第59話 転校?!
翌日、朝起きると熱は36度まで下がっていた。だけど、母に今日は安静にしていなさいと言われ、学校を休んだ。
我が家は、藤堂君の家ほど大きくない。リビングダイニングには、ソファすら置いていない。というよりも置けるスペースがない。部屋数も3LDKで、物もあちこちにあふれている。
私はリビングの床に大きなクッションを置き、そこにゴロンと横になった。
「メープル、可愛かったなあ」
我が家でもペットを飼おうと、私と兄が提案したことがある。だが、兄は体も弱く、犬の毛も猫の毛も、あまりよくないだろうと両親に言われ、飼うことができなかったのだ。
我が家が、母も父も働いているのに、いつまでたっても狭い家に住んでいるのは、兄の心臓の手術代や、入院の費用などでお金がかかったからだ。そのうえ、元気になったらなったで、私立の大学だの、一人暮らしだのと、とにかく我が家のお金を兄一人でふんだんに使ってくれているのだ。
「いい気なもんだよなあ」
そんなことを一人つぶやいてみた。兄のことは嫌いではないが、正直、美大を受けるのをあきらめたのは、我が家の経済状態も考えてのことなのだ。
「専門学校もきつかったりして…」
私がぼそぼそと言っているのを、キッチンで母が聞いていたようだ。
「昼もお粥があるから、それを食べて」
「うん」
母がキッチンから出てきてそう言った。母は今日も、コンビニの仕事がある。
「ねえ、穂乃香。実はね…」
母はそう言ってから、ちょっと下を向き黙った。
「何?」
「ううん。帰ってきてから話すわ」
「?」
母はいそいそとカバンを持って、家を出て行った。
なんだろう。何か相談事?まあ、そんなに顔が暗くもなかったし、心配はしなくてもいいかな…と私は軽い気持ちでいた。
だが、お昼にお粥を食べながらテレビを観ていると、携帯に電話がかかってきて、そんなのんきなことを言っていられなくなったのだ。
電話は兄からだった。
「もしもし?」
なんだろう。わざわざ電話なんて。
「穂乃香。今、お父さんかお母さんいるのか?」
「え?ううん。お母さんはパートだし、お父さんだって仕事だよ」
「じゃあ、まだ辞めていないのか」
「どういうこと?」
「お父さん、会社辞めるって話を聞いていないのか?」
「ど、どういうこと?」
待ってよ。会社辞めてどうするのよ。そうしたら生活費は?兄の大学は?
「まさかリストラ?」
「いや、違うってさ」
「なんでお兄ちゃん、知ってるの?」
「午前中に母さんから電話があった」
「なんて?」
「だから、お父さんが会社辞めて、お母さんもパート辞めて、その家も売って、引っ越すって」
「ど、ど、どうして~~?それに引っ越すってどこに?!」
「信州」
「信州?」
「長野って言ってたっけな」
「なななな、なんで~~?」
「やっぱり、穂乃香に何も言ってないんだな」
「あ、まさか、お兄ちゃん、また心臓…」
悪くなったとか?それで一緒に空気のいいところに引っ越すとか。
「俺はいたって元気」
「じゃ、じゃあなんで?」
「父さんと母さん、ペンションするんだって」
「…へ?」
「長年の夢だったんだって」
「そ、そんなの初耳」
「だよなあ。でも、金もたまったし、いい年齢にもなってきたし、いい物件も見つかっちゃったし、今が夢を叶える時なんだって、そう思ったらしい」
「…そ、それ、いつ決まったの?」
「ここ一か月くらいの間に」
「私、何にも聞いてないし、何にも相談も…」
「あ、決まったって言っても、本契約はまだらしいよ。だから、俺らに相談してから決めようと思ったみたい」
「う、嘘でしょ。じゃ、私はどうなるの」
「そうだよな。俺は一人暮らししてるから別にいいけどさ、穂乃香はどうする気でいたんだろうな。今さら転校もしたくないだろ?」
「したくないよ」
「だよなあ。でもさ、父さんの親戚はみんな静岡だろ?それに母さんの親戚はあちこちに散らばっていて、じいちゃんとばあちゃんは、今、千葉だったよな。前は鎌倉に住んでいたこともあったみたいだけど…」
そうだよ。鎌倉だったら今の高校に通えたのに。何で千葉なんかに行っちゃったの!
「今は伯父さんと同居しちゃってるもんなあ…。結局どこか親戚の家に住むって言っても、転校する羽目になるんだよなあ」
「嫌だ。だったら、一人で暮らす」
「女の子一人で?無茶だよ」
「そんなことない。じゃなきゃ、学校の寮」
「あるっけ?」
「ない」
「…やっぱり、長野について行くしかないんじゃないか?俺が残っていたら、2人で住んでもよかったけど。あ、こっちに来る?ま、結局は転校になるけどな」
「嫌だ。絶対に転校なんて嫌!」
「穂乃香?おい、大丈夫か?泣いてるのか?」
兄が心配そうに聞いているのにもかかわらず、私は怒りと悲しみでぶちっと電話を切った。
じょ、冗談じゃない。何が夢よ。ペンションよ。それもお金がたまったってことは何?兄のためにお金が出て行ってたんじゃなくて、ペンションを経営するために、お金をためていたってことなの?
「冗談じゃないよ~~~」
私は誰もいない家で、大きな声でそう叫んだ。
転校?長野?冗談でしょ。そんなに遠くに行ったら、藤堂君に会えなくなる。別れなきゃならない。
嫌だ。そんなの絶対に嫌だ。
ボロボロ涙があふれて止まらなかった。親の勝手な都合で振り回されるの何てごめんだ。
嫌だ。どんなに反対されても、私は残る。一人でだってここで暮らす。
ああ、そうか。この家も売るのか。だったら、アパートでもいいよ。一人で暮らすもん!
涙が止まらなかった。そんな決意をしたところで、未来がどうなるのかがまったく見えず、不安と悲しみで涙が止まらなかった。
柏木君も、親のいきなりの離婚で、こんなふうに戸惑ったり、怒りが出たりしたの?
そりゃそうだよね。自分ではどうにもできない変化が起きちゃうんだもんね。
そりゃ、やけになりたくなるよね。
ああ、なんでせめて私が、高校を卒業するまで待ってくれなかったの?
もし、進学するお金が大変だったら、働いて一人で暮らす。それもできたのに。なんで?
泣いているうちに、また頭痛が襲ってきた。なんとなく寒気もする。熱を測るとやっぱり、37度5分まで熱が上がっていた。
私は自分の部屋に行き、ベッドに寝転がった。涙はまだ流れ落ち、きっと明日には目が腫れあがり、とても学校に行ける状態じゃないだろう。
母が話があると言っていたのはこのこと。母の表情は暗くなかった。自分の夢が叶うから?でも、なんなの、それ。一回も聞いたことがないよ。
いや、待てよ。そういえば、兄が心臓の手術をして、元気になってから家族で旅行に行ったっけ。あれは長野だったかな。
広い広い高原と、綺麗な空気。気持のいいところだって、私は喜んでいた気がする。
「こんなところに住めたらいいな」
なんてのんきなことを言ったかもしれない。
ああ、なんでそんなこと言ったんだろう。まさか、それを叶えるために、長野でペンションするんじゃないよね?
そんなことが叶っちゃうんじゃないよね?
どうしよう。藤堂君に言ってみる?麻衣に相談する?それとも先生。それとも…。
私の頭がグワングワンしてきた。駄目だ。思考回路止まる寸前。そして、泣きながら私は眠ったらしい。
母の声で目が覚めた。1時ころに寝て、5時過ぎまで目が覚めなかったようだ。
「どうしたの?目、腫れてるわよ」
「…」
「熱は?」
「あがったから寝てたの」
「そう。病院行ってみる?」
「いい」
私はわざとぶっきらぼうに答えた。
「そういえば、話って何?」
「ああ、いいわよ。また今度で。あなた熱あるんだし、寝てなさい」
「…なんで?」
「え?」
母が私を見た。私は一回母を睨んだが、すぐに視線を外した。
ピンポン…。その時、チャイムが鳴った。
「は~~い」
母がインターホンで出ると、なんと藤堂君の声が返ってきた。
「司君、お見舞いに来てくれたのね」
母はそう言って、スタスタと玄関に行った。
どうしよう。私、かなりブス顔になってるよ。布団でもかぶって寝ていようか。
「穂乃香、入るわよ」
部屋に藤堂君を引きつれ、母が入ってきた。
「ちょっとちらかってるけど、その辺にでも座ってね。今、何か冷たいものでも持って来るから」
母はそう言うと、部屋を出て行った。
「結城さん、熱は?」
私は顔まで布団をかぶり、
「まだある」
と答えた。
「寒いの?」
「ちょっと」
「そうか。じゃ、また熱が上がってきたのかな」
「かもしれない。風邪うつしても悪いし、今日は藤堂君もう帰って?」
「…昨日だってずっと一緒の部屋にいたんだし、大丈夫だよ。うつっているとしたらもううつっちゃってるだろうしさ」
そんな~。
トントン。母がノックをしてから入ってきた。
「はい。ウーロン茶でよかった?」
「あ、はい。すみません」
私は布団の隙間から、藤堂君を見ていた。藤堂君の座っている前に、母がトレイごとウーロン茶を置いた。
「わざわざありがとうね」
「いえ。母も帰りに寄ってきなさいって言ってたし、俺も気になっていたので」
藤堂君はそう言うと、ちょっと黙り込んだ。
「それと、もう一つ、母から伝言が」
「え?穂乃香に?」
「はい。あ、結城さんにもだけど、お母さんにも」
「何かしら」
「うちは本当にかまわないから、ちゃんと今夢を叶えてって。きっと今出会ったのは、そうなるようになっていたんだからって」
え?
もしかして、藤堂君のお母さんは母のペンションの夢、知ってるの?
「長年の夢が叶うんだから、いくらでも協力するって言ってました」
「…千春ちゃんが」
「あ、父も、うちなら全然大丈夫だからって」
「そう、藤堂さんもそう言ってくれてるの」
母がちょっと言葉を詰まらせた。泣いているのかもしれない。
「俺も、弟の守もしっかり受け入れ態勢万全になってますから」
「え?司君も?」
「はい」
受け入れ態勢?って何を受け入れるの?まさか、私が長野に行くことを?
いや、待てよ。守君もって言ってたよね。
何を?いったい何を受け入れちゃうわけ?
「まだ、穂乃香には話していないのよ」
「え?!」
藤堂君が驚いた声を出した。
「長野のことも話していないの」
母がそう言うので、私は布団の中から、
「昼にお兄ちゃんから電話があって、もう聞いたよ」
と小声で言った。
「え?高宏が?」
「うん」
「なんて?」
「…お父さんとお母さんが長野でペンションをするって。夢を叶えるんだって」
「…そ、そう。あの子話しちゃったの」
「…それで、私、絶対に転校は…」
「嫌よね?だけど女の子一人を残していけないし。高宏がいたら、2人でこっちで暮らせたんだろうけど」
母はそう言ってからしばらく黙った。すると藤堂君が、
「それでうちの親が、結城さんがうちに住んだらどうかって、提案したんだ」
と静かに話し出した。
「ええ?」
私は思わず、かぶっていた布団から顔をあげ、2人を見た。
「結城さん、もしかして泣いてた?」
あ、ばれた!
「高宏から電話があって、話を聞いちゃってあんた泣いてたの?」
「だ、だって、転校はしたくなくって」
「…うん。俺も結城さんが長野に行くのが嫌だし、うちに来たらいいよ」
「…え?」
今の、本気?
「穂乃香。千春ちゃんも藤堂さんも、いいよって言ってくれてるの。どうする?お父さんに昨日話したら、一人暮らしするよりはいいかもなって言ってくれたのよ」
「お、お父さんが賛成したの?」
嘘。彼氏がいることすら、反対しそうな頑固親父なのに?
「あんたの彼氏の家だってことは内緒にしてるわよ。私の親友の千春ちゃんがそう言ってくれたって、そう話したわ。会ったことはないけど、お父さんも千春ちゃんのことはお母さんが良く話していたから知ってるし」
「内緒なんですか?」
藤堂君の顔が引きつった。
「あの人、ちょっと穂乃香を溺愛してるからね。子供の頃はずっと心臓の弱かった高宏のことばかりを見ていたから、穂乃香に悪いことをしたと思ったんじゃないの?高宏が大学行ってからのほうが、異常なほど穂乃香を可愛がっちゃって。ね?穂乃香」
「うん」
「そ、そうなんですか」
「大丈夫。なにせあの千春ちゃんだもの。お父さんだって賛成するに決まってる」
「…あの千春ちゃん?」
藤堂君がきょとんとした。
「うちにある本はほとんど、千春ちゃんがくれたの。ペンションをするっていう夢を叶えようって、お父さんが言い出したのも、あの本のおかげなんだもの」
「そうなの?」
びっくりだ。
我が家の本棚に並んでいる、成功哲学だの、精神世界だの、そういった類の本のおかげで、お父さんとお母さんは夢を叶えようと頑張っちゃったわけ?
「じゃ、俺、母さんに結城さんがOKしてくれたってそう伝えていいですか?」
藤堂君が母に聞いた。母は、にっこりとうなづき、
「千春ちゃんによろしく言ってね。すぐにでもペンションのオーナーになる契約をするって、もう決意できたって、そう伝えて」
と力強くそう言った。
「はい」
藤堂君も力強くうなづき、
「じゃ、帰るね。結城さん、ちゃんと寝て、風邪治ってから学校に来るんだよ」
と私にそう言って、部屋を出て行った。母は藤堂君のことを見送りに行った。
ま、ま、待てよ…。
何が起きたんだ?
私は転校をしないで済みそうだ。
藤堂君と別れなくても済みそうだ。
それどころか、藤堂君の家に住むことになりそうだ。
と、藤堂君の家に、住む~~~~~?!!!!!
ひょえ~~~~!!!!!
やっと理解した私の頭は、一気にまた熱をあげ、その日も寝込み、翌日もまた学校を休むことになってしまった。




