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27.意外な正体

 それでも大人しくついて行った。強引に公爵の前から連れ去られたイヴリンだが、肩を抱く手から離れる気には、何故かなれない。


 そしてつい、指輪に触れてしまう。たった今、イヴリンの薬指に嵌ったばかりの指輪を。


(馬鹿みたい)


 ウィリアムが選んだのは舞踏室ではなく、廊下へと通じる扉だった。ぽつんぽつんと灯りが灯るそこを、しばらく無言で行く。


 自分を馬鹿みたいだと、イヴリンは思った。偽装偽装と言いながら、こうなってしまった自分自身に。本気になるなと忠告されていた。こんなことは「あり得ない」はずだった。


 それなのに嬉しい。その顔を見れただけで、泣きそうになるぐらい嬉しかった。声が聞けるのが嬉しい。ここに現れたのが、並んで歩く相手が彼で嬉しい。今も、我慢していないと頬が緩みそうになってしまう。


 すると彼が言った。


「……これでも怒っていたんだが」

「え?」

「まさか僕の知らないところで別の男を踊ろうとするとは。怒って当然だろう」

「……」


 本気でそう言っているの、と思わず足を止めてまじまじと見つめる。偽装ではなかったのだろうか、ウィリアムにとっても。


「と言ったらどうする?」


 しかし振り返ったウィリアムは笑っていた。そこには苦いものが含まれているようだが。


「まさか君が孤立した理由が、ああいうこととはね。すまないイヴリン、夢にも思わなかった」

「あ……そのことですか。いえ別に。あの方に嫌われていたのはわたくしでしょう。納得いかないですけれど、あなたのせいでは」

「だが、僕が首を突っ込まなければこんな危ない目には。いや、本当に申し訳ない」

「危ない?」


 何か危険などあっただろうかと首を傾げる。アリスの企みで、縁談が降って湧いただけだ。


「僕が言うことじゃないが、フェアファックス公爵はそこら中に愛人がいるぞ。ロイヤルオペラハウスにも連れて来ていただろう、ひとり」

「は」

「あの女好き、若い正妻を娶ったぐらいで治ると思えないし、今までも治らなかった。泣かされるとわかっていたら止めないわけにもいかないじゃないか。あの人にだけは呼ばれたくないんだ、道楽者とは」


 徐々に理解する。


「あのかた、あなたと同類なんですか!?」

「同類……否定はできないが。僕は少なくとも、同時に複数とは……あ、いや」

「それに……止めるため? ウィリアム、まさかあなた、止めるために」


 一度期待を抱いたイヴリンの心は、ただちに突き落とされた。


「いやいや、あいつと結婚するぐらいなら、僕のほうがましだろうと。だからこうして道化を買って出て」

「道化? 結局偽装ではありませんか。また偽装で求婚したの? 信じられない、もういい加減にして」


 こんな指輪、とすぐに外そうとした。だが外れない。思いのほかがっちり嵌っている。

 くっ、と悪戦苦闘するイヴリンを見かねたのか、ウィリアムが一言。


「無理して外すな。痛そうだ」

「……! 明日返しますから! 助けてくれてありがとうございました、おやすみなさい!」


 またも茶番を演じたらしいウィリアムに、イヴリンはとうとう怒る。憤然と言い捨ててその場から去った。



 怒る立場ではないと、気がついたのは翌日だ。


 なかなか外れてくれない二度目の婚約指輪と、イヴリンは悪戦苦闘を続けている。印章指輪は持ち主の身分称号を象徴する物であり、ただ宝石がついただけの高級品とはわけが違う。偽装の婚約者が、いつまでも持ち続けていいものではない。


(本人の言う通り、助けてくれたんでしょうからね)


 一晩悩んで冷静になると、少しは理解できた。


 公爵の、『君は私の行動に一切口を出すことは許さない。何を見ても聞いても知らぬ振りを通せ』という言葉。あれは自分に何人愛人がいようが知らぬ振りをしろという意味だったのだろう。それこそ『夫が毎晩、どこのベッドで眠っているかわからない』状態だ。


 そんな結婚は、財産があっても不幸だろう。だからウィリアムは心配して、イヴリンを止めに来てくれたわけだ。つまり、あれが彼なりの親切心だった。


「はあ」


 そうと気づいても、イヴリンの気分はまったく晴れないが。


 アリスの他の言葉を覚えている。詳しいことはわからないが、ウィリアムとアリスの間には、何か、特別な絆があるようだ。アリスに一生捧げているからこそ、彼は今まで独身だったらしい。どれほど強い想いを抱いてそうしてきたのか、それを考える。


「……」


 親切心で嵌めてくれたらしい指輪。こんなことをされても惨めなだけだ。好き者の公爵からは救ってくれても、肝心なものはくれない人。こんなはずじゃなかったと思っても、沈んでいく気持ちは否定できない。


「起きたか、イヴリン。朝食へ向かうぞ」

「あ……お父様」


 イヴリンは現実に引き戻される。続き間の別の寝室にいたブラント男爵が、妻と娘の部屋に顔を出したため。


 夜も更けた時刻だったので、舞踏会から抜け出した後もそのまま公爵の宮殿に残って泊まっていた。だが、昨日の出来事を思い出すと、もう帰ったほうがいい気がした。追い出される前に。


(それに……そうだわ)


 公爵からの求婚を断ることは絶対に許さないと、この父は言っていたのだった。まずい。どう説明したらいいのだろう。恐らくほぼ破談になっている。割って入った偽装婚約者のせいで。

 

 まだ何も知らされていないのか、ブラント男爵はイヴリンを問い詰めない。だが時間の問題だ。いずれ叱られるのならば、自分で言ったほうが早い。


「お父様」


 心を決めたイヴリンは父親に向き直った。正直に謝ろうと。

 

(ん……? 謝る? え、でも、そんな何人も愛人がいるような人に嫁がせるなんて)


 どうなの、と気づく。ひどいのではないだろうか、親として。素直な気持ちは引っ込んだ。そして無意識に指輪に触れる。昨日たしかに一度はイヴリンを守ってくれたウィリアムの指輪は、横暴な父親からも守ってくれるだろうか。


 すると。


「どうしたんだ? その指輪は」

「あ……いえ。これは」

「まさか……でかした、イヴリン! 正式に婚約したんだな?」


 舞踏会を好まないブラント男爵ロナルドは、昨夜はヘザーグリーン宮殿の書斎で、同様にダンスを好まない紳士たちと飲んでいた。長女が何をしているかひとつも知らず。だからロナルドの目には、イヴリンの指に嵌った指輪は、降って湧いた縁談が成立した証にしか見えなかった。フェアファックス公爵との。


 破顔した父の勘違いをイヴリンは察する。


「違いますわ、お父様。実はフェアファックス公爵とのお話は……」

「うん……? その紋章は」


 直ちに否定しようとしたイヴリンだか、先にロナルドが気づいた。その指輪が、ただの『マダム専門の遊び人風情』が持ち得る代物ではないことを。


「ボークラーク公爵家の紋章じゃないか!」

「は」

「いったいどこからそんな物が出てきたんだ?」

「どこから」


 イヴリンの偽装婚約者、ランバート子爵の手から。


「え、ええ!?」

「どういうことだイヴリン。昨日はお前、フェアファックス公爵と婚約したはずじゃないか。それがどうして、あの貧乏公爵家の指輪を持っている?」



 17世紀の英国王チャールズ二世には大勢の愛人と、彼女たちとの間にできた庶子がこれまた大勢いた。陽気な王様(メリーモナーク)と呼ばれたチャールズ二世は、その庶子たちの処遇にも気を遣った。父王によって庶子たちは高位の爵位と所領を与えられ、子孫はその後のイギリス貴族社会にしっかり根を下ろしていくこととなる。


 そんな理由で公爵位を乱発したチャールズ二世の、庶子の家系のひとつ。

 それがボークラーク公爵であり、その公爵がもうひとつ保持する称号がランバート子爵。


 複数の称号を持つ貴族はよくいる。そして公爵|(と侯爵と伯爵)の跡取り息子は、父親が持つ第二称号を名目爵位(カートシータイトル)として名乗ることができる。


 だからウィリアムはランバート子爵と呼ばれる。長男で後継者でもある彼は父親のボークラーク公爵の第二称号を名乗り、いずれ公爵位も相続することとなるだろう。不本意だとしても。


 昨夜は慌ててこのヘザーグリーンに急行したウィリアムは、翌朝もまだいた。


「――ああ、来たのかオコナー。朝から悪いな」

「なんでもないことでございます。朝も暗いうちから電報でお呼び出しいただき誠に感謝いたします」

「……悪かったよ、本当に」


 雇い主に着替えを持ってきたオコナーは、慇懃無礼に言葉を返す。従僕にも何も言わずいきなり舞踏会へと乗り込んだウィリアムは、昨日は本当に後先を考えていなかった。「これでも怒っていたんだが」というのは、けっこう本気だ。彼女に声をかけるまでには、怒る筋合いではないと思い出していたが。そういえば偽装だったな、と。


 昨夜は宮殿から追い出されてもおかしくない状況だったが、乗って来た辻馬車は先に帰ってしまっていた。ここはロンドンから離れた場所で、周囲には宿もなかった。仕方がないのでそのまま泊めてもらっている。


 いずれ自分と並び立つ地位になるウィリアムを、フェアファックス公爵も無体には扱えない。財政状況に雲泥の差があるとはいえ、形式的にはボークラーク家のほうが席次は上である。しかしそれでも、気まずい乱入者はすぐに立ち去るべきだろう。


「着替えたらすぐに出る」

「イヴリンお嬢様はどうなさるので?」

「……なんで知ってるんだ? 彼女がここにいると」

「いえ、何も存じませんでした」


 オコナーは澄ました顔で答えてみせた。

 罠をかけられたと気づき、ウィリアムはばつの悪い顔になった。


「何も言うなよ」

「口出ししようとしていると? 滅相もない。ただ、せっかくの贈り物をお渡しできずに終わってしまっては、私めもやりきれないと思っているだけでして」

「それだけ言えば充分だろうな。――そうだな、やりきれない。せっかく」


 着替えを持ってきたオコナーは、今度はテーブルにあった朝食のお盆を持ち上げる。しゃべりかけた主を置いて、部屋から出て行った。


「……」


 従僕に去られたウィリアムを、やりきれない思いが襲う。


 昨夜は他に気を取られて流したが、アリスの態度はショックだった。ウィリアムのほうでは確かにそのつもりだった。大事な恩人であり初恋の人に、人生捧げてもいいつもりだった。


 しかし。


「……自分のことしか考えてないんだな」


 優しい少女だったアリス。少年だったウィリアムは確かにそのアリスへは心を捧げたが、昨日のセジウィック伯爵夫人にはどうだろう。気に入らないからとイヴリンを孤立させ、不幸な結婚に陥れようとしていたあの貴婦人に、同じようにできるだろうか。


 なかなか認められないが、苦いものがある。苦い失望感だ。

 そうだ。

 ウィリアムはアリスを見損なった。失望した。人はみな自分が可愛い。誰でもそうだが、アリスは違うと思っていた。意外な正体を見せられてしまった。もちろん恩人として感謝はしているが、彼女を見る目は変わってしまった。


「美化しすぎていたのかもな。もういいか」


 幻想を追っていた過ぎないと、やっと気づいた。ちょうど、あの指輪も手放したところだ。本人も南アフリカに行ってしまう。忘れるにはいい頃合いだろう。


 気分転換に、またロンドンを離れようか。買い付けの旅にでも出ようかと、そう考える。


「もうひとつの失望も、避けられないだろうからな……」


 彼が昨夜知ったことはもうひとつある。イヴリンと別れた後、ウィリアムに声をかける人がいた。そこで知った事実には驚いたが、もしかしたら、これであの問題は解決するのではないかと思った。


 『例の問題』は解決するかもしれない。しかし何故かウィリアムの気持ちは晴れない。気が重い。

 だから淋しくつぶやいたのだ。

 そこへ部屋の扉が叩かれる。


「オコナー? 悪い、まだ着替えていない――」


 だが、戸口にいたのはオコナーではなかった。

 

 顔が赤いような、しかし困惑しているような。どんな顔をするか迷っているような、複雑な表情を浮かべるブラント男爵令嬢がそこにいた。




こんな注釈はいらんと思いますが。

モデルにしている実在の公爵家はありますが、ただのモデルです。

話の中で書かれていることはほとんどが創作です。(当たり前)


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