第42話 二人きりの教室
藤堂君はきっと気が付いていない。自分の優しさを。その優しさに私が、思い切りまいっちゃっているっていうことも。
翌日からほとんどの部活が、試験前のために休みになった。美術部も弓道部も部活がないので、私と藤堂君は試験勉強を放課後、教室に残ってすることにした。
「私は今日と明日、バイトいれちゃったんだよね」
そう言って、麻衣はいそいそと帰って行った。
「私と沼っちは、沼っちの家で勉強するけど、2人も一緒にやる?」
美枝ぽんに聞かれた。
「いいよ、2人の邪魔しちゃ悪いし」
私がそう言うと、
「よかった。実は、本当に邪魔だったんだよね」
と美枝ぽんが言った。それを聞いていた沼田君は、横で真っ赤になっていた。
そういえば、沼田君の家、お母さん、看護師さんだっけ?お姉さんも働いているし、もしや誰もいないとか。だから、2人っきりだったりして?
わ~~~。
って、2人のことを考えてドキドキしていた私は、自分の身に何が起きているのかを、なかなか把握できないでいた。
「あれ?二人で残って勉強?」
「いいなあ。藤堂」
「いいから、ほら、帰ろうぜ」
そんなことを言いながら、クラスの男子が教室を出て行き、クラスの女子は藤堂君を怖がり、何も言わずに出て行った。
そうしてぽつんと、教室には藤堂君と私だけが残ったのだ。そのことに気が付いたのは、あまりにも教室が静かで、藤堂君が教科書をめくる音や、私がペンを走らせる音が、教室内で響いた時だ。
あ、私と藤堂君、2人きりになってる?
他の教室も静かだった。それにほとんどの部活がないせいか、グランドからも声が聞こえてこない。
し~~~ん。静かだ。めちゃくちゃ静かだ。
ドキドキドキドキ。うわ。いきなり鼓動が鳴りだした。この音、藤堂君に聞かれちゃっていないよね?
藤堂君はさっきから、黙っている。私が問題を解いているから、それできっと、静かにしてくれてるんだ。
目の前に藤堂君の手がある。ちょっと節々がごつごつしていて、爪は大きくて、平べったい。
ドキン。ドキン。やっぱり、机を二つくっつけて、勉強したらよかった。一つの机に2人で向かうのって、こんなに距離が近くになっちゃうんだ。
藤堂君の顔も、こんなに近い。どうしよう。顔、絶対にあげられないかも。
「そこでつまづいてるの?」
「え?」
「悩んじゃってる?どの辺がわかんない?」
あ、ああ。私がずっと、一つの問題で止まっているからか。う、違うの。今、問題も解けないほど、ドキドキしちゃってただけなの。
なんて、言えないよね。言えないよ。うん。
「なんだか、この辺の計算が」
私はそう言ってごまかした。
「どれ?」
藤堂君は私のノートを自分のほうに向け、問題と照らし合わせてみている。
あ~~~。近い。近すぎる。
「ここはね…」
藤堂君が丁寧に説明を始めた。
「あ、そっか」
私はどうにか、その問題は解くことができた。
「と、藤堂君も、勉強して?私のばかり見てたら、自分の勉強できないでしょ?」
そう言うと、藤堂君は黙ってにこりと笑った。
「藤堂君のノート、広げられないよね?」
私は麻衣の席に座ってた。藤堂君は椅子を後ろに向け、私のほうを向いて座っている。
「大丈夫。俺、ノートは広げなくても。ちょっと教科書に目をとおしているだけだし」
いや、私が大丈夫じゃないんだってば…。
ああ、私ったら。離れすぎていると寂しいくせに、近すぎるとときめきすぎちゃって、離れていたほうがいいって思うなんて、なんて贅沢な悩みなんだ。
いや、待てよ。本心は近づいている方が嬉しいんじゃないの?本当は近くても平気になれるくらい、仲良くなりたいなんて思っているくせに。
それにしてもいつも近くにあまり来ない藤堂君が、今日はやけに接近しているなあ。どうして?
迫ってくるかもよ…。という麻衣の言葉がいきなり頭に浮かんだ。
うわ。違う。迫りたくて、近くにいるわけじゃないよ。違うよ。藤堂君はそんなことしない。
う~~。しないって言いきれる?言いきれるの?私~~~。
ああ、頭の中は今、まったく勉強モードじゃなくなっている。藤堂君と一緒に勉強をするっていうこと自体、無理があるのかなあ。
「次の問題も、悩んでる?」
藤堂君が聞いてきた。は!いけない。まったく勉強に集中していなかった。
「あ、あの…。数学あとにしてもいい?英語でもやるよ。私」
「うん。いいけど?」
私は英語の教科書を開いた。そして黙って、和訳を始めた。藤堂君は国語の教科書をだし、何やら黙って読んでいる。
「あのさ、結城さん」
ドキン。
「何?」
「腹、減らない?俺、購買でパンでも買ってこようか」
「う、うん」
「じゃ、ジュースも買って来るね」
「うん」
藤堂君はそう言うと、教室を出て行った。
「ほえ~~~~」
私は変なため息が出た。
ああ、緊張する。嬉しいのに緊張する。ときめいていて、まったく勉強なんてできない。いったい、どうしたらいいかな。
あ、そっか。藤堂君がいない今がチャンス。英語の和訳、頑張ってしちゃおう。そしてわからないところがあったら、あとで藤堂君に聞こう。
20分以上が過ぎた。藤堂君がやっと戻ってきた。
ほ…。今度はまた別のため息だ。緊張するくせに、藤堂君がいないとやっぱり寂しいんだな、私は。
「結城さん、どのパンがいい?」
藤堂君はパンを4つも買ってきていた。これ、全部食べる気かな。
「私、選んじゃっていいの?」
「うん。好きなの選んで」
「じゃあ、これ」
私が一つパンを取ると、
「一つでいいの?」
と聞いてきた。
「うん、十分」
「そっか」
藤堂君は、パックのジュースも袋から出して、席に着いた。そして、いただきますと言って、パンを早速食べだした。
「食堂、あまり人いなかったな」
「みんな、もう帰っちゃったんだね」
「多分ね」
藤堂君はそう言うと、ジュースをゴクンと飲んだ。
「ただ、あいつがいた」
「あいつ?」
「柏木」
「声かけられた?」
「うん。何してんのってさ」
「え?」
「部活ないのに何してるんだって。そっちこそ何してるんだって聞いたら、部活だってさ。美術部ってあるの?」
「…ないよ。じゃあ多分、特別に美術室使わせてもらってるのかも」
「ふうん」
藤堂君はちょっと顔が不機嫌っぽい。
「それで?」
私が聞くと、
「…あいつ、俺が結城さんにふられたことは知らないんだな」
と藤堂君は眉をしかめた。
「…え?」
「1年の時にふられた相手のことを、まだ思ってんの?っていきなり聞かれて、俺、皮肉を言ってきたんだと思ったんだ。結城さんにふられたのを知っててさ」
「うん」
「それで、ああ、思ってるよってそう言ったら、あいつにやって笑って、それ、結城さんには教えたか?って聞いてきて」
「え?」
「なんでそんなこと聞くんだよって言ったら、俺がばらしておいてあげたって、柏木が言ってたけど…」
ギク。
「結城さん、まだあいつとかかわってんの?」
「あ、昨日の朝、たまたま美術室に行ったら、柏木君がいて」
「たまたま会ったの?」
「う、うん」
わ。今の変な言い回しになったよね。やばい。
「ふうん」
あ、藤堂君の顔、無表情だ。
「結城さんは、俺がふられた子をいまだに好きだって知っても、なんのリアクションもしなかった。お前って、本当は結城さんに好かれてないんじゃないかって、そんなことまで教えてくれたよ」
「…」
柏木のやつ。いったい藤堂君に何が言いたかったわけ?って、きっと藤堂君を困らせたり、落ち込ませたいだけだよね。
「…そ、それで?」
「別に、それだけ。俺はちゃんと結城さんの気持ちは、結城さんから聞いているからって言って、とっとと食堂から出てきた」
「そ、そう…」
バクバク。なんで私こんなに心臓がバクバクしてるの?藤堂君に柏木君と会ったことがばれて、なんでこんなに焦ってるんだろう。
別に浮気をしてるわけでもないし、藤堂君を裏切ってるわけでもないのに。
あ、でも、もう柏木君にはかかわらないって言っておいて、会ったんだから、やっぱり藤堂君に嘘をついちゃったってことかなあ。
「柏木のやつさ」
「え?」
「…また傷つけるようなこと言わなかった?」
「別に」
「…」
藤堂君が私の顔をまだ見ている。
「あ、そっか。きっと藤堂君がふられた子をまだ思ってるって言って、私を傷つけたかったんだね。でも、それで傷ついたりしないから、大丈夫だったんだけど」
「俺にはよくわかんないけど、あいつ、結城さんのこと傷つけて遊んでるように見える。自分が傷ついているから、他の奴も傷つけたいのかもしれないけど、やっぱり、結城さん、もうあいつにかかわらないほうがいいよ」
藤堂君が心配そうにそう言った。ああ、藤堂君、私が傷つくのを心配してくれてるんだ。
「う、うん。そうするね」
私はそう言って、下を向いた。
「それとも、なんか気になることでもあるの?」
藤堂君が聞いてきた。
「え?私?」
「柏木のことで、なんか気になる?」
「……。絵がね」
「うん」
「柏木君の絵が、すごく辛さや、苦しみを表現してて」
「うん」
「それを見て、痛みを感じちゃって」
「…」
「ちょっと、そのあと気になっちゃった。あ、でもそれだけなの」
「…気になって、会いに行った?」
ドキン。藤堂君、責めてるの?そんなことをしたから?
「あ、あの…」
うわあ。藤堂君の顔が見れないよ。
「そっか。気になってたのか」
藤堂君がぽつりとそう言った。
ドクン。ドクン。どうしよう。なんか変な風に思っちゃったかな。ああ、でも、私だって、なんで気になったりしちゃったのか。
「……。柏木のことは、結城さん、どう思っているの?」
「へ?ど、どうって?」
い、いきなり、何?
「気になるだけ?」
「え?う、うん」
「それだけ?」
「嫌なやつって思ってる」
「え?」
「いつもからかってきて、嫌な奴だなって」
「なのに、会いに行っちゃったの?」
藤堂君の顔を見た。わ、目が責めてるよ。目が…。私はすぐに視線を下げた。
「私にもわかんない。でも、やっぱりからかわれて、頭に来て…。もう会うのはやめようって思ったよ」
「本当に?」
なんで?なんで藤堂君、そんなにしつこく聞いてくるのかな。
ドキン!!!
なんで藤堂君、顔が接近しているの~~~?
私はぱっと顔を下に向け、藤堂君の顔を避けた。
あ、やばい。
もしかして、今、すごくやばいことをしたんじゃ…。
10秒もあったかどうかもわからない。でも、何秒も何分も私は下を向いていたような気がする。そして、藤堂君が姿勢を戻し、教科書を開いたのを確認してから、私は顔をあげた。
「ごめん」
藤堂君はぽつりと謝り、黙ってまた国語の教科書を見ている。
今、なんで謝ったのかな。
やっぱり、今のって、キスをしようとしていたのかな。
それを私が思い切り、拒んじゃった形になるのかな。
そうなるの?そうだったの?それとも、ただ単に、顔が近かっただけ?
だとしたら、今の「ごめん」は何?
駄目だ。それからも私は、まったく勉強をする気になれなかった。それどころか、私の心臓はずうっとドキドキしっぱなしだし、なんだか、目も潤んで来ていて、今にも泣きそうだ。
なんでかな。びっくりしたからかな。それとも、私、何かに傷ついたのかな。
ううん。違う。そうじゃない。私が傷ついたんじゃなくて、藤堂君が傷ついたかもって思って、なんだかさっきから、心の奥が痛いんだ。
ごめんって謝るのは、私のほうなのかな。
藤堂君は黙っているけど、本当は今、傷ついていない?
私、きっと思い切り拒んだよね。きっと藤堂君からしてみたら、私が嫌がっているように見えたよね。
「と、藤堂君」
私は藤堂君に何か言わなくっちゃと思い、声をかけた。でも、声が思い切り震えてしまった。
「え?」
藤堂君がその震えた声を聞き、ちょっと驚いて顔をあげた。目が合った。あ、いきなり藤堂君が動揺したのがわかった。
「結城さん?大丈夫?」
「え?」
「ど、どうしたの?あ、俺のせいかな」
何が?
「ごめん。さっきのは、本当に…」
また謝った。なんで?ボロ…。あ、私の頬に涙がつたった。なんで?私泣いてるの?
「違うの。これ、違うの」
私は慌てて、藤堂君にそう言った。でも藤堂君は辛そうな顔をして、顔を下げてしまった。
「ごめん。俺、柏木に取られたくないって、一瞬思った。そんで、キスしようとしたりして、ごめん」
うわ。やっぱり、キスしようとしてたんだ。
「それだけじゃないな。結城さんのことを好きなやつが、俺のほかにもたくさんいるってわかって、かなり焦ってる」
「え?」
「結城さんのことを多分、誰にも取られたくないんだ」
うわ。顔が熱い。うわわ。
「ごめん。すげえ独占欲だ。俺って、こんなに嫉妬深いんだ」
藤堂君はまったく私を見ようとしていない。下を向いたっきり、一点を見つめたままだ。
「これじゃ、柏木と同じだよね」
「え?」
「結城さんのこと、自分の勝手で傷つけてたら、一緒だよね?」
「傷ついてないよ。私は」
「…だけど」
藤堂君がやっと顔をあげて私を見た。
「藤堂君のほうこそ、私、傷つけてない?」
「え?お、俺?」
「うん。今、私、傷つけなかったかな」
「…え?」
藤堂君が驚きながら私をじっと見ている。
「あ、これ、別に傷ついて泣いてるんじゃないから。ただ、なんだろう。藤堂君を傷つけたかもって思ったら、勝手に涙が出てきちゃって」
「俺が何で傷ついたと思ったの?」
まだ藤堂君は驚きの表情のままだ。
「だって、私が拒んだから…。私が嫌がったんじゃないかって思って、傷ついちゃったかなって」
「キスのこと?」
コクン。私は黙ってうなづいた。
「…え?俺が結城さんにキスを拒まられて、俺が傷ついてるって思ったってこと?」
「うん」
「……」
藤堂君はしばらく、ぼけっと私を見て黙り込んだ。
「いや、そうだな。嫌がられたって思ったけど、でも、俺の勝手でしようとしたことだし、逆に結城さんに嫌われたかなって、そんなふうに思ったかな」
「嫌ってないよ?」
「…本当に?」
「うん。全然…」
「そっか」
藤堂君はほっとした顔を見せた。
「それに、嫌がってもいない」
「え?!」
は!私ったら何を口走ってるの。
「でも、今さっき、嫌がった」
「違うの。びっくりしたっていうか、なんで顔を近づけたのかもわかんなくって。だって、いきなりで、その…」
ま、待てよ。今の私の言ってることって、いきなりじゃなかったら、キスしてもいいって言ってるようなもの?っていうか、嫌がってないから、してもかまわないですって、催促してるようにも聞こえちゃう?
どひゃ。自分で自分の言ってることに気が付き、私の顔から火が出たように熱くなった。藤堂君を見たら、藤堂君は目が点になり、それから私と同様、耳までボワッと真っ赤になっていた。




