24.たいそうな縁談
フェアファックス公爵家と言えば、イギリスでも有数の財産家として有名だ。由緒は古く、国内外のあちこちに領地や邸宅を所有する。そしてロンドン南西には、さながら宮殿のような大邸宅を構えている。
そのヘザーグリーン“宮殿”に招かれたのは、ブラント男爵家。だけではなかった。
「ぶ……舞踏会なんですか!?」
広大な敷地内に、豪壮な大邸宅と、本物のケイパビリティ・ブラウンの英国式庭園を有するヘザーグリーン。ブラント男爵親子がまず迎えられたのは、ロの字型の本館の、西棟にある続き間だ。
イヴリンはそれだけでも目まいを覚えるのに、さらに驚かされる。
「今夜は簡単な晩餐会よ。明日は舞踏会、明後日は仮面舞踏会ですって。すごいわねえ」
そう返事したサマンサ夫人は着替え中だった。侍女に髪を結わせている。
ロンドン郊外へ出るとなると、ちょっとした旅行だ。訪問先で着替えることになる。外套を脱いでドレスを晩餐用の正装に着替え、頭は帽子をとって改めて結い直さねばならない。細かいアクセサリーもこの時つける。
義母が晩餐用のドレスに着替えていることを知った時点で、イヴリンは今夜中に帰らないことを悟っていた。だが、まさか明後日まで三日も滞在するとは聞いていない。だがあの荷物の山はそういうことらしい。
「三日も!? 三日もエセルと離れていないといけないんですか? そんな、ひどい」
「何を言うのよ、イヴリン。たかだか三日ぐらいで」
「ぐらい……三日もエセルを描けないなんて、聞いていませんわ」
だまし討ちだ。三日も日課をこなせないとなると、イヴリンは絶対に承知しなかった。だからこそ騙したのだと気づき、唇を噛む。
ヘザーグリーン宮殿内は、この大々的な舞踏会に招かれた紳士淑女でいっぱいだった。到着した時から妙に人が多いので、なんだろうとは思っていたが。三日をかけて行う盛大なパーティーを楽しむため、公爵の客がおおぜい集まっているようだ。
「本当に素晴らしい宮殿だわ。ああ、私たちまで夢のようよ、イヴリン。あなたがここの女主人になるだなんて! あなたは幸せ者だわ」
サマンサ夫人の言うとおりだ。
窓の外は英国式庭園。他にも薔薇園や大迷路、中国風のパゴダ、オランジェリーもあるそうだ。すごいのは邸宅の外だけではない。何十人もの人間を集めてパーティーができる大広間は少なくとも二つはあり、他にも、東西の美術品を展示したロングギャラリー、稀覯本を揃えた大図書室がある。部屋数は二百を超えるそうだ。
(なんだか怖いわ、ここまでくると)
貴族の令嬢にしては慎ましい生活を送ってきたイヴリンには、想像を絶する裕福さである。それらを、いやそれ以上の財産を抱える貴族の奥方という地位は。そしてここまでくると、到底信じられない。
その貴族、フェアファックス公爵が、自分に求婚している、という話が。たとえ二十五歳年上で、四度目の妻だとしても。
「イヴリン? あなたも早く着替えなさい、晩餐が始まるわよ」
「……出なくてはいけませんか?」
「当たり前ではないの。公爵が、今夜は私たちだけのために内輪の晩餐会を開いてくれるのよ、ここで一番小さいダイニングルームで。他にも一緒に食事したいお客様は山のようにいるでしょうに、わざわざあなたのために時間を割いて下さったんだから。お優しいかたよね」
気が進まない。だが逆らう気力も今はなく、イヴリンは渋々着替えた。亡き母の形見のドレスに。
*
内輪の晩餐会という言葉が建前であることぐらいは想像がついた。
だから『一番小さい』ダイニングルームが、実際はイヴリンの自宅の食堂の三倍以上はあるだろう広さの部屋だとしても驚かなかった。チラリ、またチラリと代わる代わる視線を寄越す二十人ほどの出席者たちが、みな公爵の親類縁者だと聞いても、平然としていたつもりだ。表面上は。
フェアファックス公爵はフェアファックス公爵だった。白くなりかけた金髪を後ろにすべて撫でつけた、眼光は鋭い英国貴族。どれほど豪勢な内容の食事だろうと、つまらなそうに口へと運ぶ初老の男性。まさしく先日、オペラハウスで会った相手だ。
そして。
「今宵は楽しんでくれたかね、ミス・イヴリン」
「ええ……はい、もちろんです。素敵な晩餐会でしたもの」
晩餐後は変則的なもてなしが用意されていた。
通常の晩餐会なら、出席者全員が居間でお茶やコーヒーのもてなしを受けるところだが、今宵は違った。
ヘザーグリーンの主は、今夜招いている客のうち、たったひとりだけを選んでもてなした。壁いっぱいに歴史画を描いた大広間は立派な来歴があるらしいが、「まあそうですか」としか言いようがない。初代公爵の等身大の彫像を飾った巨大すぎる暖炉を前にしても、イヴリンは気後れ以外のなにものも感じなかった。
(……やっぱり無理でしょう)
その巨大な暖炉の前に置かれたソファ。茶器を揃えたテーブルを挟んだ向かい側には、初代の子孫にして当代フェアファックス公爵フィリップが座っている。
そもそも二人きりだという時点でイヴリンは緊張した。無言で促されたためお茶の銀器は彼女が扱うが、こらえていないと手が震えてしまいそうだ。
ティーカップを差し出すついでにこっそり相手を伺うと、公爵は視線を暖炉へと向けていた。つまらなそうな表情で。
「……」
「……」
無言に無言、また無言。
どうしていいのかわからない。話しかけなければ会話が始まらないのだが、なぜか公爵はしゃべらなかった。イヴリンにも尋ねたいことはあるのだが、まさか自分から「何故わたくしに求婚してくれるんですか」などとは訊けなかった。
話しかけるべきだろうか。いや、ここは慎ましく黙っているのが正解か。イヴリンが悩んでいたら、ようやく公爵は視線を彼女へ向けた。
「――そうだな。まずひとつ、ああいう席では黙っていたまえ」
「え?」
「ああやって、女のほうから質問攻めにするのははしたない。二度とやるな」
しかしその視線は、すぐにふっと逸らされたが。しかし公爵は、いったん語り始めた言葉まで止めることはしなかった。
「君が政治問題にも関心があるのはわかったが、興味をひかれた振りはやめるんだ」
政治問題、という言葉からわかった。何についてたしなめられているかというと、晩餐の席での会話だ。イヴリンは公爵の従弟だという牧師と女性の権利について少ししゃべっていたのだが、それを咎められている。
「最初からわかっていたことだったな。君は我が家のすべてを受け継いでもらうにはどう考えても若すぎるし経験不足だ。だからそれはこちらで何とかしよう。幸い、私の娘たちはイヴリン、君よりも有能で慣れている。公爵家の女主人の役割は、今まで通り娘たちに務めさせよう」
なんの話ですか、というイヴリンの無言の戸惑いなど綺麗に無視された。
「人並み以上に優れた容姿というのは、美質のひとつだと私も認める。どれほど豪勢で華やかな席でも連れて行ってやろう。ああ、君の身なりがそのようにみすぼらしいものでは私の恥だから、服飾費も自由に使わせよう。だがこれだけは理解しろ。君の役割は、それらの場所でただ黙って微笑んでいることだけだ」
「……」
「また当然のことだが、貞節は必ず守れ。私が自分の妻に求めるのはそれぐらいだ。裏切る時はそれ相応の制裁を覚悟しろ」
こんなのは簡単なことだろう――と、ふんと鼻であしらいながら公爵は言った。
「だが君は私の行動に一切口を出すことは許さない。何を見ても聞いても知らぬ振りを通せ」
「あの」
「これらを守れるなら来たまえ。迎え入れよう、この家へ」
一方的にそこまで語ると、公爵は黙った。椅子にもたれるように背中を預け、視線は暖炉へ戻す。淹れたお茶には興味もないらしいが、それはイヴリンへの関心も同じだった。
やがて立ち上がると、マントルピースにあった葉巻のセットを手に取る。それが公爵の好みなのか、きつい煙草の香りを漂わせ始めた。何も言わず、ただ炉床の中を見つめて。
自分が言いたいことだけ告げると、後はイヴリンの存在を忘れ、何か他の考え事の中に沈んでいってしまったようだ。
「……」
イヴリンはやっぱりついて行けなかった。
二人きりになった時点で緊張した。公爵邸で正式な婚約を、と父から命じられたのだから、もしや、これから求婚でもされるのだろうかと思って。イヴリンはもちろん公爵のほうでもこちらのことを知らないはずなので、急すぎではないかと思ったが。
だが違った。プロポーズとかそういうことではなく、訓示を受けただけだった。すでに結婚は既定路線で、後はイヴリンが公爵夫人に相応しい振る舞いができるかどうかだけが問題だったようだ。彼女自身の意思も関係ない。
イヴリンはすっかり冷たくなったお茶を一口だけ飲んだ。意を決して話しかけようと、口を開く。
「あの」
「……まだいたのか? 今夜はもう遅い、自分の部屋へ戻れ」
フェアファックス公爵は無造作に手を振ると、ブラント男爵令嬢を大広間から追い払った。いま現在、公爵が求婚しているはずの娘に。
*
ヘザーグリーン宮殿の寝具は薄荷の香りがつけられていた。爽やかで心地よい香りだ。洗顔などに使った水にも同じ香りがほんのりつけられていて、もてなす側の細やかな心遣いが感じられた。
「……」
よほど財産が有り余っているのか、公爵邸では使用人の身なりですら完璧に整っていた。白と黒のお仕着せで、ずらりと並んでいたメイドとフットマン。客は多いが、それ以上に多い彼らがその世話に当たってくれた。
その手間暇かかったもてなしを、イヴリンはベッドの中で思い出す。同室にいるサマンサ夫人はすでに寝入っているが、その継娘は眠らずに考えていた。
口を開けて見惚れてしまいそうなほど見事な宮殿。その広大な場所を支える、数えきれないほどの使用人。何がすごいかというと、それらの贅沢を可能とする財産だろう。
(えーっと)
想像以上のすごさだ。おかげで眠れない。自分が本当にこの家の夫人として迎えられるのか、イヴリンには信じられない。本人から直接話を聞いてもまだ現実感がない。
「……よんばんめ」
それにしても、とイヴリンは思う。
自分は成金男爵の令嬢だ。ブラント男爵家は成り上がりで、由緒正しい他家からはいまだに見下される傾向にある。だから、公爵家の当主の夫人にというこの縁談は、むしろ分不相応なのだろう。それこそ銀のお盆で突然運ばれてきたような、夢のようなシンデレラストーリーだ。たとえ相手が四度目の結婚で、二十五も年上だとしても。
しかしだからと言って――あそこまで言われないといけないのだろうか。納得がいかない。
「黙って笑ってろって」
それではただの飾りだ。飾り物。暖炉の上にあった彫像と同じで、ただその場に与えるのは威厳ではなく、華やかさだということ。公爵が求めたのはそういう役割に聞こえた。
ただしイヴリンは、断ることなどできないのがわかっている。
明らかに迷った様子のイヴリンに、眠る前の義母が言った。何の気なしに。
『ああ、そうだわ。公爵夫人の義妹なら、エセルの縁談もあっという間に決まるでしょうね』。
もともと父親の命令なら逆らえないのだが、決定的だった。イヴリンは最初からそれが目的で社交界に出入りしていたぐらいだ。妹に良縁を持ってくるため、イヴリン自身も身分の高い夫を求めていた。
何もかもがエセルのため。イヴリンは、そのためなら偽装の婚約もできる。
「……」
眠らずに考えていたイヴリン。そこまで考えた瞬間、ぶわっと涙が溢れだした。
同じ部屋で眠っている義母には絶対に気付かれたくない。だから無言で泣いていた。
(わからない)
どうしていま自分が泣かなければならないのか、わからない。屈辱だろうか? その通り、公爵の要求は何ひとつとっても屈辱だった。だがそんなものは耳から耳へ素通りしていったのもまた事実だ。だから何、と思っていた。無感覚だった。
今日起こった出来事のうち、公爵の、要求という名のプロポーズなどもののうちには入らない。それ以前からずっと、イヴリンの心は凍っていたのだから。
「っ……」
手で口を塞ぎ、嗚咽を堪える。自分が何にこれほど傷ついたか、原因はわかっているが、認めたくない。
雨の中、同じひとつの傘の下で寄り添う二人。すぐそこにいるイヴリンに気付きもせず、ウィリアムはアリスばかりを見ていた。いつも笑っている人だが、今日見た彼は、今までになく優しい表情だった。
それがどうしたというのだろうと思う。イヴリンはおかしい。ひどく痛むこの胸は、どこかおかしくなったとしか思えない。泣くような理由などないのに、泣いている自分はとてもおかしい。元々不実だと知っていたのだから、今さらあんな光景を見たぐらいでショックを受けるのは変ではないか。
偽装なのだから。それを象徴するように、イヴリンの指には、指輪すらない。
(こんなの違う)
だが否定すればするほどますます気持ちは苦しくなった。痛い。胸が痛いほど苦しい。
イヴリンが感じているこの心地を、人が何と呼ぶか。自分でも薄々わかり始めてが、絶対に認められない。さらに彼女の場合、たとえ認めたとしても同じだ。
(……わたくしには、エセルのほうが大切。こうするしかないの)
泣いている自分を受け入れることすらできない。しかし苦しい気持ちもなくならない。おかげでイヴリンはこの夜、眠れぬ夜を過ごした。




