26.強引な邪魔
父親との不仲が原因で実家からの援助や財産分与を受けていないウィリアムは、実はこれで意外と慎ましい生活を送っていた。
非公式だが王室の美術顧問という役割を自分で築いてきた彼には、他の貴族の名家や富豪からも似たような依頼が舞い込む。その謝礼でなんとかやっているようなものだ。
だから急に大金が必要な状況になると、少し躊躇する。だがこの時のウィリアムには、どうしても手に入れたい物があった。そのために偽装婚約者に貸した指輪を返してもらったのだ。
その時ウィリアムがいたのは、ロンドンにある宝石商の店。
「――いいでしょう! その金額でお引き取りいたします」
「悪いね、いきなり」
「いえいえ、御前様とはずっと良い付き合いをお願いしたいですからな。ご用に足りて、こちらこそ良かった」
見事な色味のエメラルドはそれだけで一財産だ。イヴリンに貸していた指輪の石は、カットも良い。台から外して加工すれば指輪としてだけではなく、他の用途にも使える。
ランバート子爵から指輪を買った宝石商は、目にはめたルーペの奥から彼をじっと見る。
「なんだ、レヴィット。何か用でも?」
「いえ……御前がこれを手放すとは。何かございましたのかと」
「ああ。別に、良い出物があったからね。僕の趣味、知っているだろう」
「ほう。よほどの作品なのでしょうな、御前がこの指輪と引き換えにしてもよいと思われるのですから」
ウィリアムは苦笑した。
十数年ほど前、どうしてもこのエメラルドが欲しいとレヴィットに頼んだ。初恋の人、アリスの瞳と同じ色の石を。当時すでにセジウィック伯爵家との縁談が決まっていた彼女に、贈るつもりで買った。
だが渡さなかった。アリスを他の男に渡すまいと、無理やりさらうことはついにできなかった。見せることすらしていない。
それでも指輪を手元に置き続けていた、長年の自分の感傷。しかしランバート子爵はやっとそれを手放すことにした。宝石商レヴィットは、その決意について言ったのだ。
「実を申しますと。もしかしたら、これを買って下さる方がいるかもしれません」
「へえ? もう客に心当たりがついていたのか、さすがはレヴィット。もっと高くつければよかった。しかし、まさかアリスじゃないだろうな?」
「いえいえ、別ですよ。さっき午前中にお会いしたばかりなのですが、よく似た色合いの瞳をお持ちでした。きっとお似合いになるでしょう」
「……目が緑なのか?」
ウィリアムが知っている中では、このエメラルドのように美しい稀な瞳の持ち主はたった二人だ。まだ他にもいたのかと、不思議に思う。
「ええ。非常に美しいお嬢様です。金髪の」
「金髪の」
「もうすぐ嫁がれるそうですから、お相手の方に勧めてみるつもりです。実はこの後もお会いする予定でして。舞踏会用に装身具を貸してくれと頼まれていましてな」
その時のレヴィットは、自分の気持ちにとても正直だった。にんまり笑った宝石商は、けた違いに裕福なあの公爵がいったいいくらでこの指輪を買うだろうか期待し、ほくそ笑んだのだ。
対するウィリアム。一瞬考えた後、いま思い出した、という表情でその名を出す。かまをかけた。
「――ああ! レヴィット、お前が言うのはブラント男爵令嬢のことか?」
「おや。ご存知でしたか、さすがはランバート子爵」
「ほう。ではその舞踏会とやらはどこで?」
「御前は行かれないので? ほら恒例の、ヘザーグリーンでのものですよ。フェアファックス公爵の」
エメラルドがつい先日までその男爵令嬢の指にはまっていたとは知らないレヴィットは、もちろん偽装婚約のことなど何も知らなかった。その相手が目の前にいるとも。
「それにしても幸運なお嬢さんですなあ。あのヘザーグリーンに迎えられるのですから!」
だから、レヴィットにはわからなかった。自分がそう言った途端、顔色を変えた貴族にも、そのあと彼が、慌てたように店を出て行った意味も。
*
ああ、とイヴリンは声にならない嘆息をもらす。
久しぶりに、いや昨日以来だ。昨日イヴリンを泣かせたウィリアムが、これほど唐突に現れるとは想像もしない。夢ではないかとも思われる。
だがウィリアムは確かにこの場にいた。どうしてか、非常に慌てた様子でイヴリンの前に現れた。
言葉もないイヴリンに、彼はもう一度言う。全力疾走してきたせいで切れた息を整え、居住まいを正してから。
「それはないんじゃないかな」
「あ。これは、その」
「おいで、イヴリン」
イヴリンの無意識は、とっくの昔にフェアファックス公爵の腕から手を離させていた。そして離した手を、そのままウィリアムが差し出す手に重ねようとする。
しかし――本当に重ねる前に思い出した。
(……偽装だわ)
ウィリアムが何を考えてこの場に現れたか知らないが、自分たちの婚約は偽装だ。本気ではない。そしてその偽装を通す理由は、もうないのではないか。イヴリンもそうだが、ウィリアムにも。道楽者の子爵が、政財界に手づるの多い公爵から、その鼻先で女性を奪う。そんな真似をして、ウィリアムこそ大丈夫なのか。
だが、止まったイヴリンの手を奪ったのも彼のほう。ランバート子爵はブラント男爵令嬢の手を取ると、自分のほうに引き寄せた。思いのほか強引に。
「貴様、ランバート。無礼な」
「無礼はそちらでしょう。――彼女は僕の婚約者ですよ?」
つきり、とイヴリンの胸が痛む。ウィリアムの言葉に。
同時に涙腺も痛くなったが、必死にこらえる。
無言でにらむ公爵と平然と笑う子爵。泣きそうな男爵令嬢。だが、そんな三者はそろそろ人目を集めすぎている。音楽が始まってもワルツを始めようとしない公爵に、周囲の好奇の目が集まった。
まわりの様子に気がついたフェアファックス公爵は、さすがに一瞬ばつの悪い表情を浮かべる。忌々しそうに目の前の両者をにらむと、あごでしゃくってうながした。先ほど通って来たばかりの扉へと。
結局さっきの小部屋に戻る。すでにアーネストはいなかったが、もう一人は残っていた。
椅子に座って小さなサンドイッチをつまんでいたアリスは、入って来たウィリアムの姿に目を丸くする。
「ウィリアム……! どうしてここに」
「アリス、君もいたのか! 驚いた……いや、ちょっと」
アリスの姿に驚いたのはウィリアムも同じらしいが、すぐに横のイヴリンに目を向ける。そして丁重に頼んだ。かつての想い人へ。
「悪いが話があるんだ。少し三人だけにしてくれないか」
「いやよ」
「え?」
座っていたアリスは直ちに立ち上がった。
三人を眺める伯爵夫人。だがアリスがにらむのは、この伯爵夫人にとって、最も気に入らない光景だ。
「ウィリアム、どうしてここへ来たの?」
「どうしてって。それは」
ひたすら戸惑うウィリアムではなく、イヴリンが気がついた。その美しい顔を歪めたアリスが注視するのは、ちょうど自分とウィリアムの間の辺り。繋いだ手と手である。
「まさか止めに来たんじゃないわよね? そんな娘、あなたにとってはどうでもいい女でしょう、ウィリアム!」
「アリス?」
「だめよ、他に目を向けないで。そんなこと許さないわ。ウィリアム、あなたはわたしのものなんだから……!」
予想外の人間からの予想外の言葉に、公爵とイヴリンは絶句するしかない。
ただし、彼だけは理解した。確かに今までの人生を、他と遊びながらだったとはいえ、アリスだけに捧げてきたウィリアムには、何の話か瞬時に理解できた。
「もしかして……君のしわざか」
「あなたはわたしの騎士様でしょう? そんな小娘なんかに心を移さないで」
「そのためだけに? そのためだけに、イヴリンを公爵へ」
もう隣にイヴリンがいることには頓着していない。アリスがウィリアムへと詰め寄る。
美貌の伯爵夫人アリスが望むのは、完璧な幸福のかたちを描いた人生だ。地位も財産もある夫を得て、そして子どもにも恵まれた。社交界では一目置かれ、少女たちからは羨望のまなざしでもって仰がれる。それだけでも充分貴婦人としては幸福だが、足りない。彼女にはウィリアムも必要だ。
「わたしが欲しいのは完璧な幸せなの。そのために必要なのは、完璧な結婚生活と、わたしのためなら人生捧げて尽くしてくれる騎士様だわ。だからウィリアム、結婚なんかしちゃだめ。
あなたいつだって、わたしの望みは叶えてくれたじゃない! これからもずっとそうして」
恩人であり初恋の人として、ウィリアムが自分を崇めているのはアリスも知っていた。そして彼女の側でも、一生それを続けて欲しいと願っている。一生プラトニックな愛を捧げてくれる、騎士のような存在を望んでいる。少女の頃の感覚のまま。
それが自分にとっての正義であるアリスは、もうなりふり構わなかった。
「だって、こんな小娘のどこがいいの!? わたしからあなたを奪うほどの子じゃないわ」
アリスは思い出す。インドから帰ってきたかつての社交界の華、セジウィック伯爵夫人。すぐにも再び社交界の中心として返り咲けるはずだったのに、そこにはすでに他の娘がいた。美貌で評判のブラント男爵令嬢は、直接会う前からアリスの気に入らない相手だった。そしてイヴリンは覚えていないが、実は前にも会っている。
「生意気にも、わたしを見下ろすのよ!? こんな大女」
そして、大嫌いになった。小柄な自分に比べ、すらりと背の高いイヴリンが。
背丈も美人の条件として数えるのなら、確かにイヴリンはアリスよりも華があった。人目を集める、完璧な美人だった。
アリスがイヴリンの何を気に入らないかと言えば、そこだった。初めて会った日に、自分を見下ろしたイヴリン。実際の身長差があるのだから仕方がないのだが、それでも気に入らなかった。だからアリスは、あの手この手を使ってイヴリンをこき下ろしてきた。今夜も同じ。示し合わせたように白のドレスで揃えた令嬢たちもそのひとつ。
だが、何の皮肉だろう。その生意気な小娘が、よりによってアリスの“騎士様”と婚約したという。こんなことが許されるはずがないと思った。アリスの完璧な幸福は守られなければならない。
「許さないわ。よりによってこの女があなたを奪うなんて」
「アリス?」
「社交界から追放してやる。今度はあんな悪名だけで済ませてあげない、どこのパーティーにも顔を出せないようにしてやるから! そう、あなたの大事な妹もね、ミス・イヴリン!」
ここまであっけに取られてアリスを見ていたイヴリンだが、そこだけは聞き捨てならなかった。相手が自分を猛烈に嫌っているのはわかったが、心に激情を抱くのはアリスだけではない。
「なんですって?」
「こんな手は放しなさい、今すぐに」
「わたくしにあんな悪名つけた……いいえ、そんなのどうでもいい! エセルまで」
社交界の女王という悪名をつけて、イヴリンの評判を落としたのは誰か。
「みんながわたくしを嫌うようになったのはあなたのせい? それでエセルまでこんな目に遭わせる気なの、アリスさ……伯爵夫人!」
ウィリアムと繋いだイヴリンの手を、無理やりもぎ離そうとしているアリス。逆にその手をイヴリンが掴む。アリスの手を掴んで、投げ捨てるように振りほどいた。
「伯爵夫人、許さないのはわたくしのほうですわ」
「何を生意気に、成金の娘の分際で」
「エセルに何かしたら許さない。――こんなものじゃ済まさないから!」
そう言うとイヴリンは、素早くその手をひらめかせた。華奢な伯爵夫人の頬を打つかと思われたイヴリンの平手だが、その手前で危うく止まる。
「こらこら」
「! どうして」
「ウィリアム」
イヴリンの手首を掴んだのはウィリアムだ。どうして、とショックを受けたのがイヴリン。庇われたことに喜びの表情を浮かべたのがアリス。
アリスの矛先がイヴリンへと向かった時点で、置き去りにされてしまった彼。女の闘いへとどうにか割って入ったウィリアムは、掴んだ手を引き寄せる。何を思ったか、自分の口元へ。
手の甲に柔らかいものが当たった。
イヴリンは呆れた。この期に及んでもなお、プレイボーイめいた真似ができる彼に。
「君がそんな真似をするのは見たくない。それに、淑女は直接平手打ちするものじゃない。言葉で打たないと」
「え?」
「やれやれ、喧嘩のやり方まで教えないといけないのか。貴族流の」
そう言うウィリアムが視線を向けたのは、イヴリンでもなければ、ウィリアムの行動に顔色を変えたアリスでもない。公爵でもない。
「セジウィック」
「……ランバート」
いつの間にかその場の人間は増えていた。ウィリアムが見たのは、妻を探しに来た夫だ。
そのセジウィック伯爵へと告げた。あっけらかんと。
「いま話していいか、セジウィック。このまえ誘われた件なんだが、やっぱり断る」
「この前?」
「狐狩りだよ。実を言うと元から好きじゃないんだ、残酷だからね」
「ウィリアム!? どうして?」
鬼の形相で叫ぶアリスに対し、セジウィック伯爵ゴードンの反応は淡々としたものだった。
「そうか、残念だな」
自分の妻の本音をどこから聞いていたのか、それとも何も感じていないのか。もしかしたら何も理解していないセジウィック伯爵ゴードンは淡々と応じた。そしてひとり、首を傾げる。
「本当に残念だ、次はいつ開けるかわからないから。まだアリスにも話していなかったが、実はまた海外赴任が決まっていて」
それは、爆弾発言だった。少なくともこの場にいる女性のうちのひとりには。
外交官である夫の言葉にアリスはがく然とする。
「なっ……ゴードン!? 本当ですの? また海外ですって!?」
「ああ。君はインドが嫌だとさんざん言っていたから、別の場所にしてもらったよ」
「別って? イタリア? フランス? まさかアメリカとか」
「南アフリカ」
アリスの悲鳴が響いた。
*
南アフリカにもインドにもひとつも罪はない。だが、夫から爆弾発言を食らったアリスには違った。興奮していた状態から、一気に消沈してしまう。
「もういや……暑いところも……舞踏会も晩餐会もないところも!」
「そう言うな、アリス。ドレスならいくらでも作らせてやるぞ」
「作ったって着ていくところがないじゃない! あなたはいいわよ、好きな昆虫ばかり集めているんだから。絶対それが目的でしょう」
そんな風に言い合いながら、セジウィック伯爵夫人は夫の手によって回収されて行った。
「……」
後に、何とも言えない気分の三人を残して。
(頭にくるわ……そんなのわたしのせいじゃないわよ)
イヴリンとしてはもっと苦情を言いたかった。優しい振りをしておいて、陰では随分とこちらをいじめていたらしいアリスに。背が高いから気に入らない、とはあまりに理不尽ではないか。
「それで……」
口を開いたのはすっかり忘れられていた公爵だ。無理もないが、非常に憮然としている。公爵の視線もまた、ふたたび繋がれた手に向けられていた。
「ああ、公爵。あなたには紹介したでしょうが、彼女はイヴリン・ブラント。僕の婚約者ですよ」
「しかし。私は彼女のために舞踏会まで開いたのだぞ」
「割って入ったのはそちらだ。さすがの僕も怒りますよ、そんな真似をされては」
と、手を離すと、ウィリアムはさらに彼女を引き寄せた。イヴリンの肩を抱くように。
された側では、もう何がなんだかわからない。どういうつもりなのか。ところで結局アリスとはどういう関係なのか。
「伯爵夫人に頼まれたのだ、私は」
「……アリスが」
「『友達であるブラント男爵令嬢が、マダムキラーにもてあそばれている』と。割って入って婚約を潰してくれと頼まれた」
「……それで!? そんなことでわたくしに?」
このうますぎる縁談はそのためだけに降って来たのかと、今度はイヴリンががく然とする。
「気に入ったのは本当だ。ミス・イヴリンは若いし美しい。どちらも私が自分の妻に求めるレベルに達している」
「それは僕も認めますがね、公爵」
恩人の幼馴染にまで「マダムキラー」呼ばわりされていたことを知ったウィリアムは、やや肩を落とした。
「指輪もしていない」
「ああ……そうだった」
片手で頭を抱えていたウィリアムは、公爵の言葉でイヴリンの手に目を落とす。
そして突然彼女を離すと、彼はその場に片膝をついた。イヴリンの前で。
「ええと。これしかないか」
何をするのかと思えば、ウィリアムは自分の指から指輪を外した。自分の小指に嵌めていた印章指輪を。そこには彼の実家の紋章が刻まれている。
「結婚してくれないか」
「……」
軽い。随分とお手軽に、何のためも前置きもなしに告げられた。イヴリンには意味もよくわからない。
(何を今さら……そこまでして偽装を続けたいの? もうなんなの)
答えないイヴリンをどう思ったのか。
イヴリンがやや驚いたことに、ウィリアムは自分の指輪をさっさと彼女の指にはめた。止める間もない早業だった。
「え」
「そういうことですので。公爵、僕の婚約者には手を出さないでもらえますか。――さあイヴリン、そろそろ日取りを決めようじゃないか。愛しの婚約者殿?」
どうやらイヴリンに訪れたシンデレラストーリーは、この強引な求婚者によって邪魔されてしまうらしい。




