第119話 藤堂家の風
キッチンで、お母さんは暗かった。でも、次の瞬間、笑顔を見せた。
「あとで、おばあさんと一緒に、司の子供の頃の写真見ない?」
「はい。見たいです」
「司には内緒ね。こっそり奥の和室に来てね?」
「はい」
洗い物も片づけも終わり、私はリビングに行った。すると、ビデオは見終わったところだった。
「穂乃香ちゃん、司が弓道をしているところを絵に描いているんだって?」
おばあさんがそう聞いてきた。
「はい」
「見てみたいねえ、その絵」
「文化祭で展示された後、家に持って帰ると思います」
「そう。じゃあ、見れるわね」
「はい」
「そうか。じゃ、桜の絵も持って帰ってきたの?」
司君が聞いてきた。
「うん。でも、長野にお母さんが持って行っちゃった」
「え?じゃ、ペンションのどっかに飾ってあった?」
「うん。寝室に」
「…お母さんの?」
「そう」
「なんだ。じゃ、見れないね、なかなか」
「…うん」
司君ががっかりした顔をすると、おばあさんは、
「そんなに素晴らしい絵だったの?」
と聞いた。
「綺麗な優しい色でさ、桜が生きてるみたいだったんだ」
司君は目を輝かせて、おばあさんに話している。
「へえ、その絵に司は惚れちゃったの?」
「え?いや、絵だけじゃないけど…。でも、絵にも惚れたかな、やっぱり」
「そうなの?くすくす。司、顔赤いわよ?」
「え?あ…」
本当だ。おばあさんの前では、ポーカーフェイスじゃないんだ。
「ふあ~~、俺、まだ眠いから、上で寝てくる」
守君はそう言って、2階に上がって行った。
「さてと。私はちょっと、和室で書き物があるから行ってくるね」
「うん」
おばあさんも、リビングから出て行った。
お母さんも、和室にいるのかもしれない。リビングには私と司君の2人だけになった。
「司君」
「ん?」
「なんでお母さんには、見せなかったの?」
「ビデオ?」
「そう」
「…いいんだ。あの人、いっつも茶化すだけだから」
「そんなことないよ。きっと見たかったと思う。だから、今からでもいいから呼ばない?」
「いいよ」
「でも、司君の弓道しているところ、お母さん、見たことってあるの?」
「ないよ」
「じゃあ、見てみたいかもよ?」
「まさか」
なんで、まさかなの?
「ねえ、見てもらおうよ…」
「穂乃香、しつこいよ」
ドキ。
司君の顔が、一気に怖くなった。
「あ、でも、お母さん、寂しそうだったよ、さっき」
ドキドキ。もしかして怒ったのかな。それだけ言うと、司君は私のほうを冷たい目で見て、
「母さんと俺の問題だから、口出してこないでくれる?」
とそう言い放ち、リビングを出て行ってしまった。
…怒った?うん、怒ってた。
それも、相当怒ってた。
私、いらないことを言っちゃった?口出ししすぎた?気に障ることを言った?
ドキン。ドキン。
怖い顔をして、表情を隠すことはよくあるけど、今のは違う。本当に怒っていた顔だ。
前にも見たことがある。ああ、そうだ。怪我して弓道ができなくなったとき。私が何かできることってある?って聞いたら、一人にしてくれって、冷たく言われた。
あの時の目も、口調も、声も冷たかった。
その時とおんなじだ。
あ、どうしよう。泣きそう…。でも、こんなことで泣いたりしたら…。
グ…。私が涙をこらえてると、それをわかったかのようにメープルが私のところに来て、頬を舐めた。
「メープル…」
ギュ。私はメープルに抱きついた。
あったかい。癒される。どうにかそのあったかさに、私は涙をこらえたままでいられた。
「穂乃香ちゃん、あ、司いないのね。ちょうどよかった。こっちに来て」
お母さんがそっとリビングに来て、そう言った。私は作り笑いをして、あとをついていった。
和室に入ると、アルバムを並べて、おばあさんが嬉しそうに眺めていた。
「ほら、赤ちゃんの時の司よ。穂乃香ちゃんも見る?」
「はい」
私はおばあさんの横に座り、アルバムをめくってみた。
わ~~。わ~~。面影ない。まるまるしている司君。めちゃくちゃ可愛い。
「可愛いでしょ?泣き虫で、よく夜泣きもしたのよ」
お母さんも私の前に座り、アルバムを見ながらそう言った。
「そうそう。それによく笑う子だったわね」
「ふふ。あやすと声を高く上げてころころと笑ってたっけ」
おばあさんとお母さんは、懐かしそうにそう話した。
そうなんだ。そんなに表情豊かだったのに、今はあんなにポーカーフェイスになっちゃったんだ。
「この頃、よく水族館に行ったわね」
「うんうん。まだおじいさんもいて、司ったら、大きな水槽を見て泣いたりして」
「怖がりだったしね」
そうなんだ。なんだか、今の司君じゃ考えられないかも。
「でも、あれよねえ」
おばあさんがぽつりとそう言うと、ため息をついた。
「私が千葉に行って、あの子のひいじいちゃんとひいばあちゃんが、続けて亡くなってから、あの子、すっかり人が変わったみたいになっちゃったわよねえ」
「…そうですね。お葬式の後も、司がずっと泣いていたら、お父さんが男は泣くな。我慢しろ。悲しくてもいつも平常心だって、司を叱り飛ばしていたから」
「……」
お母さん、なんだか辛そう。
私はそれから、アメリカでの司君の写真も見せてもらった。その頃にはもう、ポーカーフェイスの司君ができあがっていた。
ぶすっとした怖い顔をして写っている司君の隣には、くるくる巻き毛のブロンドの、そばかすだらけの男の子が大きな口を開けて笑って、手にはカエルを持って写っている。
他の写真にもその子が写っていて、司君とローラースケートをして転んでいたり、真っ黒にどろんこまみれになっていたりと、なんだか、やけにわんぱくそうな子で…。
「あ、その子、キャロルよ。穂乃香ちゃんも会ったでしょ?」
「…ええっ?」
「司はこの頃から、むすっとしていたんだけど、その司にガンガンに何でも言って、喧嘩したり、本気で殴り掛かったりして、そりゃもう、男兄弟かっていうくらい、すごかったんだから」
「…」
本気で、殴り掛かった~~?
「でも、この子のおかげで、アメリカでの司は、たくましく成長できたわね。ちょっとやそっとのことじゃ驚かなくなったし、喧嘩も強くなったし」
そうだったんだ。司君があれだけ、キャロルは女らしくなんかないって言っていたのうなづけるかも。
「ねえ、穂乃香ちゃん」
「はい?」
「あの子は、不器用なところがあるけど、根は優しいから」
おばあさんがそう言った。
「はい…」
う。なんだか、今はその言葉が身に染みるなあ。
「そうね。優しいのよね。傷つきやすいし」
お母さんもそう言って、しばらく黙り込んだ。
アルバムを片づけ、おばあさんはまた、書き物があると言って和室に引きこもった。どうやら、おばあさんは書道の達人らしい。筆ペンでさらさらと、何やら手紙を書いていた。
「ダイニングで、お茶でも飲まない?穂乃香ちゃん」
「はい…」
お母さんに誘われ、私はダイニングテーブルの席についた。
「はい。紅茶でいい?」
「ありがとうございます」
「クッキーも食べない?」
「はい、いただきます」
甘いクッキーもお母さんは用意してくれた。
「司ね、おばあちゃんの前では、表情を見せるのよね」
「え?」
「笑ったり、照れたり」
「あ、そうですね、はい」
「…私にはあまり、見せないのよね」
「…」
「ビデオも、見せてくれなかったのは、きっと前に私が笑ったからなのね」
「え?」
「あの子、本当はナイーブなの。だけど、私も司が笑ったり、もっと地を出してほしくって、中学の頃、何かって言ったらビデオを持って学校に行ってたのよ。体育祭や文化祭、部活動の大会。それを家でみんなで見て、お父さんは真面目にあれこれ言ってたわ。でも、真面目すぎて、あそこでもっと、こうしたらよかったとか、駄目だしばっかり」
そうなんだ…。なんだか、悲しいかも、それって。
「司は、無表情になりながら、それを聞いていたわ。その空気とか、司の顔が私は見ていられなくって、どうにか明るくしようって、笑ったり、司が失敗しているのを見ると、司ったら、こんなことしちゃってって言って、茶化したり」
「…」
「場を和ませようとしたのよね。失敗をお父さんがやたらと駄目だって言っていたから、逆に笑って、気持ちを軽くしようってしたんだけど、逆効果だったみたいで」
そうだったんだ。お母さん、能天気でもなんでもなくって、ちゃんと考えていたんだ。
「そのうち、笑っている私を、嫌そうに司が見るようになって…。ちゃんと褒めたり、応援するようにしたんだけど、司に言われたのよね。なんだか、母さんはいつもその場を壊すって」
え?
「だから、それ以降、ビデオを持って行くこともなくなっちゃったわ。高校入ってからは、司のことも、ちょっと遠くから見るようになっちゃって…」
「…そうなんですか」
そういえば、守君が放任してるって、そんなこと言ってたっけな。
「ごめんね?穂乃香ちゃんにこんな情けない話をしちゃって」
「いいえ」
「穂乃香ちゃんみたいな彼女ができて、嬉しかったのよ。穂乃香ちゃんと居る時の司、ちょっと違ったし。穂乃香ちゃんが長野に行くかもしれないって、真佐江ちゃんから聞いた時には、司、必死で止めてたし、司にとってすごく大事な子なんだろうなって思って、私も穂乃香ちゃんには、この家に来てほしいって心から思っちゃって」
「え?そ、そうだったんですか?」
「この子なら、司を変えられるって、思っちゃった。だから、穂乃香ちゃんが来てくれるの嬉しかったし、かなりテンションあがっちゃって…」
そうだったんだ。
「穂乃香ちゃんといると、司、本当に優しくなったり、笑っていたし…。だから、司とはずっと一緒にいてほしいって思って、かなり強引なことも言ったりしちゃったかも。ごめんね?」
「い、いいえ」
そうか、それでだったんだ。
「……だけど、私の前では司、あまり変わってないかな」
あ、お母さん、また寂しそう。
「あ、でも、穂乃香ちゃんの前では違うでしょ?」
「…はい」
さっきは、冷たくされちゃったけど。
「学校でも変わって来てるんでしょ?怖がられていたのに、最近、違うって」
「はい」
「…よかったわ」
お母さん、本当にほっとしている。もしかして、司君のことで、ずっと悩んでいたのかもしれない。
「真佐江ちゃんの娘さんだってことも、そうだけど、司にとって穂乃香ちゃんとの出会いは、必然だったと思う」
「え?」
「あの子、本当に穂乃香ちゃんと付き合いだして、変わったと思うわ」
「…」
「穂乃香ちゃんのことは、本当に大事みたいだし」
「…」
ドキン。
「これからも、よろしくね?穂乃香ちゃん」
「…あ、はい」
私は紅茶を飲み干すと2階に上がった。
そして、司君のドアの前で、ノックをしようかどうか悩みまくった。
謝る?きっと出すぎたことを言ったんだよね。司君は、今までのお母さんとのかかわりの中で、私には簡単に解決できないような、いろんな傷だったり、いろんな思いが心の奥にあるんだよね。
それなのに、私、あんなふうに簡単に言っちゃった。土足で心の中に入ろうとしちゃったのかな。
ズキン。
私はそのまま、自分の部屋に入った。
ああ、きっと、傷つけた。司君をきっと…。
私にできることなんてあるのかな。お母さんは私にあんあふうに言ってくれたけど、私、なんにもしていないし、できてないよ。
なんだか、胸が苦しい。
今朝、司君の腕の中で、ドキドキしていたことも、司君の優しさに触れ、幸せを満喫していたことも、どこかに消えてしまった。
今はただ、胸が苦しい。
私が、できること?ないよ。なんにもないよ。ごめん、司君…。逆に苦しめただけかもしれない。
ビュー…。ガタガタ…。
雨の音は止んだ。でも、相変わらず風が吹き続けていた。
隣の部屋に、司君はいる。だけど、この風の音で、なんにも聞こえなかった。
今、何してるのかな。
ギュウ。私の胸はまだ痛い。
お母さんにも、司君の心を見せてほしいな。閉ざされちゃって、溝ができちゃって、そんな関係を修復してほしいな。だけど、私に何ができる?
ガタガタ…。
あったかくって、素敵な家だった藤堂家。でも、本当はずっと、風がこんなふうに吹いていたのかもしれないな。




