4.溺愛な姉
舞踏会自体のスタートが夜遅かったため、イヴリンがロンドンの男爵邸に帰りついたのは深夜だ。盛装を解き、ベッドについたのはもっと遅い。
そしてあの妙な小芝居に付き合ったせいで一時忘れたが、イヴリンの問題は何も解決していない。悩むイヴリンは明け方まで眠れなかった。
明けて朝。まだ頭が重かったのだが、それでもイヴリンは寝不足の体を押してベッドを出た。こなさなければならない日課があるので。
「イヴリン姉様! おはようございます、起きていらしたのね」
「エセル……おはよう」
ブラント男爵家のタウンハウス、その居間は明るい光を取り入れられるよう、通りに面した位置にあった。壁紙やカーテンを乳白色とペールブルーで統一した、居心地の良い部屋だ。窓からは馬の足音や行き交う人の声、それら街の喧騒がわずかに届く。
その窓のそばに置かれたソファでは、ひとりの少女が腰かけている。淡紅色の唇から鈴を振るような笑いをこぼした、可憐な娘だ。
重いまぶたを押し上げて、起きて着替えたばかりのイヴリンである。昨夜の出来事にまだ泣きたいくらいだったのだが、しかしその気分はたちまち吹っ飛んでいった。
純然たるエメラルドグリーンである姉と違い、緑に灰色が混ざった、複雑な色味の瞳。顔立ちも似ているが年齢差の分だけ幼い。そしてイヴリンよりも色素が薄めのプラチナブロンドを二つに分けて、三つ編みのお下げにしている。
エセル・ブラント。
イヴリンより三つ下のこの妹こそが、イヴリンの唯一無二の宝物だ。
誰より愛おしい妹の姿を視界に入れ、ようやくイヴリンの傷心は癒された。
エセルの横に座り、その頬に垂れ落ちた髪をさりげなく直してやる。こうして密接に触れ合うのは姉である自分の特権だと、イヴリンはつねづね思っている。
「あら、もうこんな時間なの? いやだわ、昨夜も遅かったから。このままじゃいつか昼と夜が逆転しまいそうね」
「昨夜もとても遅くまで踊っていらしたのね。ふふ、イヴリン姉様のことですもの、きっと集まった殿方みんなからお誘いがあったのでしょう? たいへんでしたわね」
エセルはいたって無邪気だった。だからこそイヴリンは内心で肩を落とした。
社交界デビュー前の妹は、自慢の姉のモテ期が終わりつつあることなど少しも想像していないに違いない。純粋に、イヴリンが社交界の華であると信じ込んでいる。
となると、イヴリンはこうするしかない。
「そ……そうですのよ! 昨夜は本当に困りましたのよ、お断りしてもお断りしても皆さまそれは熱心に誘って下さるんですもの。疲れたからと言って、がっかりさせては申し訳ないでしょう?」
「まあ! やっぱりそうなのね、さすがお姉様」
「だって素敵な方ばかりだったもの。でもね、入れ代わり立ち代わりいらっしゃるものだから、もう誰が誰だかわからなくなっていてよ!」
とどめとばかりに、最後に「ほほほ」高笑いしてみせる。それは『社交界の女王』そのものだった。少々やけになっていたのかもしれない。
イヴリンにしても、言っていて悲しくはない、とは言い切れなかった。だが最初のシーズンでは実際それくらいちやほやされたので、嘘ではないと自分に言い聞かせる。
そしてあいにく、素直すぎるエセルは姉の虚勢にはまるで気づかない少女だった。まあと目を見張らせて驚くが、すぐに少し顔を曇らせた。その表情を見逃すイヴリンではない。
「どうしたのエセル!? 何か心配ごとでもあるの?」
「ううん、姉様。そんな、心配なことなんて。でも……わたしは姉様ほど美人じゃないんですもの、地味だし。もし舞踏会でどなたにも声をかけてもらえなかったらって思うと、怖くて」
そんなこと、とむしろイヴリンは肩透かしを食う。
イヴリンからすれば、このかわいいかわいいエセルが舞踏会で壁の花になることなどあり得ない。素直で純粋、かつ可憐で愛らしいエセルがひとたび人前に出れば、求愛する男など引きも切らないだろう。
実際あり得なくはなかった。イヴリンのモテ期がまだ終わってなかった頃だ。イヴリン目当てに男爵邸を訪れた紳士たちが、同じ部屋にいるエセルにも目をつける度に排除してきたのはイヴリン自身だった。
しかし残念なことに、その当時の記憶だけでイヴリンには許しがたかった。どこの馬の骨とも知れない有象無象が、大事な大事な妹に群がる。今度は本当に持っていかれてしまう。想像しただけで嫉妬で怒り狂う。そんな男は万死に値するとイヴリンは思う。
なんびとたりともエセルには近づけたくない。それが本音であるイヴリンは、優しい姉としてエセルの不安をはらうより先に、嫉妬に狂う姉になった。だからこう言った。
「そうねえ……エセルを誘う人はいないのかも(そんな不届き者はこの手で排除してるでしょうから)」
「そんな。どうしましょう、そんなことになったら。舞踏会なんて行きたくないわ」
「大丈夫よ、エセルにはわたくしがついていますもの。何とかしてあげる(もしだめでもいいのよ、一生二人で一緒に暮らしましょうね)」
「本当に? 約束して下さいね。絶対ですわよ」
わたくしに任せなさい、と力強く答えながら、イヴリンは立ち上がった。書き物机の引き出しから鉛筆とスケッチブックを取り出し、ふたたびエセルの隣を占める。
「姉さま、今朝もなの?」
「少しだけよ。さあエセル、動かないで」
スケッチブックを膝に置き、可愛い妹の姿を写し取り始めた。元より絵を見るのも描くのも好きで、なかなか上手い。簡単な素描でもいいからエセルの記録を残すこと、これがイヴリンの大事な日課だ。
これからもこうして二人で暮らせるなら、結婚なんてできなくたっていいのに。
実はそれこそがイヴリンの本当の望み、心の底の本音である。
妹を溺愛しているのは事実だが、これはこれで困った姉だった。
*
そうじゃないでしょう、とイヴリンが我に返ったのは昼食が済んだ後だった。
(違うでしょう。わたくしの目標は、そこじゃないはず)
イヴリン・ブラントが目指すべき最終目標。
それは、誰より大事な妹エセルに最高の結婚をさせてやること。
おかしな話だが、そのためにはイヴリン自身が良縁をつかんでいなくてはならない。
そして良縁をつかむためには、あの呼び名、あの悪名をなんとかするべきだと彼女は思う。
『社交界の女王』。きっとあんな風に呼ばれるからこそ、婚活がうまくいかないのだ。
どうしたらいいのか悩むイヴリン。そんな彼女を妹の声が現実に呼び戻した。
「イヴリン姉様? どうなさったの、気分でも悪いの?」
「あ……ううん、大丈夫よ。そろそろかしら」
昼食後のブラント姉妹は、二人そろって外出しているところだ。馬車の中で考えにふけっていたイヴリンは、エセルの声で我に返る。
「姉様、叔母様の具合はどうかしらね? 昨日の報せはいきなりだったし、心配だわ」
「さあ。お医者様も呼んだみたいですものね、重いご病気じゃないといいわ」
いま向かっている行き先は親類の家だ。二人の亡き母の妹であるリビー叔母、エリザベス・バリー夫人の自宅へと赴いている。叔母は、幼いころに実母を亡くした姪たちを可愛がってきた、心優しい婦人だ。
実は昨夜の舞踏会も、リビー叔母がイヴリンの付き添いとして同行してくれる予定だった。だが出発直前になって急な体調不良という言づてが届き、イヴリンは付き添いもなくひとりで出席することになったのだ。
昨夜の信じられない出来事についてはひとまず忘れた。だから今は医者まで呼ばれたという叔母の体調が気にかかった。言づてには「心配しなくてもいい」という追伸がついていたのだが。




