5.おめでたな理由
ロンドン北部の高級住宅街に位置するブラント男爵邸から、馬車を南へ進めて一時間半ほど。市内中心地にも近い、ある通りにバリー博士の家がある。
「あらあら。二人そろって来てくれたのね?」
どんな様子だろうと思いながら訪ねた叔母の家だが、イヴリンたちの心配をよそに、そのリビー叔母自身が元気よく迎えてくれた。しかも何やら含み笑いまで浮かべていて、思わず姉妹は二人で顔を見合わせる。
見舞いの品にと持ってきたバスケットを渡しながら、イヴリンが言う。
「お加減はいかがですの、叔母様? わたくしたち、心配でお見舞いにまいりましたのよ」
「まあ、そうなの? ありがとうイヴリン。何かしら」
背の高い姪を見上げているバリー博士夫人は小柄な女性だ。頬も輪郭も丸く、体型も丸い。イヴリンたちに向けた目は温かく、楽しいこととおしゃべりの好きな、ややそそっかしい奥様である。
急病と伝えて来たわりには顔色の良いリビー叔母に、イヴリンはほっとした。バスケットの中は陶器の入れ物で、見舞いはさらにその中身だ。
「いつものスープですわ、寝込んだとき用の。家政婦のレイトンさんの、あのレシピです」
「ま、嬉しいわ。これ好きなのよね、いくらでも入っちゃって困るぐらい。さ、あなたたちもどうぞ入りなさい。座って」
姉妹に居間のソファをすすめたリビー叔母は、メイドにお茶の用意するよう命じると、さっそく話し出した。含み笑いの理由を。
「――お子様が?」
「もうおひとり生まれますの?」
イヴリンとエセルが口々に尋ねる。
昨夜のリビー叔母の体調不良の原因は、お腹に子どもができたことによるそうだ。医者を呼んでわかったらしい。病気ではなくおめでたなのだと知り、イヴリンもほっとする。
「おめでとうございます。嬉しいわ、どちらが生まれるのかしら」
「さあ、どちらでも嬉しいけれど。でも欲を言えば、今度こそ女の子がいいわねえ」
イヴリンは思わず叔母のドレスのあたりを見てしまった。もともとふくよかなお腹のどのあたりに赤子が宿っているのか、まだよくわからない。叔母にはすでに息子が三人もいて、全員をロンドン近郊の寄宿学校に入れている。
リビー叔母は照れくさそうに言った。
「考えてもいなかったから驚いたわ。子どもができているなんて」
「叔父様も気づいておられなかったのですか? お医者様なのに」
「でしょう? おかしいわよね」
「いつ頃生まれるのですか? 小さないとこがまた増えるなんて、とても楽しみです」
「そうねエセル、冬の予定よ。――あらローザ、どうしたの」
「奥様、旦那様がお帰りです。それで、ちょっと」
お茶の支度をしているはずのメイドが居間に来て、叔母の夫のバリー博士の帰宅を告げた。そしてメイドはなぜか、イヴリンの顔を見ながら話す。
「お嬢様がたがいらしていることをお伝えしたら、旦那様はイヴリン様に用があるとおっしゃっていて。書斎にお越しいただきたいそうです」
「あら。わたくしを?」
どうしてまた自分が呼ばれるのかイヴリンには覚えがない。首をかしげるが、すぐに呼び出しに応じた。
しかし。
「……イヴリン。……」
「はい?」
ユージン・バリー博士宅の書斎では、たった今帰宅したらしい主人がイヴリンを待っていた。全体に丸っこい妻と比べて、ユージン叔父はがっしりした体格の紳士だ。医者は医者だが軍医である。
妻がおしゃべりなせいか、口数の少ないユージン叔父は、ただ黙ってイヴリンをじっと見つめた。これはこの叔父の癖で、言いづらいことがあるといつもこうなる。口火を切るのが苦手なのだ。
言いづらいこととはなんだろうと思いながら、イヴリンは身構えた。
「叔父様? 何かご用なんでしょう、大丈夫ですからおっしゃって」
「ああ、悪いな。――うん、実はリジーのことなんだ」
気まずそうに、しかしぽつりぽつりと伝えて来た。
「リジーはな、一昨年も去年も、もちろん喜んでお前の付き添いをしてきた、うん。知っての通り、うちには娘がいない。代わりに姪のお前たちの面倒をみることを、リジー自身が楽しんでいる。うん、彼女は優しいからな」
「はあ。もちろん叔母様にはいつも感謝を」
「だからな。私としても、その、彼女の気持ちは大事にしたいんだ。しかし」
はあ、と深いため息をついて、それでやっとユージン叔父の気持ちは固まった、とイヴリンは思った。ようやく本題を出すのだろうと。しかしその口から出たのは。
「本当にな、リジーも楽しんでいるんだ。イヴリンの衣装はどうしようかとか、髪型がどうのと、デビューの時はもう、毎日そればかりで。まるで自分がデビュタントに戻ったようで」
「叔父様。はっきり言って下さい」
「……」
なかなか踏ん切りをつかないようだ。そんな叔父に、とうとうイヴリンもたまりかねた。すると叔父は渋々といった感じで一気に言い切る。
「すまないが、リジーはしばらくお前の付き添いはできん」
詳しく話をきいたところによると、元気そうにしていたリジー叔母だが、あまり体調がよくないらしい。もう少し体が安定するまで、外出は控えるようにと医者に注意を受けたそうだ。
「そうですか……仕方がありませんわ。わたくしも叔母様のお体が心配です」
「すまないな。本人はお前の婚約が決まるまでは、何がなんでも付き添うと言い張っているんだが」
「いえ、そのお気持ちだけで嬉しいです」
身分のある淑女とは面倒なもので、未婚の娘は付き添いなしには出歩けない。昼間の軽い集まりなら家庭教師か使用人を連れて行けるが、舞踏会や晩餐会には家族か親類の既婚女性が付き添うのが暗黙のルールになっている。昨夜は報せが急すぎたため、イヴリン一人で出席してしまったが。
「叔母様にはこれまで充分していただきましたわ。ありがたいと思っています」
「いや。これからどうする? 他に当てはあるかね」
「……お義母様に手紙を書きます、ロンドンに来てもらえないか」
「そうか……」
『お義母様』という単語に、イヴリン自身よりも叔父のほうが心配げな顔をした。イヴリンとエセルは、ブラント男爵の、今は亡き前夫人の娘たちだ。この姉妹と、義母である現男爵夫人との関係がどういうものか、ユージン叔父も知っていた。
叔父にこれ以上心配をかけまいと、イヴリンは気丈に言ってみせる。
「リジー叔母様には元気なお子様を産んでいただきたいわ。だからこれから毎日、レイトン夫人のあのスープを届けましてよ」
「……ありがとう。しかし毎日はいい、毎日は」
言いにくい用事を伝えられてほっとしたのか、ユージン叔父はこの日初めて笑顔を見せた。イヴリンをうながし、書斎を出る。まだ仕事中だが、妻の顔を見に寄ったらしい。すぐに職場へ戻るそうだ。そして居間で仲の良すぎる叔母夫婦が、しばしの別れを惜しんでいる横で。
イヴリンが居間のソファへ戻ると、エセルが興味津々に姉へと尋ねてくる。
「イヴリン姉様、叔父様のお話って?」
「ううん、別に。後で話すわ」
「まあ、まだ内緒ですの。――いいわ、だったらわたしもリジー叔母様と話してたこと、内緒よ」
ぷいっ、とそっぽを向いてしまう。十六にしても幼過ぎる。
大丈夫と言ったものの、実は困り果てているイヴリンだ。これからどうしたものかと早速思い悩んでいたのだが、そこは妹狂いの姉だった。エセルが何をしようとかわいいとしか思えないイヴリンは、とろけそうな笑顔を浮かべた。
「あら、わたくしの妹はそんな意地悪な子だったかしら。エセルは淑女でしょう、姉を仲間外れしていいと思っているの?」
「姉様が話してくれるならね」
「強情なんだから……そうね、当ててみせましょうか。ファッションのことでしょう」
「! どうしてわかるの?」
エセルの膝に置かれたファッション・プレートには、これから迎える夏向けのドレスが何着も描かれている。わかりやす過ぎるわね、とイヴリンはおかしくなった。
「もう来年には大人向けのドレスを着られるものねえ。ああ、エセルにはこれがいいんじゃないかしら。この真っ白で、紺のひだ飾りの。きっと似合うわ。そうだ、髪型も考えないと」
「うーん、髪はお姉様とおそろいにできたらなあって思うんだけど……」
今はお下げにしたエセルの髪は、来年には結い上げた大人の女性のものへと変わる。その日を想像するだけで、イヴリンは嬉しいような寂しいような切ない気持ちになる。そこへ行きつくまでには大小の障害があった件など忘れ、その気持ちにひたっていた時だ。
「あのう。お客様がいらしているんですけれど……」
またもメイドが居間に来た。今度は銀のお盆を持ち、そこに一枚のカードをのせて。
だがさっきまでと違い、メイドのローザは様子がおかしい。どこか途方に暮れている。
「ローザ、客とはどなただい」
「はい、旦那様。それが――」
ユージン叔父がカードを取り上げ、その内容を見て言う。
「はて。どなただろう、こんな患者がいたかな」
「いえ、旦那様にお会いに来られたのではないそうです」
「私ではない? じゃあ」
「イヴリン様にお会いしたいと、そうおっしゃってます」
自分の名前を呼ばれ、話に夢中になっていたイヴリンが顔を上げた。たったいま襲ってきている嵐がどれだけのものなのか、彼女はまだ知らない。
「お客様のランバート子爵ウィリアム様は、イヴリンお嬢様を訪ねてこられたそうですので」




