第109話 空しさをかかえて
寂しさを抱えたまま、私は自分の部屋に入った。それから、壁際に布団を敷いて、壁の向こうにいる司君のことを思いながら目を閉じた。
でも、なんだか空しくって、切なくって全然寝れなかった。
チュン…。気が付くと、外はもううっすらと明るくなっていて、雀のさえずりまでが聞こえた。
「ほとんど、寝れなかった」
がっくりとしながら、起き上がった。
下に行って顔を洗った。リビングからメープルが来て、足元にじゃれついた。
「おはよう、メープル」
メープルは私が元気のないことを察したのか、ぺろぺろと顔を舐めた。
「は~~~~。なんだかね、駄目だったんだ…」
メープルに私はぎゅうって抱きついた。
それから、キッチンに行き、朝ごはんの用意を始めた。時計を見たら6時。司君はまだぐっすりと寝ているのかもしれないなあ。
お弁当も作ってあげたかったけど、材料もないし、料理に自信もない。
こんなことなら、もっと家で母の手伝いをしておけばよかったと、本気で後悔した。
「は~~~」
なんだか、今日は落ち込んでるなあ、私。
「穂乃香?」
ドキ!
びっくりして振り返ったら、司君がパジャマ姿で立っていた。
「早いね。どうしたの?」
「目が覚めちゃって。あ、朝ごはん、トーストでいいかな」
「…うん」
司君は私をしばらく黙って見ていた。でも、私が冷蔵庫を開けて、卵やハムを取り出している間に、洗面所に行ったようだった。
「はあ」
あ、またため息が出ちゃった。せめて、司君の前では明るくしていないと。
朝食を食べ終わると、司君はリビングでメープルとじゃれついた。その間に洗い物を終え、学校に行く準備をした。
「穂乃香?」
「え?」
「元気?」
「う、うん」
なんでかな。顔色悪かったかな。それとも、また私暗い顔しちゃったかな。
「今日は帰りに、なんか食って帰ってこようか?」
「…う、うん」
あ、まだ昨日の夕飯のことで、落ち込んでいると思われたかな。
学校に行くまでの間、なるべく私は明るく話した。でも、司君は口数が少なかった。
「じゃあ、また帰りにね」
そう言って、私は美術室の中に入った。美術室にはほとんど生徒がいなかった。みんな、休みなのかもなあ。
「は~~~~~」
キャンバスの前に座り、思い切りため息をついた。
もう、昨日のドキドキも、妄想も、シミュレーションも全部が消えてしまい、ただ切なさや空しさだけが心の中をうずまいている。
その日は、部員が午前中に2人、午後になってもうひとり来ただけで、美術室はすごく静かで、さらに私はしんみりと絵を描くことになってしまった。
絵の中の司君は、まっすぐにこっちを見ている。真剣な眼差しで…。
「やっぱり、ちゃんと素直に言えばよかったのかな…。麻衣が言うみたいに」
その日は、お昼の時間をさけて、1時半頃に食堂に行った。そういうのも自由なところが、美術部のありがたいところだ。
食堂には、午前中だけで終わる部の子が、アイスを食べながら騒いでいた。その子たちからだいぶ離れたところにぽつんと座り、購買で買ったパンを食べだ。
司君もお昼は、パンにしたのかなあ。お弁当なんて、いったいいつ作れるようになるのやら。
はあ。なんでこうも私は、不器用なんだろう。家庭科、昔から苦手だしなあ。
あ、やばい。また、落ち込んできた。
お昼を食べ終わり、ジュースを買って美術部に戻った。夏休みもしっかりと出てくる部員たちはみんな、すでに2作目に取り掛かっていたり、どでかい絵を描こうと頑張っていたり、美術展に出展しようと張り切っている人で、私のようにただ文化祭に一作品だけ出展するような人は、夏休みまで部に出たりすることはなかった。
それでも、私は自分の作品を完成できないでいた。絵の中の司君は、もうすでに生き始めている。呼吸もしているように見えるし、鼓動すら聞こえてきそうだ。だけど、何かが足りない。
「何かなあ」
自分でもそれがなんなのか、わからなかった。
5時になり、他の部員はどんどん片づけを終え、帰って行った。私も片づけを終えて、窓から外をぼんやりと眺めていた。
「ごめん、遅くなった」
15分くらいしただろうか。司君が美術室の中に入ってきた。
「ううん、大丈夫」
にっこりと笑顔を作り、私はそう答えた。
「昼も夢中になって描いてた?」
「え?」
「食堂に来なかったから」
「あ、うん。キリのいいところまで、仕上げたかったんだ」
「そう」
そんな嘘を思わずついてしまった。本当は、暗くなっていて司君に会いづらかっただけなのになあ。
「これ、もうすぐ完成?」
「ううん、まだまだ」
「え?そうなの?俺にはもう完成した絵に見えるけどな」
「…でも、まだ何かが足りなくって」
「モデルが悪い…とか?」
「ううん!そんなことないよ」
私は慌てて首を横に振った。
「絵って、どうしたら完成になるの?」
「わかんない。私にも。桜の時には、終わったっていう、そんな気がして完成したんだけど」
「へえ…」
「この絵は、なんだかまだっていう気がして…」
司君は私のすぐ横に立って、しばらく絵を眺めていた。
「帰ろう」
私が席を立つと、司君もうんとうなづいた。
「どこで夕飯食べようか」
そんな話をしながら、昇降口まで一緒に歩いた。
今日は休みの部も多いせいか、ほとんど生徒がいなかくて静かだった。そのうえどこからか、ひぐらしの声が聞こえてきて、いっそう寂しさを感じさせた。
「夏休みも、もうちょっとだけになっちゃったね」
私が寂しさを感じながら、ぽつりとそう言うと、
「宿題終わらせないとね」
と、司君が現実的なことを言ってきた。
「あ、忘れてたかも」
「やっぱり?少しは手を付けた?」
「ううん。最初の頃、司君に数学の問題集や、理科のレポートを教えてもらってたでしょ?そのくらいで、あとは何にもしてないよ」
「やばくない?」
「え?司君は終わらせたの?」
「うん、もうほとんど」
「いつ?」
だって、一緒に長野にも行っていたし。そんな時間なんていったいいつあったの?
「長野のペンションで、夜、本読んで感想文書いちゃったし」
うそ~~。仕事の後に、本を読む余裕なんてあったの?!
「英語は夏休み初日に終わっちゃったしなあ」
「うそ!」
「あ、そうか。穂乃香はその時、数学の問題でいっぱいいっぱいだったっけ」
「うん。あ、私が数学の問題を解いていた時に、英語を終わらせちゃったの?」
「和訳にするだけだし、簡単だよ。今日帰ったらノート見せてあげるよ」
「うん」
ガク~~。私はこれから本も読まなくっちゃならないし、まだまだ終わっていない宿題もあるっていうのになあ。
「じゃ、今夜は勉強頑張るか」
「え?」
「あ、ダイニングでね?」
「うん」
今、にっこりと笑ったつもりだけど、顔、引きつってた気がする。
まだ、ほんのちょっと期待していたし。
ううん。絶対に私から、司君に告げないことには、先には進まないんだ。これは、私が勇気を持たないといけないことなんだ。
夕飯は、江の島の駅からちょっと行ったファミリーレストランに入って食べた。それから、浜辺を少しだけ散歩して、私たちは家に帰った。
「ワンワン!」
「あ、メープルごめん!散歩、もうしてきちゃったよ」
司君のその一言で、メープルががっかりしたのがわかった。そして、メープルは思い切り、司君の足にジャレついたり、く~~んと鳴いて、甘えている。
「ごめんね?明日は、守も帰ってくるし、きっと散歩に連れて行ってくれるさ」
ああ、メープルが羨ましい。あんなふうに、素直に甘えられて。
そういえば、昨日だって、DVDを見ている間、司君の膝に顔を乗せて甘えていたっけ。いいなあ。あれ、してみたいなあ。
メープルに今だけなりたいよ。
羨ましそうに見ていると、
「…穂乃香、メープルに甘えたかった?」
と司君に聞かれた。そして、メープルを私のもとによこしてくれた。
違うんだけど。と心の中で思いつつ、私はメープルに抱きついた。
「風呂、沸かしてくるね」
司君はそう言うと、お風呂場に行ってしまった。
「メープル、羨ましい。私、どうしたら素直になれると思う?」
メープルは何かを察したかのように、私の顔をぺろぺろと舐めてくれた。
「は~~~~」
また、思い切り暗いため息が出てしまった。私って、やっぱり暗い性格しているよね。
今日は念入りに洗うよりも、お風呂でぼんやりとしてしまい、すっかり私はのぼせてしまった。
「暑い。クラクラする」
と言いながら、洗面所を出て2階に行かず、リビングにいる司君を呼びに行った。
「穂乃香、顔真っ赤…」
「うん、のぼせたみたい」
「だ、大丈夫?」
「多分。ちょっと2階で休んでいるね?」
「うん」
私はよたよたと2階に上がった。そして私の部屋に入ると、そのままマットに倒れこんだ。
「はあ」
大の字になって、天井を見上げた。暑い。それになんだか、天井がグルグル回っている気もする。
トントン。しばらくぼけっとしていると、ドアをノックして司君がやってきた。
「開けるよ?いい?」
「うん」
私はよっこらしょと座り込んだ。
「大丈夫?」
「うん」
「…本当に?まだ、顔赤いよ?」
「そう?」
「髪、まだ濡れてるね。あ、ドライヤー持ってきたよ?」
「ありがとう」
私はぼ~~っとしながら、そう答えた。
「…穂乃香?」
「え?」
「本当にどこか、具合が悪いんじゃないの?」
「ううん、どうして?」
「いや…。具合が悪いのに、元気なふりしてるのかと思って。俺に気を使ってない?」
「うん」
「だったら、いいけど…」
心配させちゃってるんだな。
「ごめんね」
「え?」
「心配かけて…」
「いや、元気ならいいんだけど…」
「…あんまり、元気じゃないの」
「カラ元気だった?無理して笑ってたよね」
わかってたんだ。
「…やっぱり、俺と2人っきりで2日間はきついよね?」
「え?」
何それ。
「これからは、こんなふうに2人っきりにならないよう、母さんにも言っておくから」
「……」
もしかして何か誤解してる?
「頭、冷やす?冷えピタでも持ってこようか?」
「私、司君と2人だからって、なんにも困ってないし、なんにもきついこともないよ?」
「え?」
私がいきなりそう言ったからか、司君が目を丸くした。
「誤解してるよ、司君」
「…俺が?誤解?」
「うん」
「…緊張してるんじゃないの?」
「してないよ」
「じゃ、困ってたり、戸惑っていたり…」
「してない」
「でも、本当に穂乃香、昨日から変だよ」
「わかってる。それ…。ごめんね」
「なんで変だったの?」
「………」
私はしばらく黙り込んだ。なんて言ったらいいのかな。
「あの…」
「うん」
ああ、司君、真剣な目で聞いてる。
「えっと…」
「うん」
こんなに真剣に聞いてくれているんだもん。ちゃんと素直に言わなくっちゃ。
「あのね!私、司君と…」
司君の目を見た。しばらく黙って見つめ合った。すると、司君の方から視線をはずしてしまった。
そして司君は、下を向いて、顔を真っ赤にした。
なんで?
「その…。今日の穂乃香のパジャマ…。胸元がやけにあいてる」
「え?」
わ!違うよ。ボタンがあいてた。さっき、暑くってボタンを二つも開けちゃったんだ。きゃ~~。
私は慌てて後ろを向いて、ボタンを閉めた。
ドキドキドキ。なんて大胆な恰好を私はしていたんだ。これじゃ、まるで司君を誘っているみたいな。
って、誘っていても、いいのか。
いや、よくない。そんなの私から誘うなんて!
いや、これからそういうことを、告白しようとしているんじゃないかっ!
ああ、頭の中ぐるぐるしてきた。
ふわ…。
え?
司君が、後ろから抱きしめてきた?
ドキ~~~ッ!
「……」
司君の息が、耳にかかる。司君の抱きしめる手に力が入った。
ドキドキドキドキ。わ~~。心臓が暴れ出した。
キュキュン!それとともに、胸が締め付けられた。
あ…。あれ?司君の手、いつの間にか私の胸の上にある。
わあ!胸に…司君の手が!
「………」
「………」
沈黙が続いた。司君も何も言わないし、私も何も言わなかった。私は司君の腕の中で、硬直していた。覚悟だけはできていたけど、何をどうしていいかもわからず、ただ固まっていた。
「ごめん」
司君はそう言うと、抱きしめている手を離そうとした。
「い、いいの」
私は思わず、その手を握りしめてしまった。
あれ?ちょっと変な形になった。やばい。私の胸に手を当てていた司君の手を、上から思い切り握りしめてしまったから、まるで、私の胸をもっと触ってくださいみたいになっちゃってるよ。
うっわ~~~~。
慌てて司君の手を離した。
「ごめん、穂乃香。無理しなくていいから」
違う。無理じゃなくって。今のは、はずみで。いや、えっと、なんていうか。
司君は何も言わず立ち上がろうとした。駄目だ。このままだと、司君が部屋に戻っちゃうよ。
「ま、待って」
「え?」
「もうちょっと、そばにいて」
「…俺、このままそばにいたらやばいよ?」
「…でも」
「危険だから…」
司君はそう言うと、立ち上がった。私も思わず、一緒に立ちあがった。
「でも!」
そのあと、言葉が続かない。だけど、体のほうが動いていた。思い切り司君に抱きついてしまった。
「ほ、穂乃香?!」
ああ、すんごいびっくりしている。
それでもかまわず、抱きついていた。
ドキドキドキ。司君の心臓の音、すごく早い。きっと、私もだ。
「穂乃香…。な、なんで?」
司君が戸惑っている。
「い、い、いいの」
「え?」
「私、もう…」
「え?な、何が?」
「司君にだったら、いいの!」
「………え?」
司君が硬直した。それから無言になった。
「も、もう怖くないし、もう私、大丈夫だから…」
それだけを必死に告げた。そして私も黙り込んだ。
ドクン。ドクン。ドクン。2人の心臓の音だけが、部屋に鳴り響いていた。




