29.強気な宣言
ヘザーグリーン宮殿のパーティーの第三夜は仮面舞踏会だったそうだが、そこにブラント男爵令嬢の姿はなかった。両親の姿も。もちろん借りた宝石類は返した。
フェアファックス公爵との縁談を、取り逃がした男爵令嬢。もしかしたらそう言われたかもしれない。しかし。
「イヴリン! お前は、お前は……何という恥さらしなんだ! 仮にも男爵家の娘が、学校で教えるだと!? 前代未聞だぞ」
「そんなことはありませんわ、お父様。実家が没落したせいで泣く泣く働く令嬢なんて話、よく聞くではありませんか」
「わ……我が家は潰れておらん! 馬鹿者が、長女が人に使われて働いていては、弟たちの将来にも関わるんだぞ!? 嫁の来手もなくなるじゃないか」
「マシューとエドマンドがいいお嫁さんをもらえるかどうかは、本人たちに任せては? またアメリカから来てもらってもいいですし、ねえお義母様?」
「え、私? そうねえ、頼めそうな人はいるけど。まだあの子たちは子どもだし、早いわ」
「そうですわ。今から心配したって仕方がないですわよ、マシューたちについては」
だがそのブラント男爵家のロンドンの屋敷では、もうそんな、公爵との縁談がどうとか、そういうレベルではない問題が持ち上がっていた。発端である長女と両親が居間で話し合う。
宣言した。イヴリンは結婚しない。以前教えてもらっていたフランス人家庭教師ヴェラー先生が開く学校へ入り、補助教師兼生徒になる。そしていずれはそこで、正式な美術教師になる、と。
それがイヴリンの目指す将来だ。しかしこの時代の上流階級の女には制約がある。自分で働くなど言語道断、というのが常識である。許されない。醜聞とまではいかないが、恥だと思う人は多いだろう。他人に雇われている娘がいては、そのほかの姉妹の縁談に障害となってしまう。しかし。
「エセルのことなら大丈夫ですわ。学校へ行くにしても、あの子が嫁いでからにしますから。それならいいでしょう」
イヴリンはこともなげに言う。両親にはまだ話さないが、たぶん心配しなくても、アーネストは姉が働いているくらいでエセルを諦めない。そんな気がする。
「許すはずがないだろう! いいかイヴリン、フェアファックス公爵との縁談が壊れたのはもう認める。あちらもご立腹だった。だが」
「許してもらえなくても出て行くだけですわ」
今までさんざん放置していた長女の、突然の反乱。ブラント男爵の怒りは凄まじいが、イヴリンは平気だった。何を言われても平然と言い返す。
どれだけ叱ろうと意思を変えないイヴリンに、サマンサ夫人が優しく語り掛けた。
「……ねえ、イヴリン。あなたと婚約者のかたを、無理やり引き離そうとした私たちが悪かったわ。それで怒ってるのよね?」
「いいえ。実はあの婚約、わたくしもあのかたも本気じゃなかったんです。だからもうやめました」
「でも。――ねえロナルド? あなたもお認めになるんでしょう、ランバート子爵なら」
どうにか親子喧嘩を収めたいのか、それともイヴリンの暴走を止めたいのか。サマンサ夫人はこじれた部分を解き直そうと、必死だった。
「……あまり裕福ではないとお聞きしているが。お前がそれでいいなら私は構わん。それにだな、お前の相手があのかただと、私は知らなかったから。評判の悪い男がお前にちょっかいをかけているとだけ聞かされていたから」
「そうよ、イヴリン。お相手がどなたなのか、はっきり話してくれていれば私たちだって反対しなかったのに」
両親は言う。ランバート子爵、つまりいずれ公爵となる人なら結婚を許してもいいと。
「いいかイヴリン、二つにひとつだ。子爵と結婚するか、家にいるか。働くなど、お前にできるはずがないと何故わからんのだ!」
「……二つにひとつですわ、お父様」
前者がもうあり得ないことをよくわかっているイヴリンは、表情を変えずに言った。
「わたくしが学校へ行くのを認めるか、一生、家に監禁するか。どちらがお父様にとって重荷になるでしょうか?」
「……できるか、娘を監禁など! お前は私をなんだと思っているんだ。いい加減にしろ」
この父も、監禁を選ぶほどひどい人ではないのだと、そこだけイヴリンはほっとした。交渉は始まったばかりだ。長期戦になることを覚悟した。
*
親の前では断固とした態度を取ったイヴリンだが、さすがに消耗が激しかった。
「イヴリン姉様? 気分が悪いって聞きましたけれど」
「ああ……エセル」
まだ昼間だが、イヴリンが自室のベッドに入っているとエセルが来た。体調が悪いとメイドに言ったら、エセルにも伝わってしまったようだ。
「なんでもないの。しばらく寝ていれば治るわ」
「そうですか? ――お水とか、お茶とか。何か持って来ましょうか」
「大丈夫よ。……」
心配してくれるエセルに何か声をかけてあげなければと思うのだが、思いつかない。
さきほどまで居間で繰り広げていた親子喧嘩を、エセルも耳にしただろう。だからもう知っているはずだ、ウィリアムとの婚約がなくなったことを。
上掛けの下に潜り込んだまま言った。
「いいの。男の人なんて、結婚なんて。わたくしには向かないだけだわ」
「お姉様」
「でもエセルは違うわよ。あなたの旦那様になる人は、世界一幸せ者だわ。わたくしが保証する」
大嫌いなアーネストがそうなるのかと思うと、イヴリンは心底気に入らないが。ウィリアムにはああ言ったものの、邪魔しないでいられるか、自分でも自信がない。
するとエセルが言う。
「よくわからないんですが、イヴリン姉様」
「エセル?」
「喧嘩でもなさったの? ランバート子爵と」
「……」
本当によくわかっていないらしい。ここ最近イヴリンに起こりつつある変化をエセルはいまだに知らない。相談しないイヴリンも悪いが。
躾けの行き届いたエセルは、立ち聞きしてはいけないと思ったのだろうか。姉と両親の言い争いを耳に入れないようにしていたようだ。
(仕方がない。はっきり言うしかないのね)
「エセル、実は――」
「ずっと心配してるんです。なんだかお姉様、最近ずっと元気がないから」
上掛けの下にいるイヴリン。肩のところに重さを感じた。そこにエセルが、自分の頭を載せてきたとわかる。くぐもった声が聞こえた。
「お姉様、わたしに心配かけないように笑ってるけど。でも本当は、何かつらいことでもあるんじゃないかって」
「エセル」
「イヴリン姉様には心から幸せになっていただきたいんです。おねがいです、何か迷っているなら、わたしにおっしゃって? いつだってわたしは姉様の味方ですから。
だってわたし、イヴリン姉様はわたしが守りますって、亡くなったお母様と約束したんですもの」
そんな話をされたら、最近よく緩むイヴリンの涙腺は、今日もまた抑えられなくなる。
だけど、と思う。急に亡くなった母がいったいいつ、エセルにそんな話をしたのだろう。
「いつそんな話をしたの?」
「え? ええと……まだ病気になっていない頃かしら。それとも夢の中だったかも」
エセルは語る。優しく微笑む母エヴァと、どんな風に約束を交わしたのか。
「お母様が言ったんです。イヴリン姉様と、一生仲良くしてねって。困った時には助け合いなさいって。守ってあげてって」
「そう。知らなかったわ」
二人の娘のうち、どうして妹にだけそんな風に言い残したのか、不思議に思う。夢の可能性もあるとはいえ。
「イヴリン姉様は、何も言わなくてもわたしを守るだろうから」
「え?」
「だからお母様はわたしにだけそう言うんですって。――ねえ、だから。イヴリン姉様、話して下さい。何がそんなにつらいの? わたしにできることはない?」
そっと寄り添うエセルの重さを肩で感じる。やはりこの妹は昔と変わらない。
たまらなかった。もしかしたら、この子の幸せを奪っていたのは自分かもしれないと思うと。
「エセルっ」
「お姉様?」
パっといきなり起き上がった。上掛けを払ったイヴリンはエセルを抱き締める。情けないと思った。三つも下の妹に慰められるなんて、と。
(だから……泣くのは今日で最後だわ。二度と泣かない)
「そう、わたくし、失恋したみたい」
「お姉様」
「好きだったんだわ。でも最初から遅かった。今さら気づいたって仕方がない、叶わない恋だったの」
エセルにぎゅっとすがって、泣きながら笑った。
背中を叩く手があった。なんとか慰めようと、エセルが一生懸命考えているのがわかる。
「大丈夫よ、エセル」
「お姉様、無理しないで」
「平気よ、だってわたくしは――」
まさか、あの悪名をこんな風に誇らしく名乗ることになるとは夢にも思わない。奇妙に思いながらも、イヴリンは力強く宣言した。
「社交界の女王、なんですもの」
*
そして。
公爵邸からロンドンに帰宅して数日たったある日のこと。そろそろブラント男爵が、本拠地である田舎の所領に帰ろうかと相談し始めたころのこと。
「手紙? わたくしに」
「はい。イヴリンお嬢様へ」
給仕の青年が運んできたのは銀のお盆だった。一通の手紙。白い封筒を裏返すと、封蝋はあの紋章だった。
「!」
すぐに本人へと返したウィリアムの印章指輪。それで封をされた手紙を受け取ったイヴリンは驚く。まだ何か用があるのだろうかと。
「……ううん」
やっと気づく。用があるのはイヴリンのほうだ。
時間を割き、エセルのために動いてくれた人。人を紹介し、イヴリンを連れ出し、色々なところに連れて行ってくれた。彼なりに助言もくれた。不幸な結婚からも助け出してくれた。
たとえ叶わぬ想いでも、これまでの共同計画について、感謝したいと思っていた。イヴリンは、まだきちんとウィリアムに礼を言っていない。喧嘩腰のあれが最後の会話では、悔いが残る。
だから手紙を開いた。すると。
「えっ、プレゼント……わたくしに?」
ウィリアムの手紙の内容は、イヴリンに贈り物があるということ。手紙と同時に送るから、ぜひ受け取ってほしいと書いている。
「……! ねえ、誰か。ランバート子爵から荷物が届いていない?」
居間を出てさっきの給仕を追いかけると、それはちょうど玄関に届いたところだった。やけに大きい。そして。
「まさか」
大きな荷物は茶色い油紙で梱包されていた。ふたりがかりで運び入れられたが、家具にしては薄い、板状の物体だ。
「お嬢様!? ここで開けては」
「これは」
イヴリンは待ちきれず、玄関先で梱包を破ってしまう。その中にあったのは。




