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31.幸せなさようなら


 ブラント男爵令嬢とランバート子爵。そろって悪名高いふたりが初めてキスを交わした日、彼はそのあと慌てて自宅を出発した。ロンドンを離れて、出掛けるところだったという。



 そして。時は流れて約一年。


 イヴリンは泣いていた。ギリギリと歯を食いしばり、今にも怒鳴り込んで行きたい自分を抑えている。溶けてしまえばいいのにと、その扉をにらんでいる。握りしめた白いハンカチのお陰で、彼女の爪は自分の手を傷つけずに済んでいた。


「~~エセル」

 

 廊下でひとり涙を飲んでいるイヴリンは、後れ毛を美しい巻き毛にして、ひときわ華やかに装っている。しかし相変わらず亡き母のお古のドレスだ。彼女によく似合う青磁色の一着だが、流行遅れなのは否めない。


 その麗しのイヴリンが狂気の篭った視線でにらむのは、自宅であるブランド男爵家の客間の扉だ。そして部屋の中には二人の人間がいる。イヴリンは聞き耳を立てるのも我慢しているので、両者の間でどんなやりとりがなされているかわからない。


 わからないから頭にくる。エセルに変なことしないでと、今すぐにも怒鳴り込みたい。


「いくら婚約したからって……結婚前から不埒な真似をするのは許さないわよ、アーネスト。今からでも引き裂いてやるから」


 義弟になるのだからと、堂々と呼び捨てにする。


 今夜はエセルが主役の夜だ。ブラント男爵家の次女の婚約を祝い、パーティーが開かれている。今ではイヴリンももっといいドレスを持っているのだが、あえて三番手ぐらいの物を選んだ。引き立て役なのだから。


 さっきまでイヴリンと、ダンスという名の果し合いをしていたアーネスト。だが今は婚約したばかりのエセルと二人、さっそく密室に篭ってしまった。中で一体何をしているのやら、イヴリンからすれば許しがたい行いだ。万死に値する。


「……くっ」

 

 しかし、うめきながらもイヴリンは怒鳴り込まない。邪魔をしない。


 最愛の妹であるエセルと、夫となる人との間を裂いたりしない。実際、妨害ならこれまでいくらでもしてきた。どれだけ邪魔しても割って入ってもしつこく諦めなかったから、アーネストは勝ったのだ。


 だから今夜が最後だ。これからはもう、イヴリンは邪魔をしない。負けを認めた。


「でもくやしい」


 認めたのは認めたが、それでもイヴリンは悲しかった。愛されているエセル。それはイヴリンが一番望んできた姿でもある。エセルの幸福のためなら何でもできる。


 しかし本当に譲る日が来てしまったら、悲しまずにはいられない。

 大事な妹が、もうすぐ他の誰かの妻となってしまう。淋しくないはずなかった。


 幸福な別離だが、涙は抑えられなかった。昔エセルがプレゼントしてくれたハンカチを握りしめて、イヴリンは泣いてしまう。暗い廊下でひとり、声を殺して泣いている。すると。


「おいおい、イヴリン」


 軽妙な声に呼ばれて振り返ると、そこにいた。夜会服姿の紳士だ。イヴリンのもとに歩み寄った彼は、優しく言う。


「泣くならハンカチじゃなく、僕の胸にしてくれないか」

「ウィリアム」

「ほら。おいで」


 優しくそう言われたら、泣きつかずにいられない。情けないとは思っても。

 到着したばかりらしく、まだコートも脱いでいないウィリアム。その襟にしがみついて行くと、頭を抱え込まれた。背中を優しく叩かれる。

 

「来ないと思ってた」

「どうせ泣いているだろうと思ったからね。イヴリン、よく我慢したな」

「……もう」

「うん?」


 大人の余裕なのか、ウィリアムはいつもこうだ。イヴリンを優しく甘やかす。だが、まるで子どもに対するようなその態度を、不満に思わないでもなかった。

 しかし以前、「子ども扱いはやめて下さい」と言ったら、「それは嬉しい申し出だ」と答えて早速よからぬ真似をしようとしたので、あまり迂闊な発言もできなかった。


 エセルもそうだが、イヴリンも同じだ。良家の娘は結婚前から貞操を許してはならないと、そう厳しくしつけられる。たとえ婚約者が相手でも。


「今からそんなに甘やかしたら、先が思いやられるわ。困るのはあなたですわよ」

「あまり僕をあなどらないほうがいいぞ、イヴリン。これは婚約期間用の顔であって、結婚したら事情も変わる。その時はもう謝っても離さないから、覚悟するんだね」


 そう言いながらウィリアムは、イヴリンを胸にしがみつかせたまま、自分の手にはめていた黒い手袋を外した。

 

 元・偽装婚約者。今は本当の婚約者であるイヴリンの妹のパーティーだというのに、かなり遅刻して現れた彼。それには事情がある。


「来てよかったの? 喪中なのに。親戚の人から、いろいろ言われるんじゃ」

「別に言われても構わない。断絶してる間に、うるさく口だけ出してくる連中と、そうじゃない人たちの見分けはついているから」


 初めてのキスと本当の婚約を交わした日、ウィリアムは慌ただしくロンドンを出発した。ずっと長患いをしていた彼の父親ボークラーク公爵が、もう危ないという報せが入ったからだ。それを知ってイヴリンも焦った。だが、その時はなんとか持ち直していた。


 しかしエセルの婚約パーティーがひと月後に迫った日、とうとう亡くなってしまう。エセルとアーネストはパーティーの延期を申し出てくれたのだが、ウィリアム本人が断った。だが喪中の身で華やかな席に出るのは、はばかられる。だから今日は来るはずではなかった。

 

 また、父親の爵位を継いだウィリアムは忙しい。最初に危篤になった時から相続に関わる様々な手続きを始めていたそうだが、貧乏公爵にもそれなりの領地は残っている。その領地の住人とこれから先の取り決めをしたりなど、貴族もぼんやりしていられない。


 疲れているのだろう。イヴリンの目に、ウィリアムはやつれて見えた。それでも慰めるためだけに来てくれたと思うと嬉しい。嬉しいが心配だ。


「それに言っただろう。姉妹じゃなくなるわけでもない。これからだっていくらでも会える」

「うん……でも」


 彼女の頬を優しくぬぐってくれるウィリアム。彼は軽く言うが、イヴリンにはわかっていた。それぞれに家庭を持ったら、優先させるものも変わってしまう。


 そう、もうイヴリンも、エセルのことばかり考えてはいられない。

 姉妹でなくなるわけではないが、さよならを告げたのだから。この度を越した執着に。


「さて。涙は止まったか? パーティーへ戻るか、麗しのイヴリン? さすがにダンスには誘えないが、君を笑った連中に、僕がどれだけ君に首ったけになったかを見せつけてやるのも悪くない」

「ううん。――こっちへ」


 十五歳も年上でマダムキラーな公爵を落とした男爵令嬢は、彼の手を取った。向かうのはパーティー会場である広間ではなく、階段だ。そもそも今夜の主役は妹であり、イヴリンではない。


 エセルとアーネストを引き合わせた場所はイヴリンとウィリアムの婚約パーティー。そしてちょっとした嫌がらせで、その日も舞踏会にした。アーネストが、「ダンスは苦手だ」と漏らしていたから。しかし当日になって驚いた。苦手だったはずのダンスを、完璧に身につけてきたアーネストに。さすがにイヴリンも認めないわけにはいかなかった。

 だがまさか、妹が妙な勘違いをしていたことまではまだ気づいていない。


 婚約者を連れて階段を上がるイヴリンは、二階からさらに上へ行く。


 疲れているウィリアムに、今はパーティーで道化などさせたくなかった。亡くなった父親との確執については聞いていた。彼が今どんな思いをしているか、イヴリンも心を痛める。だから何かしたかった。


「どこへ行くんだ?」

「わたくしも驚かせたいの、あなたを」


 彼はちょうどいいところへ来たと、イヴリンは思った。ひとまず完成したばかりだから。

 婚約者を導いたのは、自分の部屋だ。その壁にはあの「ピアノによる少女」も掛けられているが、今夜ウィリアムに見せたいのは別の絵だった。


「こんなことで……あなたの過去が変わるわけじゃないけれど」


 書き物机の上に置いてあった一枚。わけもわからないまま連れて来られたウィリアムの前で、上にかけていた白い布を取る。


「『あなたを唸らせる作品を作れるようになるまで、結婚はしない』。そう決めていたわね?」


 結局美術教師は目指さないイヴリン。ヴェラー先生には悪いことをしたが、代わりに時々、また教えを乞うていた。ウィリアムに認められる絵を描きたいと、婚約した時に誓ったから。


「あなたのご実家に行った時に、見せてもらったから。レナールの『ボークラーク公爵一家』を。それと、弟さんから昔の写真も譲っていただいたわ。あとは想像と、今のあなた」


 パステルで描いた。丁寧に、心をこめて。


 画面には少年がひとり。昔の貴族の子弟なのか、古風な軍服を着ている。ちょっと振り返ったようなポーズで、肩には旗のついた棒を担ぐ。斜めにかぶった帽子を少し上げながら、絵の鑑賞者へと視線を向けている。その目は悪戯に輝き、口元には何か企んでいるとしか思えない、人の悪い笑みを浮かべている。


 背景は青い空。色調の薄い、信じられないほど晴れやかな明るい青だ。

 その空を背景に立つ少年、その顔は。


「これは……まさかと思うが。僕か」

「わかります? よかった」

「わかるが。わかるけれど、僕はここまで人相悪かったか? まるで悪ガキじゃないか」

「だから。今のあなたも入ってますの」


 イヴリンは澄ました顔で言う。無邪気な子どもにしたかったのに、彼女が想像した少年期のウィリアムは、描いているうちになぜか悪い顔になってしまった。


「そうね、タイトルは『旗を持つ少年』かしら。――若い芸術家を支援するボークラーク公爵は、旗を持って彼らを導く先導者になるの」

「……」

「これはまだ完成形じゃないわ。もっと上手くなって、ちゃんとした油絵にする。そうしたら」


 あなたの目にも適うかしら――と、最後まで言えなかった。少し驚いて言葉を失くした。


 すがったのはウィリアムだ。暗い子ども時代を払拭するような絵を見せられた三十五歳は、二十歳の婚約者を、すがるように抱きしめた。身をかがめてイヴリンの肩に顔を埋めたウィリアムは、その形のまま言う。


「認めるよ、認める。だからすぐに結婚しよう、もう待てない」

「……適当なこと言ってませんよね?」

「まさか! これほど感動したことはない」

 

 本気かどうかまだ疑うが、少しでも慰めになったならイヴリンも満足だ。だから。


「はい。ウィリアム」

「ウィリアムじゃないだろう。教えたじゃないか」

「はいはい。愛するウィリアム、わたくしを妻にして下さい」

「よし」


 ウィリアムはイヴリンの頬を両手で挟む。互いの顔をのぞきこみ、ひたいをつけて笑い合った。


 そして慰めに来たのに慰められた公爵は、自分が持つ特権をよく知っていた。


「明日さっそくカンタベリー大主教に頼んでくる」

「……?」

「それともグレトナ・グリーンに駆け込むか?」


 特別結婚許可証をもらうか、それとも駆け落ちするか。すぐに結婚式をしようという言葉を、ウィリアムは本当に実現させようとしている。喪中であるのを、一時忘れているらしい。


「だから早くて明後日だな」

「またそんなことを。……いいですわよ、偽装じゃないならもうなんでも」


 この人なりの甘えだろうかと、イヴリンはうなずく。幸せそうに。



 けっきょく実現したのは半年後だ。しかも合同だった。内輪でひっそり挙げようとしたのだが、イヴリンはもちろん、エセルも大泣きしたのでちょっとした騒ぎになった。

 

 “社交界の女王”ことブラント男爵令嬢と、“マダムキラー”ことランバート子爵。

 悪名高い二人が始めた茶番、偽装の婚約。これがその、幸せな結末。








完結までお付き合いいただきありがとうございました。

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