3. 最低な紳士
いきなり妙な小芝居に付き合わされて、イヴリンの困惑は終わらない。だが相手の芝居は続いていた。立ち上がって彼女の耳元へとささやく。他の誰にも聞こえないよう、ごく小さな声で。
「ではミス……それともレディ某かな? どちらでもいい、とりあえず君のお名前をお聞かせ願えますか、婚約者殿?」
優しそうな声と、愛おしそうにイヴリンの頬を撫でた手。撫でた手はギリギリのところで触れていなかったのだが、見た目には、本当にたったいま婚約を交わした恋人同士だ。少なくとも他の人間にはそう見えたかもしれない。
そしてイヴリンが何か返事をする前に、紳士は観衆へと向けて言い放った。老人とその連れである、使用人風の服装の男たちへ。
「さあ、あなた方も証人ですからね? 見ていたでしょう、僕の愛しい彼女が、とうとう僕との結婚に同意をしてくれたのです! あなたも証人となっていただけますね、フェザーストン将軍?」
「な、何を……そんなものは見え透いておる! どうせ芝居に決まっている。お前のような人間がそんな、どこの娘かもわからんような者といきなり結婚するなど」
「芝居? なんと失礼な、いくらあなたでも許せない。それに僕だけならともかく、彼女まで侮辱するのはやめていただきたい!」
よくそんなにまで強気になれるものだわ、とイヴリンは呆れた。だが紳士の弁舌はまだ止まらない。
「だいたい何ですか、その銃は。そんな物をこのトゥモロー卿の屋敷に持ち込んで、どうしようと言うのです? 僕を撃ち殺す? なぜそれほど愚かな真似をしようとするのですか!」
「え、偉そうな口をきくんじゃない、ランバート! わかっているんだぞ、貴様がうちの家内を誘惑したことは。間男を撃って何が悪い」
「なんと! それこそ侮辱だ、僕とこの彼女、何よりご自分の奥様に対して。ひどいと思われないんですか!?」
と、そこで再びイヴリンに矛先が行いた。彼女に目を向けた紳士は申し訳なさそうに、今度は両手で彼女の両手をつかむ。はしっと、情熱的に。
「いいかい君。将軍は何かを誤解しているだけなんだ。僕が愛しているのは君だけだと、信じてくれるね?」
「……」
「信じると言ってくれ。『はい』と」
「あ。は、はい。信じます」
「よかった。僕は愛する君さえ信じてくれるならそれでいいんだ、愛しの……」
そこで止まった。そしてイヴリンがぎょっとするほど顔を近づけてきた。ほとんど頬ずりせんばかりに。何をするのかと思えば、小さな声で「名前は?」と問われる。彼女は少し考えてから答えた。
「……こ、婚約したのですもの。どうぞ名前で呼んで下さい、イヴリンと」
「ああ、イヴリン。僕の天使はなんて素晴らしい人なんだろう。イヴリン、その名前の響きまで美しく聞こえるよ。まるで天国の調べだ」
「ま、まあ。ええと、それでわたくしはどうお呼びすれば?」
「そうだね。ではこれからはウィリアムと呼んでくれ」
「はい。ウィリアム」
「これから」も何も、「これまで」だって一切ないのだが。
おかしなことに、イヴリンにもこの妙な茶番が徐々に面白くなってきた。察するに、ウィリアムと名乗った紳士は道楽者なのだろう。さきほどの応酬と、老人の持つ銃がそれを物語る。
普段ならこんな茶番には付き合わない。だが今夜は大きなショックを受けている。平常心とはほど遠かった、と後になって自分に言い訳した。それに人助けだ。
ウィリアムはそんなイヴリンの手を引いた。この場から逃げるつもりだろう。もうどうにでもなれ、と彼女は思う。
すたすたと、老人たちの前を通り過ぎようとする。銃口こそ下げられたものの、いまだ老人の手にはマスケット銃があるのだが。
「では将軍、僕らは舞踏室へ行きますので。フィアンセになって初めての、記念のダンスを踊らないと」
「待て! 勝手に出て行くな、わしの用事はまだおわっておらんぞ。証拠があるんだ、きのう家内のところに貴様の手紙が届くのを、わしの従僕が」
「ほう? その手紙はどこに? そしてその存在の疑わしい手紙とやらには何が書かれていたのでしょうな。おっと、言わなくていいですよ。老人の妄想たくましい言いがかりを、大事な婚約者の耳に入れたくないのでね」
などと語りながら、ウィリアムは素早くイヴリンを促して部屋を出た。フェザーストン将軍の従僕たちにこう言い残して。
「そこの君たちも、ご老人の手から武器をお預かりしなさい。人を撃つならまだしも、誤って自分を撃ってしまったら大変だよ。ほらほら」
いかにも危険を忠告するように言う。言われた人々のほうでも、状況がよくつかめないのだろう。老将軍の疑いはともかく、目の前で繰り広げられた茶番のせいで、全てが喜劇のようになってしまった。
こうして謎の紳士は命の危険から脱した。相手を煙に巻きながら、勢いだけでその場の主導権を握ることによって。
わけがわからないままそれに巻き込まれたイヴリン。小さな声で頼む。
「あのう。そろそろ手を」
「もう少し。後ろで見ているかもしれない」
「はあ……今の、お芝居ですよね?」
「もちろんだとも。それとも本当に結婚したい?」
「いいえ! とんでもありません」
すばやくきっぱり拒否したイヴリンに、ウィリアムは吹き出した。一度廊下の角を曲がると、ようやく手を放してもらえた。彼はまだ笑っている。命を狙われた直後のわりにはのんきだと彼女は呆れた。どう考えても笑いごととは思えない。
「助かったよ。本当に殺されるところだった、ありがとう」
「とても怖かったのですが、正直言いますと。あれは本物の銃ですわよね?」
「将軍愛用のマスケットだと思うよ。本人よりももっと古い年代物だろうから、弾がちゃんと出るのか疑問だが。――それよりも」
トゥモロー卿の朝食室を出た二人は、話しているうちに舞踏室へと戻る扉の前にいた。するとウィリアムは、さっき放したばかりのイヴリンの手をなぜかもう一度取る。
「君、ここの舞踏会に出席してたんだろう? 今夜限りの愛しの婚約者に、本気で一曲申し込んではだめかな」
ぬけぬけと誘ってくる。この道楽者の紳士は、あんなことがあったにも関わらずまったく悪びれていないようだ。イヴリンはさらに呆れる。
「ダンスを? でも、わたくし今夜はそろそろ」
「そんなこと言わずに」
道楽貴族は、やや強引にイヴリンを連れて舞踏室へと入った。数えきれないほどの蝋燭が立てられたシャンデリアのお陰で、周囲が一気に明るくなる。おかげでイヴリンはやっとはっきりウィリアムの顔を見られた。
やや乱れたダークブラウンの髪に、同じ色の瞳。正統派というよりは少し崩れたハンサム顔だが、親しみやすく気安い雰囲気がある。イヴリンも背の高い娘だが、彼はもっと高かった。
入室したとたん周囲から「ランバート卿だ」という声が聞こえ、たしかに彼がその貴族当人であることがわかる。
とはいえ、このとんでもない紳士と踊っていいのかどうか、イヴリンは迷う。しかし。
「あれ、君、もしかして――」
ウィリアムのほうでも、寸の間止まって彼女の顔をのぞきこんだ。そして笑みを深くする。嬉しそうな笑いは、無邪気といってもいいほど。
「そうだ、思い出した。“イヴリン”か。君があの有名なイヴリン・ブラント男爵令嬢、『社交界の女王』なんだね?」
「……」
面と向かってその悪名で呼ばれ、ショックですぐに返事ができない。
知ってか知らずか、ウィリアムはイヴリンの急所を的確についた。
「まさか女王に命を助けられたとは、僕もうっかりしていた……」
まだ何か言っているウィリアム。命の恩人に、恩をあだで返していることに気付いていない。
よりによって、こんな人間には言われたくはなかった。『間男』呼ばわりされ、銃で追いかけられていたような最低な男に。そんな人間にまで揶揄されるほど自分は落ちたのかと、イヴリンは激昂する。
一気に怒りが湧いてきた。イヴリンはその手をむりやり振りほどくと、相手の目をきっと見すえてこう言い捨てた。
「最低。それが紳士のなさることですの?」
「え……なんで!? おい、ちょっと君」
振り返らなかった。そしてウィリアムは力ずくで引き留めには来なかった。イヴリンは振り返らなかったので知らないが、彼は立ち尽くしていた。何が引き金がわかっていない。
崖っぷち男爵令嬢の最悪の舞踏会は、こうして終わった。




