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8.困難な闘い

 実際、貴族の令嬢たちの婚活は闘いも同然だ。

 至上命題は、家柄も財産もある結婚相手をつかむこと。これに尽きる。他に自活の道がない。


 彼女たちの武器は教養に礼儀作法、そして運よく容姿に恵まれていた場合はその美貌。機知にとんだおしゃべりも、自己アピール力としては有効かもしれない。さらに家柄と、その家からつながる貴族同士の縁故も大切である。爵位が低くとも、数百年におよび続いた由緒正しい家柄の者ならば誰もが縁を結びたがるものだ。


 だが、それらに増して強みとなる、最強の武器はたったひとつ。


「ああ、これはひどい。嫁に行くなと言われているようなものじゃないか」

「……」

「苦労したね、イヴリン。今まで決まらないはずだ」


 気にしている点をズバリと遠慮なく突くのは、イヴリンの『婚約者で』ある。彼女の持参金の額を知っての一言だ。


 持参金、つまり父親が、娘が嫁ぐ際に持たせると約束した財産のことを指す。そして婚活市場に出た令嬢たちは、その金額によっても価値が左右される。貴族であろうと、生きていく上でお金が必要だ。妻の持参金が多ければ多いほどその後の生活の質も上がる。裕福な花嫁は歓迎されたが、逆に少ない娘たちには冷たい風が当たった。


 偽装婚約を交わして数日後の午後のこと。ランバート子爵ウィリアムがブラント男爵家を訪ねている。応接間に通し、イヴリン自身が茶器を運んで婚約者をもてなした。そうして話をしていた際の一言である。


「……わたくしのことはもういいでしょう、お陰様で決まったことになってますもの。問題は妹です」

「妹さんの持参金も似たような?」

「ええ」


 イヴリンの返答は短い。その手にある、絵柄のない白いティーポットと同じくらいそっけなかった。だがお茶を淹れる手つきは慣れたものだ。茶器を置いたローテーブルの横に腰をかがめ、赤い色の液体を注ぐ仕草は、それでもどこか優雅だった。


「どうぞ」

「ありがとう……」


 受け皿ごとお茶を渡すと、イヴリンは椅子に座った。何か言いたそうな顔の偽装婚約者の横ではなく、別の椅子に。


 ブラント男爵のタウンハウスは静かだ。ひとけがない。おかげでしばしその場も静まりかえる。

 ウィリアムが妙に感じているのは察しているが、イヴリンは明かすつもりがない。


 持参金の少なさ。お茶を用意する使用人がなく、令嬢みずから茶器を運んできた状況。客を取り次いだのも執事ではなく、忙しそうに働くハウスメイドだった。それらすべてが裕福ではないこの家の状況を雄弁にものがたる。


 本当の婚約者なら嫌がられても無理のない状況だが、偽装だから知ったことではないとイヴリンは思う。裏にある事情を明かすつもりはない。


「今日は会いに来て下さって嬉しいわ。時間を持て余していましたの」


 嘘だ。本当は、エセルを連れてハイドパークにでも行くつもりだった。春の陽光の下で、最愛の妹の今日の姿をスケッチするつもりだった。だがそんなことはおくびにも出さない。


「本当かな。その割にはずいぶん待たされたが」

「女の支度には時間がかかりますわ。でも、ごめんなさい」


 会うかどうかでかなり葛藤したことも隠した。ドレスの着付けや髪のセットなど、普通の令嬢ならメイドにやらせる身支度をほぼ自力でこなしているせいでもあるのだが、それも隠す。


「いいんだ。これも夫の務めと思って、今から慣れておこう」

「まあ、ウィリアムったら」


 冗談がきつい、とイヴリンは呆れる。本気でないと互いにわかっているからなおさらだ。

 そんな軽口を経て、ようやくイヴリンの婚約者は本題に入った。


「愛しの婚約者の可愛い義妹の縁談の件だが。思い当たる相手を二、三人見繕ったよ」

「え」

「仕事が早いだろう? 僕を見直すなら今だよ。――トーマス・バートンはリヴァース伯を継いだばかり、ジェフリー・ドレイクは爵位こそないが大地主の長男だ。マンフレッド・アヴァロン大尉は次男だけどアヴァロン家は名家だ、君も知っていると思うが」


 ずらずらと並べられても、彼女はすぐには飲み込めない。


「みんなそれなりに財産持ちだし、花嫁の持参金が低くとも問題にしないぐらいには余裕がある。どうする?」

「どうするって、そんないきなり言われましても。エセルと会わせてみないことには」

「思ったんだが、君が先に見分してみたらどうかと。どのみち妹さんはまだ社交界デビュー前だろう。行ける場所が限られている」

「先に会ってみるんですか? わたくしが、エセルの縁談の相手に」


 最愛の妹の夫となるかもしれない人物。


 どんな人物であれ、イヴリンの嫉妬を一身に受けることになるだろう。どれだけ優秀でも足りない気がする。そして姉である自分の目にすら敵わないような男なら、妹は決して渡さない。


 ならば。ウィリアムの言うとおり、先に自分で見分しておくのは悪くないとイヴリンは思った。この目にかなわないような男なら、最初からエセルの前に立つ資格もない。


「……い、行きます。ウィリアム、会わせてもらえますか」

「そう来なくては。なら今夜だ、出かけよう」

「今夜ですか!?」

「今夜。夜会に出かける準備をしておいてくれ、また迎えに来る」


 このウィリアムおじさんに任せなさい、と付け加えた彼は自信たっぷりだった。確かに頼もしいかもしれないが、片目をつぶってみせたのは余計だと、イヴリンは思った。



 そして夕刻。イヴリンが夜会に出かける支度を整えていると、エセルが手伝いに来てくれた。


「ありがとう。――ん、もっと締めて! 大丈夫だから」

「ま、まだ? もう充分細くなってます」

「まだまだよ、今夜は気合が必要なの」


 コルセットの紐をきつく締めてもらい、ドレスの着付けも手伝ってもらった。


 髪を結いあげて、瞳と同じエメラルドグリーンのリボンと白い造花を飾った。アクセサリー類をつけ、持ち物は小さなビーズバッグと扇子。これで夜会に出かける淑女の出来上がりである。


「とてもきれいです、イヴリン姉様」

「ありがとう。流行遅れだけどね」

「そんなことないです。お母様が残してくれたドレスですもの、姉様なら素敵に着こなせます」

「うん……そうよね」


 今夜のイヴリンの淡いブルーのドレスは、亡き母の物を直した物だ。上衣は体にぴったりそった簡素なデザインで、スカートの後ろ部分をフリルとリボンで派手に飾っている。イヴリンの母の時代には詰め物(バッスル)でお尻の上を膨らませて着ていたが、今は流行らない。


 母の衣装箱から引っ張り出してきたドレスで正装を整えたイヴリンが、鏡で最後の確認をしていると。その横で同じように鏡をのぞくエセルが、なぜかうつむいてため息をつく。


「エセル?」

「……ごめんなさい。でも、なんだか淋しいなって」

「淋しい?」


 まだ夜会に出られないのが淋しいのかと、イヴリンは思った。いつもこうして着飾って出かけるのは姉だけで、実はとてもうらやんでいるのかもしれない、と。


 しかし。エセルが淋しげに微笑んだのは、別の理由だった。


「あのね、もちろん嬉しいんですよ、姉様の婚約が決まって。でもとても淋しいんです、姉様がお嫁に行っちゃうと思うと」

「まあ、エセルったら」

「だってこの間は、いきなり婚約したっておっしゃるんだもの。なかなか実感が湧かなくて」


 偽装婚約の約束を交わした直後、イヴリンはあの場ですぐに叔母と妹に報告した。ランバート子爵と共に。叔母たちは祝福してくれたが、それ以上に驚いていた。突然すぎたからだろう。


 もちろんエセルとて祝ってくれていた。姉の婚約を喜んでいた。

 だが実際に婚約者と出かけて行くイヴリンを見ていると、淋しくなってきたらしい。


(エセル……ごめんなさい!)


 そんなエセルに、イヴリンの心は激しく痛んだ。本気で喜び、また淋しがってくれるエセル。こんなに素直な妹をだましていると思うと、胸が痛い。だが。


(許して。これもあなたの良縁のためなの)


 本当のことを打ち明けたい衝動にかられたが、ぐっと我慢する。そしてエセルはというと、すねたようにそっぽを向いた。


「あの子爵様のことだってそうです。姉様、わたしには何にも話して下さってなかったわ。そんな人がいらっしゃるってことを」

「そうね、エセル。悪かったわ、でも驚いたのはわたくしも同じよ。あの方が」


 まさか偽装婚約を持ちかけて来るとは思わなかった、とは言えない。


「……とにかく、子爵は(あなたの良縁を探してくれる)いい方よ。頼りになるわ、きっとね」

「そうですか?」

「ええ」


 仕上げに香水を喉のくぼみに一滴たらしてすり込み、準備は整った。支度ができた姉は、淋しさで沈んだ様子の妹の肩に両手を置く。


「エセル。行ってくるわね(あなたの最高の花婿を捜しに)」

「はい、姉様……」


 まだ何か言いたそうにしているエセル。だがそれでも笑ってみせた。己の淋しさをこらえ、一生懸命笑顔を浮かべようとしている。


「ご婚約おめでとうございます、イヴリン姉様。どうかお幸せになって」

「……ええ! (あなたが望むなら)世界一幸せになってみせてよ、エセル! おほほほほ」


 自分の淋しさをこらえてイヴリンの幸せを願ってくれるエセルの笑顔に、重度の妹狂いは何がなんでも良縁を掴み取ってやろうと、その決意を新たにした。




 ランバート子爵は今夜イヴリンを、ある晩餐会に連れて行ってくれるそうだ。そして約束通り、ふたたび男爵邸を訪れた。


 玄関前に出て来た盛装のイヴリンを見て、偽装婚約者は開口一番こう言った。


「今晩は、イヴリン。驚いたな、今夜の君は本当に麗しい。このロンドンの霧の中から、清らかな水の精霊(ウンディーネ)が出て来たのかと思った」

「……それは、どうも。ありがとうございます」


 褒めてもらえるのは嬉しい。しかしやはりこの道楽貴族はそつがなさすぎる。表情には余裕があり、どう見ても驚いた様子はなかった。本気の感想というより、条件反射で褒めたのかもしれないとイヴリンは疑う。


 イヴリンの疑いには気づかないのか、相手は彼女をエスコートして馬車の中に導く。イヴリンに続いてウィリアムが乗り込むと、さらにもう一人。踏み台を持ち込みながら、使用人らしき服装の男性が乗り込んでくる。


「イヴリン。これ(・・)は従僕のオコナーだ」

「お初にお目にかかります、お嬢様。乗り物に割り込みまして失礼いたしますが、御前がよからぬことをなさいませんよう、私めが目を光らせなければなりませんので。お許しを」

「よからぬこと?」


 どういう意味だ、とイヴリンは眉をひそめる。やっぱり信用のならない人間だったのかと、不審の目をウィリアムへと向けた。


「おいおいオコナー、それが主人に言うことか? ほら見ろ、イヴリンの目を。お前のせいで婚約者に不審がられてるじゃないか」

「御前が不審者のように見えるとしましたら、それは私の責任ではございません。またイヴリン嬢と御前の間にある新しい『ご関係』は、仮のものとうかがっております。ということは、今後お嬢様の体面が傷つかれることがないようお守りするのが私の務めかと」


 丁寧ではあるのだが、ずいぶんと四角四面な口調だった。しかも主に対する遠慮がない。従僕のオコナーは黒髪で、眠っているのではないかというほど目が細いため、東洋人めいた雰囲気がある。イヴリンとウィリアムの間の事情は了解しているようだ。


 ウィリアムはわざとらしく肩を落とすと、諦めたようにため息をつく。


「やれやれ、従僕がこれだから僕の信用は落ちるばかりだ。こんな僕と婚約してくれた麗しの乙女の体面くらい、ちゃんと守ってみせるのに。偽装でも。

 まあいい、イヴリン。それより僕らの共同計画のことだ」


 共同計画とは何のことかと一瞬とまどったが、すぐに良縁探しのことだとわかる。


 「晩餐会にご招待」とひとくちに言っても、開く側では社交の一大イベントだ。出席者を選んだり招待状を出したり席次を決めたり。料理だけではなくその後の余興についても気を配る。ウィリアムは軽くイヴリンを誘ったが、普通は急に出席できない。


「今夜のエプソン卿の晩餐会はそれほど格式ばった席じゃない。ご主人の病気快復祝いなんだが、今月だけで三回目だそうだ。とにかく人を集めてパーティーを開きたいだけなんだろう」

「ではわたくしが急に押しかけても構いませんの?」

「問題ない、僕の連れなんだから。肝心なのは、昼間に言っていた候補者のひとりが来るということだな。トーマス・バートン、リヴァース伯爵がね」




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