28.真剣な助言
朝から男性の部屋を訪ねるなど、本来なら淑女にあるまじき行動だ。しかしイヴリンはウィリアムの部屋に来た。問い詰めてくる父親の相手をしている場合ではないと思った。
「お、オコナーに。偶然見つけて」
「ああ。おはよう」
言い訳しようとしたイヴリンだが、何事もなかったかのように爽やかな挨拶を返される。やりにくい。
「おはようございます。入っても?」
「どうぞ、イヴリン。君は婚約者だろう、まだ」
「……」
返すと言ったウィリアムの印章指輪。まだ外せておらず、イヴリンの薬指にある。
「石鹸水でもつければ取れるんじゃないか。持ってこよう」
「待って」
洗面台の水差しを手に取ろうとしたウィリアムを、思わず止めてしまった。だが何を言えばいいのかわからない。さっきまでは質問でいっぱいだったのに。
(知らなかったなんて言ったら……驚くでしょうね。笑うかも)
偽装の婚約なのだからと、あえてウィリアムのことを調べずにいた。しかし貴族年鑑を見るくらいはしておくべきだった。そうすれば、彼が公爵家の跡取りだとわかっただろうに。
「自分で外しますわ。石鹸とお水、お借りしても?」
「……どうぞ」
洗面器に入れた水に石鹸を落とし、その水で手を洗う。無言で作業していたら、ウィリアムが言った。
「昨日。あれから」
「あれから?」
「君が行ってから。――実はあのあと、トラヴィス卿に呼び止められたんだ。君も知ってるね?」
仇敵アーネストのことなど完全に頭から消し去っていたイヴリンは、一瞬理解できなかった。
「僕が君と一緒にいるのを見たそうだ。何の関係かと訊かれたから、ありのままを話したら、ずいぶんと熱心に尋ねられた」
「あ」
「エセルについて」
ウィリアムの話し方は意味深だった。その目に責める色があるのを悟る。
「君ね。エセルにそういう相手がいるなら、どうしてそれを早く言わないんだ」
「違います」
「違わないだろう。まだるっこしいから、好きなのかとはっきり訊き返したら、正直に言ったぞ、トラヴィス卿は。社交界デビューしたらすぐにも求婚するつもりだそうだ。そのまた話が長々と続いてね、お陰で僕もここに泊まる羽目になった」
「でも、エセルは別に。あのかたのことなんて」
「覚えてなくても諦めないそうだ。自分の花嫁はエセルだと、十二歳から決めているらしい。たいした執念だな」
ウィリアムの責める口調に、呆れた響きも混ざった。
「なんで邪魔するんだ、イヴリン。悪い人間じゃなさそうだし、爵位もある。財産状況までは知らないが、誠意はあるじゃないか。十年もエセルを待っていたんだろう。君の大事な妹を任せるのに、これ以上の相手がいるのか?」
「だって。偏執狂じゃありませんか、十年も。それにエセルは子どもだったんです、今はどうか」
「彼も子どもだったろう、その頃は。会わせてもみないで君が決めるのか? それは本当にエセルのためなのか」
“エセルのため”。いつだってイヴリンはそうしてきた。
だが今は、同じ言葉が彼女を責める。
アーネストとの間を裂いているイヴリンの行動は本当にエセルのためなのか。会わせる機会すら奪っている。自分が大嫌いという理由で。
イヴリンはどうしてアーネストが大嫌いなのか。
洗面器に映った、自分の顔に向けて言った。
「あの人は……きっと本当にエセルを奪ってしまうわ。わたくしから」
「……?」
「エセルはあの人に夢中になるに決まってる! わたくしのことを、忘れて……一番にするの。わたくしを置いて行ってしまう、完全に」
それが、イヴリンがアーネストとエセルの間を裂きたい理由だ。
誰より大切な妹。幸せになってほしいと心から願っている。
だが一方で、強すぎる執着を抱く姉はこうも思っていた。
――どこのどんな男と結婚しても、エセルはいつまでも自分の妹。姉妹の絆が一番で、心にかけるのは、一生お互いだけ。
妹を溺愛する姉の、心底にある願い。
エセルには幸福な結婚を。でも自分との絆も大事にしてほしい。姉として、一番慕っていてほしい。そのためには、エセルの心を完全に奪う夫はいらない。そこそこの愛情を向けていればいい。
しかし姉の直感は、アーネストが危険だと告げた。出会った当時からわかった。この黒髪の少年は、いつかイヴリンからエセルを完全に奪ってしまう人間だと。
手は止まっていた。イヴリンの目からこぼれた涙だけが、洗面器の水に波紋をつくる。
「……イヴリン」
「何も言わないで。それ以上」
肩に手が置かれたのを感じた。だが顔は見れない。
ウィリアムは笑っているのだろうか。強すぎる執着を妹に抱くイヴリンを。いや、軽蔑しているかもしれない。意図的にアーネストを遠ざけたのだから。エセルにとって、真の良縁かもしれない相手を。
ウィリアムは本当に何も言わなくなった。無言がしばらくその場を支配する。
(……本当に諦めなくてはいけないのは)
エセルのためなら自分の幸福は顧みないつもりだった。だが、本当に諦めなくてはいけないのは、この絆。イヴリンは手放さなくてはいけない。何より大事なエセルを。
それが真に、“エセルのため”に、イヴリンができること。
何度か深く息をつき、それでようやく涙は止まった。
「わかりました。――わたくしから謝りますわ、トラヴィス卿に。エセルを紹介させて下さいって」
泣いたままの顔でウィリアムを見上げた。まだ涙をいっぱいに浮かべた瞳で。
「……!?」
「なんだ君は」
なんだと尋ねる彼のほうが謎だ。少なくともイヴリンには。
最愛の妹を譲る決心をした自分が、どれだけ切なく頼りない表情を浮かべたか、彼女はわかっていない。それが相手に及ぼす影響も。
頭を抱え込まれ、その胸に導かれる。泣くイヴリンを引き寄せたウィリアムは、ぐっと己の腕の中に抱えた。泣くなとばかりに頭を乱暴に撫でられた。
涙による興奮は収まっていたイヴリンだが、別の何かに引き込まれる。感情の渦中へ。
この人は何をしているのだろうとは思うが、動けない。
(いやだ、こんなの)
離れなければと思うのにできない。よりによってこの人には慰められたくない。マダムキラーで軽薄で。きっと、この行動も反射に違いない。泣く女を抱き締めるなど、ウィリアムにとっては朝飯前の行為なのだから。
それなのに抗えない自分が嫌だ。ずっとこうしていたいと思っている自分が。
しかし無意味だということもわかっている。
自分でも信じられないほど弱々しい声で言った。
「ぎ、偽装の……」
「……ああ。そうだったね」
ごめん、とつぶやいたウィリアム。だがなぜかまだ、彼女を放さない。ふうとひとつ深いため息をつくと、こう言った。優しく頭をぽんぽんと叩きながら。
「こう見えて、僕はけっこう君が気に入った。だから真剣に探した」
「……? ええ、エセルの相手を真剣に探してくれたって、わたくしもわかって」
「違う」
と、そこでウィリアムはようやくイヴリンを放す。身を離し、今度は両肩つかんで厳かに告げた。
「実は最初からそのつもりだった。イヴリン、エセルがいなくなるのが淋しいなら、君も結婚すればいいんだ。ジェフリーと」
「……は!?」
「聞いてくれ、これは真剣な助言なんだ。爵位はなくとも、誠意のある男がいいんだろう? 本当は、君がジェフリーと結婚すればいいと思って紹介したんだ。僕が考えうる中で、最高の良縁だから」
どうして――そうなるのか。イヴリンは理解できない。
「し、知ってたんですか? 彼がわたくしに、その」
「ああ。ジェフリーが何度か君に会ったという話は聞いた。律儀なやつでね、報告しに来ていた。僕から君を奪うつもりだと。勝手にしろと怒っておいたよ、そうすればますます本気になるはずだ」
「な」
彼女は言葉もない。
ひどいと思った。
(最初からそのつもりだった?)
イヴリンはジェフリー・ドレイクと結婚すればいい。それがウィリアムの計画だったそうだ。彼の中では、どこまで行っても二人の関係は偽装でしかないらしい。
またも泣きそうになるが、今度のは理由がまるで違う。そして、この理由で彼の前では泣きたくない。泣きつくような真似は意地でもしない。
代わりに笑った。必死の努力で笑みを浮かべる。
「お世話になりました、色々と」
「おい?」
「わたくしにまでいいお話を下さってありがたいんですけれど、生憎考えていませんの。わたくし、実は」
そこでやっと、イヴリンの指から指輪が離れる。ボークラーク公爵家の紋章。その歴史と地位は価値あるものだが、今の彼女には忌々しいだけだ。障害、と言ってもいい。
「実は以前ついていた先生から、お誘いを受けていますの。学校で教えないかって、美術を」
「学校? どういうことだ」
「エセルに置いて行かれたからって、家でぼんやりしているわけにもいきませんから。
今までお世話になりました、ランバート卿。エセルのことを解決してくれてありがとう、お陰でわたくしも、一生結婚せずにいられます! あなた以外の――」
捨て台詞とともに投げつけようかと思ったが、さすがにできなかった。ただ、洗面器の横に置いた。
肩に載るウィリアムの手を振りほどいたイヴリンは、指輪を置くと、すぐに走って部屋を出て行った。淑女らしさを失った、乱れた足取りだった。
「……」
しかし残された彼が、ただただ茫然としていたことは、イヴリンも知らない。




