30.篭めすぎな想い
さっき届いたばかりの手紙をマントルピースの上に置いた。差出人は例の将軍の妻からだ。フェザーストン将軍の妻メイベルがウィリアムに寄越したその手紙の内容とは、感謝とのろけ。
『夫はやっと言って下さいました。自分にはわたくしが必要だから、離れないでほしいと。ねえランバート卿、信じていただけるかしら? うちの将軍が、こんなことを言うなんて。でも本当ですのよ』、と。第三者からすれば、馬鹿馬鹿しくなる内容だ。
マスケット銃で子爵の命を狙ったフェザーストン将軍には気の毒だが、ウィリアムは本当に将軍の妻とはどんな関係にもなっていない。本当に根も葉もない妄想である。
ではどうして将軍がそんな勘違いをしたかというと、それは妻の策略だった。マダムキラーで有名な子爵にちょっかいをかけらていると匂わせて、嫉妬させて。そうやって夫の関心を引きたかったそうだ。
「……まあ。仲直りしたならいいか」
巻き込まれたウィリアムにはいい迷惑だが、自分の普段の行いと評判が仇となったのだから強く文句は言いづらい。結局のところ気のいい彼は、夫人から事情を聞かされると、つい許してしまう。
呆れながらつぶやいた彼の周辺では、臨時雇いの下男が旅行用鞄を運び出している。
ランバート子爵が借り受けているセントジェームズのフラットでは、長期旅行の支度が薦められていた。下男に指示する従僕に、雇い主が声をかける。
「オコナー。しばらく戻らないだろうから、家具には何かかけさせておけよ」
「かしこまりました。絵はどういたしましょう」
「……持って行きたいが。仕方がない、諦める」
今度は単なる旅行ではなく、このロンドンの家を長期で不在にすることになるだろう。ウィリアムはそう予感している。しかし気が重い。できれば行きたくない。
本当に気の重い彼は、お気に入りの絵画群に別れを惜しもうと、書斎へ行った。大切なそれらを眺めながら、いつか彼女が描いた絵も売りに出される日が来るかもしれないな、と考える。その時はここに掛けようかと思っていたら、今度はオコナーから呼ばれた。
「御前」
「列車の時間か? わかったオコナー、行こう」
有能な従僕にうながされ、ウィリアムは家を出ようとする。しかしオコナーが言いたいのはそういうことではなかった。
旅行用のコート姿だったウィリアムは、自宅の書斎の戸口に現れた人に唖然とする。有能な従僕はその来訪を知らせもせず、通していいか了解も取らなかった。いきなり対面させたのだ。
「イヴリン。どうしてここに」
「あ、あの。受け取りました。絵を」
とつぜん現れたイヴリンは、何やら腕に抱えていた。やけに大きいが、それはウィリアムが彼女に贈った絵画ではなかった。大きさも形もまるで違う。
「お礼を、言いたくて。ごめんさない、取り込み中でしたの?」
「いや……そうだけど」
元・偽装婚約者は、なぜか二人そろってぎこちない。イヴリンはともかく、ウィリアムまで彼女の目を見られない。
自分はどうかしてしまったようだと思いながら、中へ入るよう手振りで勧めた。
「それは? 随分と重そうだが」
「これは……わあ、すごい!」
指摘されたイヴリンは自分の荷物を見たのだが、すぐにその視線は周囲へと向けられた。
無理もない。そこは彼女が愛するもので溢れているのだから。
「レナールの絵が、こんなに沢山! こんなの見たことないです。すてき」
「あ、ああ。まあね」
「これは……『ニコール・グランダール嬢の肖像』? こっちは『縄跳びをする子ども』ですわね。まあ、『踊る男女』シリーズの物までありますの? すごいわ……」
感嘆の声を上げるイヴリンに、ウィリアムも彼女と同じものを見た。
ランバート子爵の自宅の書斎。本棚よりも絵のほうが多い壁は、家の主が愛してやまない画家の絵で埋め尽くされている。それとウィリアムが支援している、若い画家たちのものも。
「……知っての通り、レナールは肖像画家として有名だから。だから、どちらかというと評論家の評価は高くない。集めるのは難しくないんだよ」
「そういう問題じゃありませんわ。評価も理由もなくても、自然と心惹かれてしまうから好きなんです。――贈って下さった絵も。素晴らしい作品だわ」
ウィリアムがイヴリンに贈ったのも、かの画家の手になる物だった。
「『ピアノによる少女』。気に入ったか?」
「気に入ったなんてものじゃありませんわ! わたくしは一生愛するでしょう、あの絵を」
この画家の特徴である、温かい色彩で描かれた一枚。
舞台は室内。人物はふたりの少女を横から見た構図。アップライト型のピアノの前に座った少女と、それを横から眺めるもうひとりの少女。二人とも視線は楽譜にあり、交わらない。だが、ピアノの前の少女のかすかな微笑みや、彼女の代わりに楽譜をめくろうとしている隣の少女の仕草から、二人の間の関係がとても親しいものだとうかがえる。通い合う情が醸し出された、温もりのある絵だった。
彼女の素直な喜びように、ウィリアムも嬉しくなる。思った通りだ、と。
「それはよかった。きっと大事にしてくれるだろうと思ったから贈ったんだ」
「あの……でも」
絵画群に興奮していた様子のイヴリンだが、何故かそこで意気消沈してしまう。
「本当にいただいていいんですか? ご自分のために買ったのでは」
「うん。――同じ後悔はしたくないからね」
ウィリアムの言葉の意味など知らないイヴリンは首を傾げる。
知らないでいいと彼は思った。
かつて、本人に見せることもなく終わったウィリアムの贈り物。せっかく買った指輪をアリスには贈れなかった。だから同じ後悔をしないよう、イヴリンにはすぐ渡した。迷いが生まれないうちに。
「ところでその荷物は? 重そうだ」
「あ、待って」
女性が重そうな荷物を抱えているのが気になって、イヴリンの手から半ばむりやり奪う。すると本当に重い。両腕で抱えるほどの大きさの、布で張った箱だ。
「どうしよう、つい勢いで持って来てしまったんですけれど。恥ずかしいわ、やっぱり。開けないで下さい」
「そんなに言われると気になるだろう。いったい何を」
やめさせようとするイヴリンの手を無視し、蓋を開けると中身は紙だった。
そんなものがどうして重いのかというと、何百枚もあるからだ。
「あ、あの。あなたのような人に見てもらうような、そんないいものじゃ。それに、こんなに素晴らしい作品の前だと、本当に下手ですわね。はずかしい」
「これは……」
机の前でうつむく姿。ピアノの前に座る姿。窓を背に椅子にかけた姿に、いたずらっぽく指を口元に当てた姿。
何百もの違う姿を描いた、スケッチの山だ。時には色彩をつけたものもある。
「エセルの成長日記? 君が描いた」
「はい……素人の絵ですわ。モデルはあの子ばかりだし」
よほど恥ずかしいのか、イヴリンはすぐに蓋を閉めようとする。
「待って」
「でも」
「どうして今日これを?」
「……見たいって。ううん、わたくしが見てほしいと、思ったから……子爵に」
すでによそよそしい呼び方に変わっていると気付いた。そうだよな、とウィリアムは内心で苦い笑いを浮かべる。もう一度蓋を開け、何枚か取り出して眺める。
「気に入ったよ」
「本当ですか!?」
「うん。確かに素人の腕だ。下手というほどじゃないが、お嬢様の趣味の範囲を超えていない。技術が稚拙で、まだまだ修行が必要だね、今のところは」
正直な感想を言うと、目に見えて落ち込む。がっくり肩を落とした彼女に、ウィリアムも今度は笑いを隠し切れない。
「今のところは、だよ。もっと打ち込むんだね、本気でやるなら。君にしか描けない絵があると思う」
「……そんなものが?」
「ああ。それが世間に受け入れられるかどうか、評価を得られるかどうかは別だが」
はなむけだ。恐らく別れを告げに来たのだろうイヴリンに、最後に励ましの言葉を渡そうと思った。彼女の人生はまだまだこれからだ。十九という年齢は、ウィリアムから見れば眩しい。なにものにもなれる可能性がある。
正直な意見に気落ちした様子のイヴリンだが、それでも微笑んだ。まっすぐな感謝が透けて見える笑顔は、確かに人の心を惹きつける。
「本当にありがとうございます。ランバート子爵」
「……いやいや。君の役に立てるなら幸いだ。僕のような道化の言葉でも、励ましになるのならね」
「道化?」
「昔からそうなんだ。人と直接ぶつかるのが苦手でね、つい、逃げてしまう。正面から立ち向かって戦うより、笑い者にされるほうを選ぶ臆病者なんだ」
実際、ウィリアムは今もそうだ。直接ぶつかることをせず、ただ笑って見守ろうとしている。
歳が離れているから。公爵家とは名ばかりで、実態はごく慎ましやかな生活だから。実家の状況が最悪だから。なにより、彼女の求める誠実さなど、ウィリアムはとうの昔に失っている。
だが。
笑うウィリアムに対し、イヴリンは真剣な顔をしていた。
「そういうことじゃないと思います。道化なんかじゃなくて、あなたは……きっと誰より強い人なんです。笑い者にされても平気だなんて、強くないと耐えられないです」
「――」
「少なくともわたくしは、社交界の女王なんて呼ばれて、平気ではいられませんでしたもの」
真顔だから、本気で言っているのだとわかった。一生懸命伝えようとしていることも。
十九歳の、つたないけれど真剣な想いが伝わる。
(……参ったな)
本当に参ったと思った。これでは手を放せない。なんとかつなぎ止めたいと願ってしまう。ただの同情のはずが、自分でも予想外な方向に行っている。
イヴリンはまだ何か言おうとしていたのだが、先にこちらから尋ねた。
「ジェフリーは? あれから会ったか」
「! ……いいえ」
「そうか。……本当にいい奴なんだが。ご両親も良い人たちで、いい家族だ。あそこなら家族みんなで君を大事にしてくれるだろうと思ったから、僕は」
自分の家と違って、という部分は省いた。言えるはずがない。こんな大人になってもなお、ドレイク家のような、家族仲が良く温かい家庭への憧れを捨てられないことは。
ウィリアムは考える。何か他になかったか。
「そうだ。イヴリン、エセルとトラヴィス卿はうまくいきそうか? 無事に結婚にこぎつけるまで、手引きとか」
「ああ、いえ。大丈夫だと思います。それにわたくしから謝れば、たぶんあのかたは折れてくれるでしょう。エセルのためですもの」
せっかく見つけた大義名分だが、もうだめらしい。
イヴリンはもうウィリアムを必要としていない。彼女はもう、崖っぷちの、孤立していた可哀想な令嬢ではないようだ。別の道を見つけた彼女は、偽装婚約などする必要はない。
「……うん。イヴリン、お礼はもう充分伝わった。だから」
仕方がないのだろうと、もうこちらから切り出す。それに、そろそろウィリアムに時間がない。オコナーは呼びに来ないが、もう出発時刻ではないのかと思う。
「いいえ。わたくし、まだお礼をしていません」
「え?」
「これは、お借りしていた指輪の分」
一歩近づいたイヴリンは、簡単にウィリアムのふところに入って来た。止める間もなく背伸びした。両手に頬を捕らえられる。まずは左の頬へ、次に右へ。
ウィリアムの両頬にキスをしたイヴリンは、背伸びをやめた後も、そのままじっと彼を見つめた。緑の瞳の奥に、隠しようのない感情を篭めて。
もう無理だと悟った。道化の振りを続けるのは。
*
絵を受け取った時、イヴリンは本当にどうしていいかわからなかった。
『ピアノによる少女』。姉妹かどうかは不明だが、少女二人がピアノの前で寄り添う一枚だ。まるで自分たち姉妹ような主題が、イヴリンが大好きな画家の手で描かれている。もちろん一目で気に入った。これほど心を惹きつける絵はないと思った。
これほど嬉しい贈り物も、他にない。
自宅でウィリアムからの贈り物を受け取ったイヴリンは、飛び出すようにそこを出た。馬車を頼んで支度ができるまでの間に、思い立って自分の絵まで持ってきた。他の誰でもない、ウィリアムに自分の絵を見てほしかった。
偽装婚約という理由がなければ、彼はもうイヴリンに用はないだろう。いや、本当は最初から、ウィリアムにはイヴリンに協力する理由もなかった。ただたまたま彼の興味を引いたから、こちらの目的に協力してくれた。イヴリンはそう思っている。
だったら。
(もう一度、興味を)
イヴリンがエセルを描き続けたスケッチなど、素人の下手な作品に過ぎない。しかし万に一つでも、そこに興味を持ってくれたなら。絵画を好むウィリアムの目に少しでも留まったら、そこから別の何かが始まるのではないか。
そんな風に思い詰めながら向かった、ランバート子爵の自宅の住所。
セントジェームズのフラットへ入るとすぐに、荷物を運び出している従僕に出会った。
思い詰めた様子のイヴリンをどう思ったのか、オコナーはすぐに主のいる部屋へと通してくれた。
そうして会えた、元・偽装婚約者。イヴリンはもう、その目をまっすぐ見返すことなどできない。体中がふるえそうなこの感じ。声が聞けるだけで、顔を見られるだけでも嬉しいのだから、もうごまかしようもない。
壁中を飾るレナールの絵にはたしかに驚いた。だがイヴリンには、部屋の主のほうが遥かに重要だ。
自分を道化だと、自嘲して言う彼が嫌だった。イヴリンは、本気でそう思ったから言ったのだ。
「――きっと、誰より強い人なんです」
自分の中の優しさと誠実さを隠して、己を道化と呼ぶウィリアムが切なかった。そうじゃないと伝えたかった。
その次には、こう言おうと思っていた。『本気になるな』というあなたの忠告は、もう聞けない、と。
それなのに彼は言う。
「ジェフリーは? あれから会ったか」
「本当にいい奴なんだが。ご両親も良い人たちで、いい家族だ。あそこなら家族みんなで君を大事にしてくれるだろうと思ったから、僕は」
優しい言葉に突き落とされる。どうしてか、イヴリンとジェフリーの縁を結びたがるウィリアム。それが悲しかった。
イヴリンなりに考えた。どれだけ親切にしても、あんなに素敵な贈り物をくれても、イヴリンとは偽装以上の関係にならない人。あの伯爵夫人が理由かもしれないが、イヴリン自身にも問題があったのかもしれない。貴族年鑑を読んで知ったのだが、彼はイヴリンより十五も年上だ。イヴリンのことなど、子どもと見ていてもおかしくない。
(それに、わたくしの身分も……)
きっとブラント男爵家では、ボークラーク公爵家が求める基準に達しないのだろう。フェアファックス公爵家ではよかったかもしれないが、家の事情などそれぞれ異なるのだから。
「……うん。イヴリン、お礼はもう充分伝わった。だから」
さらにウィリアムは、もう帰るよう、やんわり促してくる。さよならだと。
だが。
あいにくイヴリンは、とうに決めていたのだ。諦めないことを。だからここへ来た。
「いいえ。わたくし、まだお礼をしていません」
「え?」
「これは、お借りしていた指輪の分」
このとんでもなく軽薄で、道楽者でマダムキラーなウィリアムを、自分のほうに振り向かせる。女性経験豊富な彼にかかれば軽くあしらわれるに決まっているが、それでも背伸びした。
ウィリアム自身が言っていたのだから、受け取るべきだろう。貸してもらった指輪の、借用証代わりのキスを。
「――」
背伸びして、その顔に両手を添えて。目を閉じて唇を寄せた。小さな弟たちにする時と同じ仕草だが、まるで違うキスを贈る。恋する相手に。
目を開けたイヴリンは背伸びをやめてウィリアムを見る。さっきは視線を合わせることすら怖かったが、心を決めた彼女はもうごまかさない。少しは動揺させられたかしらと、十五歳年上の男を、想いを篭めてじっと見つめる。
すると。ウィリアムが目を見開き、驚いたような顔をしたのは一瞬だけだった。
違う。
イヴリンが、彼の顔を見られたのが一瞬だけ。近づきすぎると逆に、人の表情など見えなくなるものだから。
「……っ」
今度はイヴリンが奪われる。呼吸ごと。
偽装と呼ぶには少々、いや、かなり気持ちが篭りすぎた口づけで。




