9.初めましてな晩餐会
「――こちらはリヴァース卿トーマス。リヴァース、こちらはイヴリン・ブラント男爵令嬢だ」
「……どうも」
紹介された伯爵は、努力して解釈すれば微笑みと呼べたかもしれない表情を、かすかに浮かべたのみだった。
エプソン卿の晩餐会が始まるまでの間、招待客は応接間に集まって歓談をしている。ウィリアムがイヴリンに紹介した良縁候補は、金茶の髪をすべて後ろへ撫でつけた、痩身の独身貴族だった。ウィリアム同様身なりの完璧な英国貴族で、歳は二十代後半といったところか。
義弟となるかもしれない相手だ。好印象を残しておこうと、イヴリンは最高の微笑みを浮かべる。社交界デビュー前から鏡で練習していた上に、これまでの実績もある笑顔だ。
「イヴリンと申します、リヴァース卿。ウィリアムのご友人でいらっしゃるとか」
「ええ、よろしく。……あなたが本当に子爵夫人の座にこぎつけられるものなら」
「え? ごめんなさい、なんとおっしゃいましたの?」
聞き取れないほど小さかった言葉の後半を尋ね返すと、伯爵はすっと顔を背けた。視線をウィリアムに向け、そのまましゃべる。
「なんでもないですよ。――ランバート、そこらじゅう君の婚約話で持ち切りになっているぞ。どうせまた与太話に違いないと思っていたが、まさかこうして実物を連れて現れるとは」
「驚いただろう? だけどこの彼女を見れば納得するんじゃないか。見てくれ、この僕を虜にした女性の美しさを! 当代随一の美女だと思わないか」
「たしかにそれは認めないでもないが……。そんなことより、君も聞いたかローズのあの話を。オックスフォード代表の誰だかが、あそこで百二十点台を叩き出したって」
「一イニングでか!? 驚いたな、快挙じゃないか」
何のことだかイヴリンにはわからなかったが、話の端々から、やがてそれがクリケットの話題だと察した。伯爵だけでなくウィリアムまでスポーツ談義に熱中してしまい、イヴリンは話題から取り残されてしまう。
(……わたくしとは話をしたくないという意味かしら)
そんな不安に取り巻かれたが、気のせいかもしれないと思い直す。まだ会って数分だ。
しばらくして執事が応接間に姿を現し、晩餐の支度が整ったことを告げた。このときには独特の儀式がある。決められた席次順にのっとって、招待客が男女ペアになって部屋を出て、晩餐会の会場である食堂へと向かうのだ。
イヴリンは少し焦った。そのペアを決めるのは主催者の役割なのだが、イヴリンは誰と組むのか教えられていない。ペアの相手はそのまま隣の席になる。知らない相手だったらどうしようと少し困る。
「イヴリン」
するとそこへ、ウィリアムが当然のような顔で腕を差し出した。一瞬おくれて理解した。
(そうだったわ。“婚約者”でしたわね)
忘れたわけではないが、彼が“婚約者”だという“事実”は、まだ身についていない。婚約するとはこういうことなのかと、不思議な感覚がした。少しうつむき加減になり、差し出された腕を取る。しかし小さな声が聞こえた。
「なんだか初々しい反応だなあ。君、偽装だよ、偽装」
「……わかってます!」
少々気恥ずかしくなってしまった自分の感覚を、イヴリンは猛烈に後悔した。
*
偽装婚約者の子爵の言うとおり、エプソン卿主催の晩餐会はそれほど格式ばった場ではなかった。縦長のテーブルについた人数もそう多くはなく、雰囲気も和気あいあいとしている。食事は豪華でおいしかった。しかしイヴリンはそちらにあまり集中できない。
「リヴァース卿もクリケットをなさるのですか?」
「……一応は」
「先ほどの“ローズ”は、ロンドンのローズクリケットグラウンドのことですわよね?」
「……」
運良く目当てのリヴァース伯が隣席となったのだが、まともな会話がなかなか成立しない。イヴリンはスポーツに詳しくない。教えてもらうことで会話の糸口としたいのだが、相手にその気がなかった。彼女をまともに見ようともしない。
ついには再び顔を背けられ、伯爵は反対隣の貴婦人へと話し込んでしまう。またも話から取り残されたイヴリンはそろそろ確信した。気のせいではないようだ。
(嫌われているみたい)
リヴァース伯はイヴリンが気に入らないらしい。初対面だが、もしかしたらあの悪名を耳にしているのか。友人の婚約者として認めないと、はっきり態度に出している。
(……いいわよ、別に)
別にいいと思った。自分が嫌われてもイヴリンは構わない。大事なことはエセルと伯爵が合うかどうかだ。“社交界の女王”の妹でも、妻に望んでくれるのか。それでエセルは幸せかどうか。
(そうだ。いっそのこと、このまま悪役に徹するのもひとつの手かしら?)
悪名高い“社交界の女王”の、可哀想な妹。エセルにそういう評判がつけば、心優しい紳士が目を止めるかもしれない。意地悪な姉から妹を救い出す、騎士道精神あふれた男性が現れてくれたりしないだろうか。
他の会話グループにも加われず、ひとりでそんな風に想像していた時だ。イヴリンの反対隣から声がかかる。
「――リヴァース。何を照れているんだ、十代じゃあるまいし」
別のグループと話していたはずのウィリアムが口を出してきた。呼ばれたリヴァース伯は、少し驚いたような顔で振り返った。イヴリンを挟んで返答する。
「照れているとは何のことだ、ランバート」
「隠すなよ。イヴリンがあまりにも綺麗だから気後れしているんだろう。イヴリン、すまないな。リヴァースは人見知りしているんだ、堅苦しいやつだから。君のような美人が相手では、うまく話もできないんだよ」
「そ、そんなことはないぞ。――失礼した、イヴリン嬢。ご婦人にはクリケットの話など、つまらないだろうと思ったんだ」
「あの、いいえ。こちらこそ素人ですもの、あまりにも無知な質問をしたので、呆れられたのかと。よければ教えていただけませんか、ご面倒でなければ?」
「ご存知でなくとも仕方ない。むしろ興味を持って下さるのは嬉しいですよ。ローズのことですが……」
ひとこと助け舟を出してもらえると、あとはあっけないほどスムーズだった。クリケットの話題から伯爵の学生時代、それから家族の話など。イヴリンが聞き手に徹したお陰で、リヴァース伯の口もようやくなめらかになる。本当に照れていただけらしい。
食事の終盤、伯爵は最初とうって変わった笑顔でその友人にこう語った。
「美しいだけではなく、話しやすいお嬢さんじゃないか、ランバート。こんなに楽しい晩餐会は久しぶりだ。いい女性に巡り会ったな」
「そうだろう、羨ましいだろう、リヴァース。でも言っておくが、イヴリンは予約済みだ、僕のだぞ」
「わかっている。おめでとう、ランバート」
ワイングラスを掲げて、祝杯まで挙げてくれた。そしてそこで、ウィリアムは絶妙の言葉を付け加えた。
「うん、ありがとう。――ああ、そういえばイヴリン。今夜はエセルは留守番だったか、君の妹は」
「ええ。自宅でガヴァネスとお留守番を。夕食は済んだでしょうし、今はピアノでも弾いている頃でしょう」
それが計画とは知らないリヴァース伯は、その話題へとうまい具合に食いついてきた。明らかに興味をひかれた様子で尋ね返してくる。
「ほう? イヴリン嬢には妹さんがいらっしゃるのか」
「三つ違いの妹ですわ。エセルも来年には宮殿で女王陛下に拝謁する予定です。素直で純粋で優しい、自慢の妹ですのよ」
内心で快哉を上げたイヴリンは、ここぞとばかりにエセルを売り込む。共同計画の協力者も加勢してくれる。
「イヴリンにそっくりだから、拝謁の時には陛下がまごつくかもしれないね。それはもう、見事な美人姉妹なんだ。リヴァース、会ったら驚くぞ」
「そうなのか? ランバートがそこまで言うなら、ぜひ一度お会いしたいものだ」
「ええ、ぜひ。その時はエセルのピアノをお聞かせしますわね。姉のわたくしが言うのもなんですが、それは上手ですのよ」
こんなにうまくいくなんてと、イヴリンは感激した。やはりコネは大事だと、あらためて実感する。ウィリアムのお陰だと、認めないわけにはいかない。
だから、ちょうど目が合った偽装婚約者の悪い笑みも気にならなかった。むしろ心から感謝し、微笑みまで返してしまった。




