7.予想外な申し出
可能性のブラウンの英国式庭園とはほど遠いが、バリー家の庭も丹精込められている。レンガ塀で囲んだ庭は青い芝生がしきつめられ、丸石で区切った花壇では地植えの菫やパンジーが、鉢植えではゼラニウムが花開いている。美しいというよりは、かわいらしい庭だ。
他の人間の耳から離れて、ようやくイヴリンは切り出した。庭の説明をしている振りをしながら、横に並んで立った子爵に問う。
「どういうおつもりですか」
「どういう……って?」
「どうしてこちらにまでいらしたのですか? わたくしは昨夜あなたをお助けしました。それで終わりでしょう」
まさかと思う。昨夜の婚約劇はただの茶番だ。だから、今さらそれを盾に訪ねてきたとはイヴリンも思わない。別の思惑があるに違いないと思う。
「終わりだなんて。僕は命を救われたんだ、もっと丁重に礼を言うべきだったと思ったから、こうしてここまで来たのに」
「お礼を」
「そう。まさか『社交界の女王』に命を救ってもらったとは知らなかったが」
まだそれを言うの、とイヴリンはうんざりする。
「どこまでも無作法なかたですわね」
「イヴリン?」
「気安く呼ばないで下さい」
「ああ。では『女王様』と呼べばいいんだね?」
「馬鹿にしないで!」
礼どころか、怒らせに来たとしか思えない。もう我慢ならなかった。
「わたくしがいつそう名乗ったとおっしゃるの? 偉そうに振る舞った覚えなんてありませんのに、どうしてそんな風に呼ばれなくてはいけないんですか?」
「いや。僕は別に」
「でもあなただって馬鹿にしているんでしょう!? 馬鹿にして、みんな陰で笑っているじゃありませんか!?」
イヴリンの勢いに対し、ランバート子爵は両手を上げて応じる。お手上げ、とばかりに。
「世界で一番美しいだなんて思ってませんし、社交界に君臨するつもりもありませんわ! 舞踏会だって行かなくて済むならどんなに楽か。誰が壁の花になりたいもんですか」
理不尽だ。イヴリンは目立ちたいとすら思っていない。望むのはたったひとつ。
「わたくしはただ……エセルのために。妹にいい縁談を持って来てくれるような、そんなコネのある人と結婚したいだけなんです!」
「――は? コネ? 妹?」
己の最終目標をぶちまけて、それでやっとイヴリンは止まった。はあ、と大きく息をつく。深くうつむき、ぐっと両手を強く握りしめる。
イヴリンの最終目標は、エセルが最高の結婚をすることだ。最愛の妹には裕福で優しくて身分もある最高の紳士と、誰もがうらやむような幸福な結婚をしてほしい。むしろそれぐらいでなければ愛する妹はやれない。
そして、そのためにはイヴリン自身が良縁をつかむ必要がある。姉の結婚相手は妹にも影響する。イヴリンが社交界で頑張るのは、エセルに最高の結婚相手を紹介してくれるような、強力なコネを持った相手と結婚したいからだ。
「イヴリン? どうかしたの」
怒鳴る勢いで言い切ったイヴリンの声が聞こえたのだろう。リビー叔母が中から呼んだ。
おかげで少し冷静に戻った。
「な、なんでもありませんわ! 虫が飛んできて驚いただけです」
叔母に対して取り繕うと、もっと冷静になる。本音を漏らし過ぎた。
(こんなこと、この人に言ったって)
ランバート子爵に文句をつけても仕方がない。助けた礼をするために来ておいて、相手を怒らせる態度をとるのは理解に苦しむが。だが、少なくともイヴリンの陰口を言っていたのは他の人間だ。別の者への文句まで言われては、彼のほうこそ不快だろう。
もうお礼はいいですから、お帰りになってはどうですか。そう告げるため、イヴリンは顔を上げてランバート子爵を見た。
すると相手も彼女を見つめていた。さすがに笑ってはおらず、神妙な表情だった。
だがイヴリンは、妙にその目が輝いている気がする。
気を飲まれたイヴリンが黙っていると、代わりに子爵が口を開く。
「なるほど。やっとわかった、昨日君が怒った意味が。揶揄されていたんだな」
「……」
わかってなかったの、と肩を落とす。何故イヴリンが怒ったのか、理解していなかったようだ。それを悪名だと思ってなかったらしい。
「悪かった。――こう見えて年寄りなんだ、若い世代の話題をわかっているつもりになっていたが、そうでもなかったようだ。知ったかぶりをしてすまなかった、イヴリン嬢。不快にさせたね」
あんがい素直に謝罪の言葉をのべると、ランバート子爵はすまなそうに苦笑する。
イヴリンのほうで急にきまりが悪くなる。嫌味で女王呼ばわりしたのではないということは、彼に悪気はなかったということだ。
「いえ、わたくしも――」
だが、イヴリンが自分も言い過ぎたと謝る前に、その宣戦布告は為された。
「じゃあこうしようか。イヴリン、本当に婚約しよう」
「……はい?」
「社交界にコネのある夫が欲しいんだろう? 僕はこう見えてあの世界で顔がきく。命を救ってもらったお礼も込めて、最高の良縁を捜してあげようじゃないか。君の妹さんへ」
「はあ!?」
目が丸くなる。イヴリンはあまりのことに言葉を失くす。申し出の意味をすぐに理解できない。
そんな彼女に対して、ランバート子爵は柔らかく微笑んだ。優しいといえば優しいが、やはり底が見えない笑顔だ。余裕のある態度が逆に怪しい。婚約を申し込む男性にしては、あまりに浮ついている。イヴリンには本気とは思えない。
その通りだった。
「ただし、見せかけだけだよ。偽装婚約だ」
「見せかけ。偽装」
「本気じゃない、期限を決めておこう。妹さんの婚約が決まったら、僕らの関係はそこでおしまいだ。婚約破棄したことにすればいい」
偽装婚約。その言葉がしばしイヴリンの頭を駆け巡った。
イヴリンの妹、エセルに良縁を捜すため。社交界に(本人の申告では)コネがあるらしいランバート子爵と、イヴリンが見せかけの婚約をする。一緒に妹の縁談相手を探してくれるという。
何を馬鹿なことを、とイヴリンの良識がすぐに判断した。非常識にもほどがある。
だが直ちに断る前に、己の状況を思い出す。
「……」
昨夜の散々な舞踏会。あのひどい悪名。そして何より、しばらく叔母には付き添いをしてもられない。付き添いがいないということは、当面、社交界の集まりには出られないということだ。婚活がストップしてしまう。
これではイヴリン自身の縁談が決まらない。そして姉が片付かなければ、妹のエセルは社交界には出られない。それは避けたい事態だ。
黙って考えていたイヴリンは、あらためてランバート子爵と目を合わせた。遠慮なくまっすぐ視線を返してみせた彼女は、慎ましやかを良しとする淑女にしては挑戦的すぎたかもしれない。
しかしイヴリンが臆することなく見返すと、その瞬間、ウィリアムはにやりと笑った。楽しげだが、ずいぶんと性格の悪そうな笑い方だ。それが彼の素の表情だとイヴリンは直感する。おそらく子爵は楽しんでいる、この茶番を。
そう、これは茶番なのだろう。昨夜と同じ、ただのお遊び。少なくともランバート子爵にとっては。
「……いいですわ。そのお申し出、お受けします」
屈辱だった。しかし背に腹は代えられない。エセルを守れるのはイヴリンだけ。そのために自分ができることなら、何でもしよう。そう決めている。
屈辱をこらえて返答したイヴリンに、子爵はますます笑顔になる。満足げにうなずいた。
「よし、これで契約成立。――ああ、そうだ」
しかしこの道楽貴族はもっとイヴリンを怒らせるつもりだった。いかにも軽く付け加える。
「これは偽装だからね。僕を本気で好きになるのは無しだ、絶対に」
「……ええ、もちろんです。だったらあなたも同じですわよ、わたくしに心を動かさないでくださいね、絶対に!」
まるで互いに喧嘩でも売っているような応酬だったが、こうしてブラント男爵令嬢とランバート子爵は婚約を交わしたのだ。偽装の。
「受けてくれてよかった。イヴリン、そう呼んでも構わないね?」
「けっこうですわ、ウィリアム」
親切なのは本当かもしれない。エセルがどれだけ幸福な結婚をしようと、ランバート子爵には何のメリットもなさそうだ。なら何のためかと考えれば、理由はひとつ。
これはこのとんでもない紳士にとって、おそらく遊びの一環に違いない。さきほどの笑いは、何か新しいおもちゃを見つけたときのもの。崖っぷちにいるイヴリンにとっては、切羽詰まった問題なのに。
(最低だわ)
言われなくとも自分が彼を本気で好きになることなど、絶対にありえない。それだけは確実だと、イヴリンは心から思った。




