第25話 強さ
夜、夕飯もあまり食べる気になれず、さっさと私は自分の部屋に行き、ぼんやりとしていた。すると、麻衣が電話をくれた。
「穂乃香、大丈夫?」
私の心配をしてくれているのか。
「…麻衣。私、どうしていいかわかんないよ」
「司っちのことだよね?」
「帰りに道場に寄ったの。私、何かできることはないかって思って。でも、冷たく突き放された」
「今度の大会、出られないの?」
「うん」
「落ち込んでるのかな、今…」
「きっと…」
「しょうがないよ。そっとしておいたほうがいいのかもよ?」
「…私には何もできないの?」
「そっとしておくのも、大事なことだよ」
「おせっかいだったのかな。藤堂君にも恩着せがましいって言われた」
「それはひどい。だいたい、怪我したのだって、穂乃香のせいじゃなくて、柏木のせいなんでしょ?」
「…私が柏木君ともめてたから」
「柏木君ってさ、穂乃香が好きなんじゃないの?」
「わかんない。どこまで本気かも…」
「…ね、穂乃香。確かに今はそっとしておいたほうがいいかもしれないけど、でも、ちゃんと司っちのことは、思ってるんだよ?」
「え?」
「こんなことで、離れたら駄目だよ。好きならちゃんと、司っちが苦しんでるのも受け止めないと」
「…麻衣、そうだよね。うん。私が落ち込んでる場合じゃないよね」
「…穂乃香なら、大丈夫か」
「え?」
「穂乃香、本気で好きなんだもんね」
「うん」
「私はいつでも、応援してるから」
「麻衣、ありがとう」
「…で、私も、さっさと次の恋をしようって思ってるし。その時には応援してね」
「うん、もちろん」
麻衣が電話を切った。
お風呂に入り私は、藤堂君の後姿を思い出した。正座をした藤堂君は、何を考えていたんだろう。
今度の大会のこと?それとも…。
藤堂君ならきっと、大丈夫だってふと思った。今は辛くても、その辛さも乗り越えて力にしてしまいそうだ。
だったら、私にできることって何かな。やっぱり、見守っていくことしかできないのかな。藤堂君の強さを信じて、ただ見守ることしか…。
翌日、月曜日。朝早くに私は家を出た。そして職員室に行き、美術室の鍵を持って美術室に行った。
ふう…。深呼吸をして、キャンパスに向かった。
文化祭が近づくと、絵を完成させていない人は、朝から来て絵を描くことがある。今の時期は誰もこないけど、朝でも美術室は使用することができる。
「なんにもできないけど、藤堂君の絵なら描ける」
藤堂君が矢を射るその瞬間の絵。目を閉じると、藤堂君がすぐに浮かぶ。
この絵が藤堂君のことを、力づけられるかどうかはわからない。でも、私にできることっていったら、このくらいしかない。
無心になって私は絵を描いていた。時間がどれくらい過ぎたかもわからないほどに。すると、絵の中の藤堂君が、息をし始めた。
呼吸をしている。深い呼吸だ。絵の藤堂君に、命が吹き込まれた。
その藤堂君が、私に力をそそぎだす。絵の藤堂君が、私を勇気づける。
「…」
ボロ…。なんでだろう。涙が出ていた。
「それ、藤堂?」
突然後ろから声をかけられ、ものすごくびっくりして振り向いた。
「か、柏木君?なんでここに?」
「朝、絵を描くことにしたんだ。そうしたら結城さんに会わずに済むと思って。でも、朝も来てたんだ」
「…この時間から?すぐに授業始まっちゃうよ」
「いいよ。確か1時限目は、ここ使われないはずだし」
「授業は?」
「…さぼる」
柏木君はそう言うと、絵を描く準備を始めた。
「それ、藤堂でしょ?」
また柏木君に聞かれた。
「…うん」
「あいつ、今度の大会出られないんだって?」
「誰に聞いたの?」
「さっき保健室に行ったら、養護の桂子ちゃんがそう言ってた」
「…」
「弓道は続けられるんだろ?」
「うん」
「そっか」
柏木君は無表情だ。自分で怪我させたことを、なんとも感じていないんだろうか…。そういえば、柏木君の担任の先生が言っていたっけ。満足か?って。それを思い出した。藤堂君を嫌っていたのなら、藤堂君が怪我して本当に満足したんだろうか。
「ねえ、藤堂君が腕を怪我して、満足したの?」
「俺?」
「藤堂君のこと嫌ってるでしょ?」
「…別に」
「え?」
「まあ、いつも俺と結城さんのこと邪魔しに来るから、嫌なやつだって思ってたけど…」
「…」
「確かにムカつく野郎だけどな」
「…なんで?」
「だから、結城さんのナイトきどりしてるから」
「ナイトじゃないよ。ただの友達だし」
「でも、結城さんはあいつに惚れてんのか」
「え?」
なんで、それ?
「その絵を見たら、一目瞭然」
「…この絵で?」
「すげえじゃん。あの桜の時とおんなじ」
「え?」
「絵の中の藤堂、生きてるよ。そんだけ思い入れが強いんだろ?」
「……」
「満足とか、そういうんじゃないよ。怪我させる気なんて本当になかったし」
「…じゃあ…」
「弓道ができなくならなくて、ほっとしてるってのが本心。あいつが矢を射る姿は、悔しいけどかっこよかったしな」
「え?」
「あいつ、弓道好きだろ?」
「うん。魅せられたって言ってた」
「それを奪わないですんで、まじでほっとしてるよ」
「…大会には出られないよ?」
「そうだな。でも、秋にもあるんだろ?」
「うん」
「怪我させた俺が言うのもなんだけどさ、秋の大会は頑張ってほしいよな」
「…それも本心?」
「嘘でこんなこと言ってどうすんの」
「…」
それもそうだよね。ちょっと安心した。柏木君が心底冷たい人間じゃなくて。
私はそろそろ授業が始まるので、片づけをして美術室を出ようとした。でも、どうしても気になることがあり、
「柏木君」
と、美術室を出る前に、私は柏木君に声をかけた。柏木君はもう、キャンパスに向かっていた。
「なんで絵を描きにきたの?」
柏木君は私を見た。そして、
「結城さんは?」
と、私に聞いてきた。
「なんでこんな朝っぱらから絵を描きにきたの?」
「…そのくらいしか私にはできないから」
「藤堂のため?」
「うん」
「じゃ、俺は俺のためかな」
「自分のため?」
柏木君は私からキャンパスに視線をうつし、
「俺も、絵を描くことしかできないんだ」
と、まっすぐに自分の絵を見つめてそう言った。
私は美術室を出た。柏木君が何を感じ、なんで絵を描きに戻ってきたのかわからないけど、絵を描いてる時って何も考えないし、無心になれるのって、いろんな苦しみや辛さも忘れさせてくれるからかもしれないな。
そんな時の絵は、自分でも信じられないくらいの絵になっていることが多い。それはどう描いていこうかと思って絵を描く時とは、まったく違っている。
柏木君の絵も、きっとすごい絵になるんだろうな。そんな気がする。
教室に向かっていると、ホームルームぎりぎりの時間になり、先生が廊下の向こうからすでに教室に向かって歩いてきていて、私は慌てて教室に入った。
「あ。来た。穂乃ぴょん」
私を見つけて沼田君が私を呼んだ。
「休みかと思ったよ」
沼田君の言葉に私は、にこっと微笑み、自分の席にすぐに行った。
麻衣も私を見て、ほっとした顔をしていた。藤堂君はいなかった。病院に行ってるんだろうか。
すぐに先生が入ってきて、ホームルームを始めた。前の席にいた美枝ぽんは何か私に話しかけようとしたが、先生が来たのですぐに前を向いた。
1時限目が始まった。ぼけっと教科書を開き眺めていると、私の机の上に小さな手紙がぽんと置かれた。美枝ぽんからだ。
そっと膝の上で開いてみると、
「遅かったね。何かあったの?」
と書いてあった。
「美術室で絵を描いてたの」
私はその手紙に、そう返事を書いて美枝ぽんの背中をつつき、美枝ぽんに渡した。
美枝ぽんもそっと手紙を開いて、読んでいる。それからは、手紙をよこすこともなく、美枝ぽんは前を向いて授業を受けていた。
休み時間になると、藤堂君が来た。藤堂君が腕に包帯を巻いて教室の中に入ってきたので、教室のみんながざわついた。
「藤堂、怪我したのか?」
「大丈夫?藤堂君」
藤堂君はみんなに、大丈夫だよと静かにほほえんだ。
「おはよう、司っち!」
沼田君が元気に藤堂君に声をかけた。
「病院行ってたのか?」
「うん。しばらくは朝、病院通いになりそうだ」
「そっか~~。大変だな」
「来たね、藤堂君。元気そうだしよかったね」
美枝ぽんが私にそっと話しかけてきた。
「うん」
「朝、穂乃ぴょん休むのかって、沼っちと心配してたんだ」
「ごめんね。メールすればよかったね」
「朝から絵を描きにって、どうしたの?そんなに絵を描く意欲わいちゃったの?」
「ううん。今、藤堂君を描いてるんだけど、そのくらいしか私にはできないから」
「…昨日の帰り、藤堂君と何かあったとか?」
「…ちょっとね」
それ以上は言えなかった。というのも、藤堂君が私のほうにやってきていたからだ。
「結城さん、ちょっといい?」
ドキン。な、なに?
私は藤堂君に呼ばれ、廊下に出た。その間、クラスの子たちは、ひそひそと私たちを見て何かを言っていた。
ドキドキ、なんだろう。また迷惑だから近づくなとか、そういうことを言われちゃうのかな。
こわごわ藤堂君の前に立ち、下を向いて藤堂君の話を待った。
「昨日はわざわざ、道場まで来てくれたのに、あんな追い返し方してごめん」
藤堂君が私に頭を下げた。
え?な、なんで?
「い、いいよ。私も、その…、おせっかいなことしたかなって、あとで反省したし」
そう言うと、藤堂君は頭をあげ、私の顔をちらっと見て、すぐに視線を外した。
「一つだけ、言っておきたいことがあって」
藤堂君は、静かにそう話し出した。
ドキ。な、なんだろう。ああ、私の頭の中にはどうしても、悪いことが浮かんでしまう。たとえば、友達もやめようとか。
「俺の怪我、結城さんのせいじゃないから、だから、責任を感じることだけはしないでくれないかな」
「…え?」
「柏木のせいでもない。誰のせいでもない。だから、結城さんもそんなに、辛そうにしなくてもいいからさ」
「わ、私が?辛そう?」
「うん…」
辛いのはだって、藤堂君でしょ?!
「俺なら大丈夫だ。弓道だって続けられる」
「でも、大会…」
「大会は秋にもある」
「だ、だけど…」
「それ…」
「え?」
「俺のことを心配してなんだろうけど、でも、そんなふうに辛そうな顔されられるのが、一番こたえるからさ…」
私の顔?!
「せっかく最近、笑顔になってきたって思ってたのにさ、俺のせいでまた、沈んだ顔してほしくないんだ。あ、勝手なこと言ってるって思ってるけど、でも、まじでそれが一番、こたえるんだよね」
「ご、ごめん。私、そんなに暗い顔してた?!」
「…俺の怪我だったら、ほんと、心配しなくてもいいからさ」
「…わ、わかった」
「それだけ。あ、あと変な噂が流れてるみたいだけど、あれも気にしないで。きっとそのうち、みんな飽きて何も言わなくなるよ」
「噂?」
「沼田がメールで教えてくれた。柏木と俺が結城さんを取り合って、それで俺があんな怪我をしたんだっていう噂、どっかから広まってるみたいだ」
そんな噂が広まってるの?!
「ごめん。藤堂君に迷惑かけてるよね?そんな変な噂流れたりして…」
「俺?いや、俺は別に…。ああ、でも、そっか。逆に結城さんにはこの噂、あまりよくないよね」
「え?なんで?」
「結城さんの好きな人が、勘違いしたら困るよね?」
「………そ、それだったら、大丈夫」
「なんで?」
「……あ、あのね」
「うん」
「私、本当に好きな人と付き合いたいとかも思ってないし…」
「え?」
「す、好きな人が元気で、笑顔でいてくれたら、それだけでいいかな、なんて」
「…自分のことはどう思われてもいいってこと?」
「うん。あ、もともとどうも思われてないと思うし」
あれ?違うかな。いや、でも、今はきっとどうも思われてないかな。友達だとは思ってくれてると思うけど。
ど、どうなんだろう。友達でいるんだよね?今…。いきなり不安になってきた。
「藤堂君…」
「え?」
「私って、藤堂君の友達?」
「…え?」
「まだ、友達だって、思ってくれてるかな」
「…もちろん」
ホ…。ああ、安心した。それに、藤堂君の目が、また優しい目になってる。
チャイムが鳴った。2時限目が始まるので教室に戻った。
2人で教室に入ると、またみんながざわついた。
「やっぱり、付き合ってるのかな」
「藤堂が柏木から、結城さんを奪っちゃったのか~?」
そんな声が聞こえてくる。
うわ。何、それ。なんでそんな勝手なこと言ってるの~?
あ、でも、噂は気にしないんだった。そのうちに消えるって、藤堂君も言ってた…。
「あのさ!」
え?いきなり藤堂君が噂話をしている連中の前に行って、声をかけたよ?なんで?
「勝手にあれこれ言ってるようだけど、俺は別に結城さんと付き合ってるわけでもないし、柏木と取り合ってもいないから」
と、藤堂君?なんで?噂は、ほっておくんじゃないの?
クラスのみんながいっせいに話すのをやめて、藤堂君を見た。
「俺と柏木は前から、仲悪かったっていうだけだから、勝手なこと言わないでくれるかな。迷惑だから」
藤堂君はきっぱりとそう言うと、自分の席に着いた。
ざわ…。クラスのみんなが、な~~んだ、付き合ってないじゃん。と、また勝手に話し出した。
私も自分の席に着いた。
藤堂君?なんで、噂は気にしないでって言ってたのに、あんなこと言ったの?
迷惑?
ううん。あれ、もしかして私のために言ってくれた?
藤堂君の顔を見た。麻衣が藤堂君の背中をつついて、藤堂君に何かを言っている。それを藤堂君は、静かに笑いながら、答えていた。
なんだろう。麻衣は最初怒っていたようだが、藤堂君の話を聞いて、ほっとした顔になっている。
「穂乃ぴょん、落ち込むな!」
美枝ぽんが後ろを向いてそう言った。
「え?」
「今のは、絶対に藤堂君、穂乃ぴょんのために言ってくれたんだよ」
「美枝ぽん、そう思う?」
「藤堂君、優しいもん。特に穂乃ぴょんには」
「え?」
「だから、迷惑だってのは、穂乃ぴょんに迷惑がかかるから、やめてくれってことだよ。絶対にそう」
「…」
「落ち込むことないからね?」
「ありがとう」
麻衣を見た。麻衣も私のほうを見て、ニコって笑った。あ、もしかして、そういう話を藤堂君としてたのかな。
私は藤堂君のほうも見てみた。藤堂君はまっすぐに前を向いていた。でも、横顔が穏やかだった。
藤堂君の優しさも信じてみようかな。こうなったら、とことん、藤堂君を信じてみようかな。もう、一喜一憂することもやめて、藤堂君が私を好きかどうかなんて、そんなのも気にしないで、友達でいいから大事に思って、藤堂君の強さや優しさを信じてみようかな。
ふわ…。窓の外から、気持ちのいい風が吹いた。桜の木を見た。緑の葉が気持ちよさそうに、揺れている。
怪我をしても、大会に出られなくても、きっと藤堂君なら大丈夫だ。
うん。もう沈んだ顔をするのはやめよう。この授業が終わったら、笑顔で藤堂君に話しかけよう。




