25.水と油な関係
銀のお盆でイヴリンの下に持ち込まれた縁談は、翌日さらに彼女を戸惑わせた。
「――サイズは明日までにこちらで調整いたしますので。ですので、今日は試着だけお願いいたします」
「これほど美しい色の瞳をお持ちのご令嬢とは。となるとやはり、エメラルドの一揃いをご用意させていただいくのがよろしいでしょうな」
公爵邸に、ブラント男爵家の一家が滞在している続き間にて。
そこには数人の男女が集まっていた。ロンドンの宝石商を名乗る紳士とそのお供、それと仕立て屋をしているという、きびきびとしたいかめしい女性。それと、フェアファックス公爵の亡き先妻の侍女を務めていたというフランス人女性も。
「今夜には間に合わないの? 公爵は舞踏会を開く予定でいらっしゃるのに、その隣にこんな流行遅れのドレスの娘がいるなんて」
「マダム。無理をおっしゃらないで下さいな、こちらのお嬢様は背が高くていらっしゃいます。丈を詰めればいいというものではありませんからね」
「わかっているわ、だからあなたを呼んだんでしょう、マージョリー。なんとかしてくれると思ったのに」
すらりと背の高いイヴリンの身長に文句をつけているのは、そのフランス人侍女のマダム・シモーネだ。その要求に無理だと応じたのが、仕立て屋のマージョリー夫人。昼間用や夜会用など、さまざまな用途のドレスを持参して、ああでもないこうでもないと侍女と相談している。
「ふむ。手前は一度ロンドンに戻りまして、お似合いになりそうな物を手持ちの中からいくつか見繕って来ましょうかね」
「ええ、そうしてちょうだい。でもそうね、ごてごてと飾り立てても不釣り合いだから、シンプルな物にして。でも一級品ではなくてはだめよ、目の肥えたかただから、公爵は。安物なんか身につけさせられない」
そして忙しいマダム・シモーネは宝石商レヴィット氏とも相談する。
侍女は貴婦人のスタイリストでもある。ドレス、アクセサリー類、靴や髪型に至るまで、貴婦人の装い全般をスタイリングする。美的感覚に優れてセンスが良いとさせるフランス人侍女は、貴婦人にとってはぜひ雇いたい使用人である。
その重宝な使用人マダム・シモーネは今日、ブラント男爵令嬢をスタイルアップさせるために来た。仕立て屋と宝石商を連れて。
「そうね、土台が大変よろしくていらっしゃるのだから、飾り甲斐はありますわね」
「……」
「失礼ですがミス・イヴリン。とりあえずあなたに必要なのは、まともに髪を扱える侍女ですわね。今日と明日はわたくしが整えて差し上げますけれど、良い侍女をお探しになるようお勧めいたしますわ」
てきぱきと指示を出すマダム・シモーネだが、イヴリンの意見や意思は必要としないようだ。彼女の手持ちのドレスやアクセサリーから、「まだまし」な物を選んで、いつ何を着るのか細かく指定していく。
「それにしてもひどい肌ですわね! その充血した目も。ミス・イヴリン、不摂生は美容の敵ですわ。公爵がその隈にお気づきになったらなんとおっしゃるか! お気をつけなさいませ」
「……はい」
嵐のような勢いでやって来た侍女はまた、美容に関する忠告を山のようにしてくれる。
そして。
とりあえずと、午前中用ドレスで仕上げられたブラント男爵令嬢。
スタイリストとその仲間が去った後には、以前よりも格段に洗練されたイヴリンがいた。
手持ちの薄紫のドレスに、マダム・シモーネが持ち込んだ黒のショールを羽織る。透ける素材のショールには黒い絹糸で花模様が刺繍され、シンプルなデザインのドレスに変化をつけた。イヴリンの金髪は頭頂にきつくまとめ上げられるが、そこからカールさせたひと房が顔の横に落ちる。まとめ髪に差したヘッドドレスはペンダント状の七宝細工。
ブロンドの正統派美女であるイヴリンに、どこか異国の風合いを添える装いだった。
(すごい……)
眠れなかったせいで少々やつれた顔をしたイヴリンだが、思わず鏡に映る自分をまじまじと見つめてしまった。別人のような自分に。
どうやらフェアファックス公爵は、己の言葉を実行するようだ。「身なりがそのようにみすぼらしいものでは私の恥だから、服飾費も自由に使わせよう」という。
侍女もずっとそう言っていた。
イヴリンの身なりを整えるのはすべて、公爵のためなのだと。
*
だがさしものマダム・シモーネの腕も、夜会となると限界があったようだ。
隣り合った二つの大広間を解放し、開かれた舞踏会。フェアファックス公爵は、二晩続きの盛大な社交の集まりを開いている。
白と黒の大理石が美しい大広間の床の上をすべるように踊るのは、公爵に招かれた政財界の有名人ばかり。ダンス曲を奏でるのは、わざわざこのために招いた異国の楽団らしい。男性の夜会服などそう代わり映えのないものだが、女性は違う。この日のためにドレスを仕立てて準備している娘もいるそうだ。
だが。
「……」
“社交界の女王”ことブラント男爵令嬢は、なぜか今夜も壁の花だった。
マダム・シモーネが「これが一番ましですわね」と選んだイヴリンの手持ちのドレス、夜会バージョンの装い。
白のアンダードレスに、青磁色のオーバードレスを重ねる一着。ショールのような形の襟は総レース、金と水色でペイズリー柄の刺繍を施してある。金のサッシュベルトを腰に締め、真ん中で裾が割れたスカートには同じく金色のフリルを何段にも。白絹の長手袋には、白い蝶貝のボタンがついていた。宝石商レヴィット氏からは、色石で可愛らしい花をかたどったペンダントを借りている。
フランス人侍女も選ぶくらいだ。これは母の形見のドレスの中でも一張羅であり、イヴリンには最も良く似合う、いわば勝負服だ。だがそんな勝負服でも、今夜の彼女は野暮ったい、というより場違いな印象だった。
(そういうドレスコードがあるなら……先に教えておいてくれても)
老若の貴婦人たちが集まったヘザーグリーン宮殿の大広間。そこはとても爽やかな、初夏のような空間となっていた。なぜか。
年若い令嬢たちはみな、示し合わせたように白一色のドレスを纏っているからだ。年配の人たちは違うが。
白一色の令嬢たちの中で、色のあるドレスを纏ったイヴリンはどうしようもなく浮いている。場違いな社交界の女王をあざ笑っているのか、さきほどからちらりちらりと他の娘が視線を寄越していた。
「――相変わらず場違いな人よねえ」
「本当。最近ずっと見ないと思っていたら、まさかこちらの舞踏会に来るなんて。どうやって潜り込んだんだか」
「そうよね。フェアファックス公爵様の舞踏会なんて、とうてい彼女が顔を出せる場所じゃありませんわ。厚かましいのよ」
イヴリン本人に聞こえようが聞こえまいが、構わない。そんな調子で陰口まで叩かれる。
またか、と内心でため息をつく。
(わたくしはどうしてここまで嫌われないといけないの?)
成り上がりの身で図々しい、と思われているのは知っている。形振り構わず良縁探しに打ち込んでいた姿勢を、厚かましいと見られていたことも。しかし。
(そんなの誰でもだわ。いい嫁ぎ先を探しているのは、みんな同じじゃない)
少なくとも、去年まではここまで嫌われていなかった気がする。他の令嬢はライバルであり、また、同じ戦場で闘う戦友だった。情報をやりとりし、時には共闘もした。
例の悪名もそうだ。“社交界の女王”と、ある日とつぜん呼ばれ出した。イヴリンには何が原因だったのかわからない。ただある時点から他の令嬢たちの目が冷たくなり、仲間に入れなくなった。
「――まあ! イヴリンじゃないの」
「あ……今晩は。アリス様」
カドリルを踊る人々を壁際から眺めていたら、甘ったるい女性の声がイヴリンを呼んだ。見ると、いま一番見たくない彼女。伯爵夫人アリスだった。招待されていたらしい。
今夜のドレスコードを知っていたのか、白のドレス姿の小柄なアリスは、憐れみのまなざしでイヴリンを見上げた。
「どうしたのよ、こんな隅にいて。ここの紳士方の目は節穴なのかしらね、こんなに綺麗なお嬢さんがいるのに、見向きもしないのかしら」
「……いえ、そんな」
「どうしたの? 今にも泣きそうよ、あなた」
扇子で口元を隠したアリスは、思わず涙ぐんだイヴリンを指摘する。泣くまいとするイヴリンは、顔を背けて言った。
「何でもないんです」
「あらそうなの。……」
少々きつく言い放ったイヴリンに、アリスは鼻白んだ顔をする。目を背けたイヴリンは知らないが、伯爵夫人は扇子の陰で口元を緩めた。
「――ねえ。少し、耳に入れたのだけど」
「え?」
「あなた、随分と光栄なお誘いを受けているそうじゃない? こちらのお方から」
意味深な言い方だった。イヴリンを見上げるアリスは、妖しく目を細める。
「これほど幸運なお嬢さんは他にいないわね。わたしも鼻が高いわ、友達が公爵夫人になるなんて」
「それは。まだ」
「まだ? 何を迷う必要があるの? あなた、見ればわかるでしょう。この財産よ? この大邸宅も山のような使用人も、みんなあなたのものになるのに。これほどの幸せが他にあって?」
幸せ、とアリスはこともなげに言う。これが正しく、誰もが望む幸せのかたちなのだと。
「そんなみすぼらしいドレス、二度と着なくてすむのに。イヴリン、幸せになるチャンスを逃してはだめだわ」
「……」
そうなのだろうか。
このまま素直に公爵との縁談を受ければ、もう社交界でいじめられることもないのだろうか。少なくともお金には決して困らないだろう。何より、自分が公爵夫人になれば。
(いい縁談を、持ってこれる。エセルに)
自分とよく似た緑の瞳を持つアリス。決して似てはいないが、一瞬、それはイヴリンの母エヴァと重なった。母自身が薦めているのではと、そんな錯覚すらおぼえる。
心揺らすイヴリン。だがそんな彼女へと、声をかける人がやっと現れた。
「……失礼ですが、ブラント男爵令嬢では?」
「はい?」
見ると、イヴリンの前に立つアリスを挟んだ向こうに、ひとりの紳士が立っている。
見覚えはない。リヴァース伯爵でもなければマーティン・ライルでも、ジェフリー・ドレイクでもない。フェアファックス公爵ですらない。だからといって、あの道楽者の子爵でもなかった。
すばやく記憶をさらうが、イヴリンには見覚えのない男性だった。彼女よりも二つか三つほど年長の、黒髪の紳士だ。冷たいアイスブルーの瞳に漆黒の髪、白皙の顔は凛々しく整い、生粋の英国貴族そのものと語っている。
「あー……覚えていないだろうか。僕を」
「覚えて?」
「当たり前か、会ったのは子どもの頃だから。それも一度だけ」
子どもの頃と言われたイヴリンの頭は、その紳士の、幼いころの顔を描き出す。
亡き母の知人のところで会った。小さい頃一度だけ遊んだ、その黒髪の男の子は。
「まさか……アーネスト様?」
「よかった。思い出してくれたか」
イヴリンは思い出すと同時に態勢に入った。威嚇の態勢に。
表情に乏しいアーネスト、スターリング伯爵家の跡取り。この彼は、敵だ。思い出した。
「本当に失礼な方ですわね。紹介もなしに声をかけるなんて、それが紳士のなさること?」
「待ってくれ。紹介も何も、顔見知りだろう。思い出したんじゃないのか」
「違います、ではさようなら。アリス様、軽食へ参りませんか」
「え、ええ。いいけれど……」
アーネストから逃げるため、イヴリンはアリスを巻き込んだ。その腕を取り、別室へ行こうとする。だが相手はそれでも諦めない。
「僕は何も、ダンスを申し込みに来たわけじゃないぞ! そういうのは苦手だ。ただちょっとあなたに用が」
「まあ、ますます無礼なお人ですこと」
「なんなの? イヴリン、クロヴィス卿とお知り合いなの?」
クロヴィス卿とはアーネストが持つ称号だ。追われる男爵令嬢と巻き込まれた伯爵夫人、そして伯爵家の跡取り。そのままの形で舞踏会場を出て、軽食が用意された小部屋にもつれこむ。
「いいえ、アリス様。クロヴィス卿は何か勘違いされているのです。会ったこともありませんのに、失礼なお人ですわよね」
「嘘をつくな、さっき思い出したじゃないか!」
「他の誰かと間違えましたの。それに用があるのはわたくしではないはずですわ。――ねえ、クロヴィス卿?」
「その通りだ! 僕が聞きたいのは、エセルのことだけだ!」
その口から大切な大切な妹の名前を出され、イヴリンの怒り――本気の嫉妬にも火がついた。
「わたくしのっ、わたくしの大事な宝物の名前をっ、気安く口にしないで下さい!」
「なんでだ。気安く口にしたつもりもない、エセルは僕にとっても大事な」
「会ったのなんか一回きりでしょう!? 変質者!」
「……誰が変質者だ!」
「変質者ですわよ、いきなり六つの女の子にプロポーズする人は」
イヴリンとアーネストの、この水と油の関係は約十年前から始まっている。
イヴリンの目から見ても、可愛い盛りだったエセル。今も姉の目には最高に可愛い少女なのだが、その頃は本当に愛らしい子どもだった。だがその幼女のエセルへ、会ったその日のうちに「大きくなったら迎えに行くから」などと言い放ったのがアーネストだ。
たまたま耳に入れてしまったイヴリン。その頃はまだ彼女も少女だが、十二の少年を生涯の敵として認定するには充分だった。幼さが逆に、冷静な判断をさせなくする。
イヴリンは決めている。「こいつにだけはエセルを渡さない」と。
「あらあら。なら知り合いなんじゃないの、イヴリン。そんな無下に相手しなくても」
「アリス様。子どもの頃に一回会っただけの人ですわ。それに」
ふん、と優越を声に乗せ、あくまでアリスに向けて言う。
「エセルは覚えていませんもの。よかったですわ、自分がそんな変態に狙われたことを覚えていなくて」
「覚えていない? 嘘だ、僕を忘れるはずが」
「だってあの子、一度もその話をしませんもの、姉であるわたくしにも。――クロヴィス卿、そういうことですから。そろそろ解放していただける?」
運悪く間に挟まれたアリスを真ん中に置き、対峙したイヴリンとアーネスト。白い手袋に包まれた手を、彼はきゅっと握り込む。まだ諦めないようだ。
負けじと相手をにらみながら、イヴリンは溜息をついた。
「――わたくしにどうしろとおっしゃるの? 言っておきますけれど、絶対に」
「何を騒いでいるのかと思えば……君か、イヴリン」
絶対に認めない、と言おうとした彼女の言葉は唐突に封じられる。その場に響いた、威厳ある声によって。
イヴリンとアーネストが言い争いを始めた時点で、部屋にいた他の人々はそっと去った。だから他にその小部屋にいたのは、面白がる表情のアリスのみ。そして、軽食コーナーで騒ぐ招待客の様子をわざわざ見に来たのは、招待主だった。
登場したフェアファックス公爵は、イヴリン以上に大きなため息をつく。
「なんとはしたない。君はそれでも淑女なのかね」
「……あ。も、申し訳」
怒りのにじんだ声に冷たくたしなめられて、仇敵相手に熱くなっていたイヴリンは一気に冷める。血の気が引いた。
「本当にごめんなさい。そんなつもりじゃ」
「……言い訳など聞きたくない。来たまえ」
心底呆れた、と言わんばかりの公爵はくるりと背を向ける。ついて来い、という意味だろう。
「……」
言い訳するなと命じられたイヴリンは、黙って公爵について行く。アリスにだけ会釈を残して。ただ、大声を出していたのは主にアーネストのほうだったので、理不尽だとは思った。状況を忘れた自分も悪いが、これでもっとアーネストが嫌いになった。
イヴリンがすぐ後ろへつくと、背中を見せたままの公爵は無言で腕を出す。これを取れ、と言わんばかりに。
「あの」
「黙れ。……ダンスはできるんだろうな? 今夜はずっと立っていたようだが」
見ていたのか、とカッと頬が熱くなる。ずっと壁の花をしていたのを、公爵は気づいていたようだ。ダンスはできるので、イヴリンはしおしおとうなずいた。大人しく腕を組む。
舞踏室はこれからワルツの時間らしい。男女が一対一で、入れ替わりなくずっと踊り続ける。別室で何が起きていたのか大部分の客は知らないらしく、着飾った紳士淑女はみな優雅に立ち、曲が始まるのを待っていた。
そんな中に入って行くイヴリン。公爵に連れられて。
「……」
並んで立って初めて気づいたが、公爵の身長はイヴリンとそう変わらない。目線が少し上、という程度だ。
だからとても違和感があった。
何故ならこの半年ほど彼女は、腕を組む相手をずっと見上げていたのだから。
すると。
「――それはないんじゃないかな、イヴリン」
「……!?」
「僕ですら君と踊ったことはないのに、先に他の男とか? さすがの僕も、それは怒る」
振り向いて、今度こそ心底驚いた。
舞踏会の最中だというのに、何故か街着であるフロックコート姿の男。その上なにやら息が切れ、腰をかがめ、膝には両手をついている。帽子はなく、ダークブラウンの髪は非常に乱れきっていた。まるで、今ここまで、全力疾走でもしてきたかのように。
「なんだ、ランバート! 呼んでないぞ、どうやって入った」
「おやフェアファックス公爵。招かれざる客の身で、いの一番にあなたにお目にかかってしまうとは。僕も運がない」
運がないという割には、平然と笑って見せるその余裕。
ウィリアムがそこにいた。




