腕の力が抜けた。ああ、藤堂君、やっと離れてくれるんだ。
ギュってしてもらったのが、嬉しいくせに、今、ものすごくホッとしている。
だけど、ホッとしていたのもつかの間だった。藤堂君は右手を藤堂君の左手から離すと、そのまま私の左の胸の上に重ねてきたのだ。
「…?!」
藤堂君!?胸、触ってる?!
ぎゃ~~~~~~~~!!!!!!!!!
うそ~~~~~~~!!!!
一気に頭の中が、パニックを起こした。自分でもわからないうちに、私は藤堂君のほうに向きながら、バチンと顔をたたいていた。
「いって~」
あ。私、思い切り平手打ちしたかも。
私の右手も、じんじんしている。
「ご、ごめんなさい」
私が謝ると、藤堂君は下を向き、黙り込んだ。
「あ、あの…」
怒った?!
「目、覚めた」
「え?」
「暴走しそうになった」
「…」
やっぱり、暴走してた?
「ごめん」
藤堂君は私のほうを見ないで立ち上がると、自分の椅子に腰かけた。そして、またうつむいてしまった。
「わ、私、部屋に戻る」
それだけ言って、私は藤堂君の部屋を出た。
バクバクバク。心臓はまだ高鳴っている。右手はまだ、じんじんしている。相当強くたたいたから、藤堂君、痛かったよね。
自分の部屋に入り、バタンとドアを閉めた。それから、布団を敷いて、すぐに横になった。
布団はど真ん中に敷いた。藤堂君の部屋の方には敷かなかった。
ドキドキドキドキ。まだ、鼓動がおさまらない。藤堂君の抱きしめていた腕の強さとか、ぬくもりとか、息とか、声とか、まだ体に残っている。それに、ちょっとだけなのに、胸にふれた感触までが。
藤堂君の手、大きかった。私の胸、すっぽりと隠れた。
って、そうじゃなくって!
あ~~~。明日、どうやって顔を合わせたらいいんだ。
たたいたし、それも思い切り。いくら、バチンってたたいていいよって言われてたとは言え、強すぎだよ。あれじゃあ。
はあ…。ため息が出た。やっぱり、下着を選んでみたり、念入りに洗ってみたり、どこかで期待していたけど、ちょっと抱きしめられただけであれだもん。とてもじゃないけど、そういう関係になるなんて無理だ。きっと、100年早い。
ザーザー。雨の音がまた強くなった。そして、窓には雨の当たる音や、風の当たる音がして、窓はガタガタと大きく揺れた。
私はそのまま、しばらく布団に丸くなっていた。藤堂君の部屋からは、まったく物音もしない。きっと藤堂君はまだ、椅子に腰かけたままかもしれない。




