第82話 「司君」
雨はどんどん強くなった。藤堂君は私の手を握り、早足で歩いている。私はそのあとをちょこちょこと、小走りでついていった。
家に着く頃には、すっかり私たちは雨に濡れてしまった。
「すぐにお風呂入れようね」
藤堂君がそう言って、玄関のドアを開けた。
「その前に、タオルだな…」
藤堂君は急いで靴を脱ぎ、洗面所からタオルを持って来てくれた。そして私に渡そうとして、
「あ…」
と言ったあとに、思い切り顔をそむけ真っ赤になった。
え?なんで?
私はタオルを受け取って、腕を拭こうとして気が付いた。うわ~~。ブラウスが雨に濡れて、しっかりとブラジャーが透けて見えちゃってた!
「風呂沸かしてくる」
藤堂君は顔を真っ赤にさせ、洗面所に行った。
私はすぐに2階に上がり、ブラウスからTシャツに着替えて、一階に下りた。
メープルが嬉しそうにしっぽを振って、私のところに来た。足元にすり寄ってくるととってもあったかい。雨で濡れて、すっかり私、冷えちゃったんだな。
「メープル、ただいま!あったかいね~~」
そう言ってメープルに抱きついた。メープルはワフワフ言って、喜んでいる。
「穂乃香、お風呂できたら先に入ってね。俺、着替えてくる」
洗面所から藤堂君が出てきてそう言うと、2階に上がって行った。
また、穂乃香だって。なんだかもう、藤堂君は呼び捨てで呼ぶことに、抵抗ないんだな。私だけが恥ずかしがってるんだなあ。
メープルとリビングに移動して、ソファに座り、メープル相手に練習をしてみた。
「つ、司君」
ドキドキ。呼ぶだけで緊張しちゃう。
「司君」
メープルは首をかしげた。
「司君!」
そう言って、メープルに抱きついてみた。ああ、これが藤堂君で、司君って呼んで抱きつけたらいいのに、なんて妄想しながら。
「それ、メープルだけど」
え?!
後ろを振り返ると、藤堂君がリビングのドアのところに立っていた。きゃあ。いつ、一階に下りてきたの?
「司はこっち」
そう言うと、藤堂君は私のほうに寄ってきて、私の真ん前で黙って立ち止まった。
「……」
「……」
あれ?なんで、黙って真ん前で立ってるの?それになんで、両手をちょっと広げてるの?
「…抱きついてこないの?」
「え?!」
「今、司君って言って、抱きついてた」
藤堂君は耳を赤くしてそう言った。
「あ、あれは違うの。司君って呼ぶ練習をしていただけなの」
私は慌てふためいて、そう言った。きっと顔が真っ赤だ。顔が今、かっかかっかと火が出るように熱い。
「呼ぶ練習?」
「そう。なかなか呼べないから…それで」
「…メープル相手に?」
「うん」
メープルは私にすり寄って、私のほっぺをベロベロ舐めだした。
「くすぐったいよ、メープル」
そう言って私は、メープルの頭を撫でた。
「ふうん…。で、もしかして抱きつく練習もしてた?」
「え?!」
藤堂君の質問に、思い切り声が裏返った。それを聞き、メープルは「ワン」と一回吠えた。
「ち、ち、違うの。抱きつく練習なんかしてないよ。ただ、メープルがあったかかったから。なんだか、私冷えちゃったみたいで」
ああ、苦しい言い訳だ。でもまさか、抱きつくところを妄想して…、なんて言えやしないし。
「大丈夫?ひざ掛けでも持って来る?あ、あったかいものでも入れようか」
藤堂君が優しくそう言ってくれた。
「私がする。藤堂君も飲むでしょ?何がいい?」
「いいよ。ここでメープルと抱きつきながら待ってて」
「う、うん」
「カフェオレにしようか?穂乃香」
「うん」
ドキン。ああ、まだ、「穂乃香」に反応しちゃう。
私はリビングで、メープルを撫でたり、ひっついたりしていた。本当にあったかい。
「はい。熱いから気をつけて」
藤堂君は、マグカップを二つ持って、リビングにやってきた。
「ありがとう」
「お砂糖入れてないよ。甘いの苦手だったよね?」
「うん」
藤堂君は、私のすぐ横に座った。そして、マグカップを手にしてカフェオレを飲んだ。私も隣でドキドキしながら、カフェオレを飲んだ。
ドキン。それにしても、なんで隣に座ったのかな。
藤堂君はマグカップをテーブルに置くと、私をじっと見た。
「な、なに?」
「本当は、メープルじゃなくて、俺があっためてあげたかったんだけど」
「え?!」
ああ、また声がひっくり返った。
「でも、穂乃香、嫌がりそうだったから」
ブルブル。私は慌てて首を横に振った。嫌がるだなんてとんでもない。
「え?じゃあ、いいの?」
藤堂君が目を丸くして聞いた。
「え?」
あ!これじゃ、藤堂君に抱きしめてって言ってるようなもの?
「ま、待って。うそ、今のうそ」
私は慌てて、また首を横に振った。
「クス」
あ、藤堂君が笑った。もう、もしかして私、からかわれているのかな。
「クスクス。穂乃香、真っ赤だ」
わ~~~。笑われてる。私だってわかってる。顔がすごく熱いから、真っ赤だってこと。
でも、顔は熱いのに、体はまだ冷えていた。メープルは藤堂君の足元にすり寄っていて、私の足が一気にまた、寒くなっていく。
ブル…。足がちょっと震えた。
「…寒い?」
藤堂君がそれに気がついたらしい。
「あ、足がちょっとね」
「…ああ、そっか。ひざ掛け忘れてたね」
藤堂君は私の足を見て、顔を赤らめ、立ち上がった。
あ。足、太もも見えてた。ああ、座るとこのスカートも太ももが見えちゃうのか。また、藤堂君に見られちゃった。
藤堂君は奥の部屋から、あったかそうなひざ掛けを持って来て私の足にかけてくれた。
「これでもう、寒くない?」
「うん、ありがとう」
優しすぎる。ああ、ほわんと心の奥まであったかくなっていくよ。
それに、すぐ隣に藤堂君が座ってるから、藤堂君の肩が当たると、ますます体がほてっていっちゃって、どんどんあったまっていっちゃう。
「メープル、くすぐったい」
メープルが、今度は藤堂君の顔を舐めている。そして藤堂君は、わしわしとメープルの背中を撫でている。
いいなあ。
え?なんだ、今の「いいなあ」って。何がいいんだ?私…。もしかして、藤堂君に撫でられたいの?
ぎゅって抱きしめてもらいたいの?
う~~~~。そうなんだ。さっきは、嘘って言っちゃったけど、本当は抱きしめてもらいたかったんだ。でも、そんなこととても、言えないし!
ああ、さっきの…。藤堂君が両手を広げて待っていた時、抱きついちゃえばよかった。そうしたら、どうしたかな。ギュってしてくれたかな。
藤堂君に、あっためてもらえばよかった。
なんて、私は何を考えてるんだろう。さっきから、かなり変だ。
その時、音楽が流れだした。あ、お風呂ができたって合図の音楽だ。
「穂乃香、入って来ていいよ」
「うん」
私は立ち上がり、2階に着替えを取りに行った。
「……」
チェストの引き出しを開け、しばらく悩んだ。
「ど、どうしようかな」
ピンクのレースの下着か、紺と白のストライプのシンプルな下着か…。
ピンクのは、誕生日に、なぜか麻衣と芳美がくれたものだ。こんなの絶対に自分で買わないでしょう。だから、あげるって言って、くれたんだけど、買うどころかつけることもないよって、一回もまだ身に着けていない。
紺と白のストライプは、藤堂家に来る前に、下着を新調しようと思って買ったものだ。藤堂君に見せるために買ったわけではないけど、見られても、ちょっとスポーティでいいかなって、思ったりもして買った下着だ。
どっちをつけよう。
いや、悩まなくてもいいんだけど。こんなことで悩んでいたら、なんだか期待してるみたいだし。でも、もしってこともあるし。
あんまりレースのひらひらは、まるでそうなることを予想していましたって思われるような下着かな。あ、あれだ。勝負下着。
いや、でも、このくらいは、普通の女の子ならつけるかな。
こっちのストライプのはあまりにも、色っぽくなさすぎかな。どうなんだろう。どうなんだろう~~~。
ええい!ピンクのレースにしちゃえ!
私はピンクの下着を持って、それに藤堂君と色違いのパジャマも手にして一階に下りた。
藤堂君はまだ、リビングでメープルと遊んでいるようだ。私は何も言わずそのまま、洗面所に行き、ドアに鍵をかけた。
ガチャ。
いや、藤堂君が覗きに来たりしないのはわかってるけど。でも、なんとなく…。
それから、お風呂場に入った。そして熱めのシャワーを浴びた。
「あ~~。あったまる」
そして、ふうってため息をつき、体を洗い出した。
ドキドキドキドキ。なんで、私は体を洗っているだけなのに、こんなにドキドキしてるんだ!
髪も洗って、それからバスタブに入った。
「は~~~~」
気持ちがよくって、思わず声が出た。そして、しばらくぼ~~っとしていた。
まだ、9時にもなっていないんだろうな。夜、長いな。どうやって、過ごすのかな。
ドキドキドキドキ。あ、またいきなり鼓動が早くなりだした。
もし、万が一、藤堂君が暴走したら…。
って想像しようにも、どう暴走するのかわからないけど、でも、もし…。そうなったら、私、ぶったたけるの?
っていうか、こんなに念入りに体を洗ったり、下着を選んだりしている時点で、思い切り期待してるでしょう!
どうしよう~~~~。期待している自分が怖い。
ああ、もう出ないと。あんまり長く入っていても、藤堂君が不思議がるよね。
お風呂から出て、体を見た。足や手の毛は気にならない。脇は?うん。昨日ちゃんとしたから、大丈夫だ。
ただ、ちょっと足がかさついてる。クリームを2階に行って、塗っておこう。それから、胸。
ああ!こうやって立っていたら、ちゃんとあるんだけど、寝たらぺったんこになっちゃうんだよね。
って、そうじゃない。何をだから、私は考えているんだってば!
とりあえず、さっさと出よう。藤堂君だって、雨に濡れて寒い思いをしたんだから。
それから下着をつけて、パジャマを着ようとしてまた、手が止まった。
「この下着、やっぱり変かな?」
こんなレースのひらひら、つけたことないから、奇妙な感じすらする。ピンクなんて、身に着けないって藤堂君、思っているだろうし。こんなのつけてたら、引くかな…。
って、だから!なんで、そんなことばっかり考えてるんだ、私は!
パジャマをさっさと着て、髪をバスタオルで拭きながら、私はリビングに行った。
「ごめんね?遅くなって」
そう言うと、藤堂君はなぜか、目を丸くした。
え?なんで?何かおかしい?
「あ、もうパジャマ着たんだ」
え?変だった?早すぎた?なんだか、期待しているみたいだった?
「あの…」
カチン。私がその場で固まると、
「じゃ、俺も、穂乃香とお揃いのパジャマにしよう」
と藤堂君は言って、2階に上がって行った。
は~~~~~~~~~~。
私は脱力しながら、ソファに座り込んだ。メープルが足元に寄ってきて、私の口を舐めた。
「メープル、さっき、藤堂君の口も舐めた?もしや、これって間接キス?」
と、わけのわからないことを言って、私はまた顔を赤くした。
と、とりあえず、ドライヤーかけよう。私はどうにか立ち上がり、2階に行った。
髪を乾かし、それから足や手にクリームを塗った。そして、しばらくぼけっとした。
パジャマなんて着ちゃって、どう思ったんだろう。
は~~。なんだか、恥ずかしくってこのまんま、布団敷いて眠りたくなってきた。
だけど、藤堂君が私の部屋に来て、私がもう布団を敷いていたら、逆に変に思うよね?
やめた。布団なんか敷いたら、期待してるって思われる。
ドライヤーを持って私は一階に行った。そしてメープルと一緒に、藤堂君がお風呂から出てくるのを待った。
「はあ」
ドキン。また、鼓動が早くなる。
「メープル。いったい、これから私と藤堂君、どうなっちゃうと思う?」
メープルにこそこそと話した。メープルはまた、首をかしげた。
「…、司君」
私はまた、メープルをそう呼んだ。そして抱きついてみた。
「司君って、せめて呼ばないとね」
ドキドキドキドキ。鼓動は早くなるばかりだ。だけど、心の奥の奥で、私は2人っきりの時間を、期待しちゃってる。
今頃、藤堂君はお風呂で何を思っているんだろう。まさか、私が念入りに体を洗ったり、ピンクのレースの下着を身に着けているなんて、思ってもみないんだろうな。
そんなことを思いながら、私はメープルに抱きついていた。
「司君…」
と何度も、練習しながら。




