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23.非道な父親




 冗談のように思えたのは一瞬だけだ。それはすぐに、きゅっと、全身の血を絞りとられるような感覚に取って代わられる。


(なんてことなの)


 久しぶりにまともに会話する父ロナルド。イヴリンは父親へ、いまだにウィリアムとの婚約のことを話していない。隠し通しましょうと避けているうちに、父親のところへ予想もしない縁談が舞い込んでしまったようだ。


「ま、まあ。お父様。とつぜんですわね」

「そうだな。だが公爵はお前に会ったことがあるようだぞ。どこの夜会でお会いしたのか、私は何も聞いていないが」

「ええと、その」


 フェアファックス公爵の名前を心の中で何度も唱え、ようやく思い出す。同時に困る。その人と会ったのはウィリアムと出かけた時のことだった。挨拶ぐらいしかしていないはずだが。


 すでにじっくり“検分”されたとは夢にも思わないイヴリンは、そらとぼけた。


「さあ。あまり覚えていませんけれど、どこかですれ違ったの、かも」

「そうか。まあいい、構わん。とにかく公爵はお前を見て、お気に召してくれたそうだ」


 ブラント男爵は鷹揚にうなずくと、ウィスキーのグラスを手に、書斎の椅子に腰かけた。手振りでイヴリンにも座るよう勧める。


 父の話だと、フェアファックス公爵は政界の有力者だそうだ。男爵自身は政界にはあまり関わりなく、貴族院へは義務的に出向く程度だが、財界の友人たちには政治に関わる者もいる。そういう投資家仲間から持ち込まれた話らしい。


 男爵はグラスの中身を軽く揺らし、それを眺めながら言う。


「なんといっても公爵は、イギリスでも一、二を争うほど領地をお持ちだからな。持参金など問題にしないそうだ、有難いことに」

「……」

「お前もそろそろ二十一だろう。社交界では十分遊んだはずだ、いいかげん嫁げ。後にエセルがつかえているのを忘れたんじゃないだろうな」


 有難い縁談よりも、娘の歳を間違える父が気に障る。遊ぶ、という言い草もカチンときた。イヴリンは遊びたくて社交界に出入りしていたわけではないのだから。


「お父様。せっかくですけれど――」

「喜んでお受けしますと伝えておいてやったぞ。だからお前もそのつもりでいるように」

「え!?」


 お断りして下さいときっぱり答える前に、ブラント男爵は平然と告げた。琥珀色のお酒を凝視しながら続ける。


「まさか断りはしないだろうな、イヴリン。それにこれは命令だ。娘が父親の命令に抗うなど、許されんぞ」

「でも待って下さい、お父様。実はわたくしには――」

「言っておくが、『マダム専門の遊び人』との結婚など言語道断だ」


 イヴリンは言い返す言葉を失う。知っていたの、と。

 グラスを干した男爵は、今度はシガレットケースを取り出しながら言う。


「お前の口から報告を聞かなかったのは残念だが、それだけは許してやろう。父親に言えるような相手じゃないから黙っていたんだろう?」

「そんな。そういうつもりでは」

「軽はずみな婚約は許しがたいが、公爵との結婚でその償いになる。いいか、これは決定だ。私は尋ねているのではない」


 明日、親子三人で公爵の屋敷へ行くことになっているそうだ。そこで改めて公爵に会い、認められれば正式に婚約を交わすことになる。そう話したロナルドは、最後までイヴリンの目を見なかった。



 縁談の詳しい内容は義母のサマンサが話してくれた。


 翌日親子三人で馬車に乗り込み、公爵邸へ向かう道すがら、むっつり黙り込んだブラント男爵に代わり、サマンサ夫人が語る。今日のロンドンは小雨の天気だ。


「イヴリン、公爵はあなたより二十五も年上だそうよ。あら、それだとロナルドと同年代になるわね」

「はあ。そうなんですか……」

「そうだわ、それともう四度目の結婚なんですってね。イヴリン、あなたより年上の息子さんもいらっしゃるって! そうよね、あなたのお父様と同年代なんですもの。あらまあ、なんて歳が離れているのかしら!」


 歳の差のことを言われ、確かにそのくらいの年齢だったわね、とイヴリンは思い出す。

 反応の鈍いイヴリンをどう理解したのか、サマンサ夫人は義理の娘の手を握る。慰める必要性は感じているようだ。


「あなたの不安な気持ちはわかるわ。公爵様と言われても、そんなに年上ではねえ。でも考えてみて、あなたは公爵夫人になるのよ。それにあちらはずいぶんと裕福らしいし、贅沢させてもらえるわ」

「そうなんですか?」

「そうよ。ドレスなんて、きっといくらでも作らせてくれるわよ! そんな流行遅れの物、いつまでも着なくてよくなるわ」

「……」


 顔が引きつるのを止められない。今までさんざん無関心だった義理の娘の風体について、そんな感想の抱いていた義理の母に。どの口が言うのかしらと、イヴリンは呆れる。


 今のところフェアファックス公爵について、何も感じなかった。結婚を嫌だとすら思っていないのは、まだ現実として受け入れていないせいか。


(まさか。信じられるわけないわ、嘘みたい)


 イヴリンはまだ信じられない。父がイヴリンの婚約に勝手に幕を引こうとしていることも、新たな縁談が来ていることも。しかし彼女は、二十五歳年上の公爵の四度目の妻となるそうだ。


 昨日までのイヴリンは、ひたすらエセルの良縁探しに打ち込んでいた。妹の幸福な結婚が最終目標で、それさえ叶えばよかったのだから。そのために色々と画策してきた。


(誰と……?)


 ウィリアムと、そう計画していた。

 はっと我に返る。居ても立ってもいられない、そんな気分になった。


 父親から伝えてもらうわけにはいかない。二人の婚約は、どのみちいつかは終わる偽装の関係だ。だとしても、自分の口で感謝したい。結果的にだめだったとしても、これまで手助けしてもらったのだ。だからウィリアムには、直接ありがとうと言いたかった。変なところで誠実だった、あの子爵に。


「あの。お義母様、わたくし、先に行きたいところがあるんですが」

「あら、どこへ?」


 ウィリアム宛てに手紙を送ることを禁じられた。だからイヴリンはこの事態を、まだに偽装婚約者に伝えられていない。

 

「セントジェームズに。子爵のところへ」

「あら、だめよイヴリン! 何を言っているの」

「でも。もし婚約をやめるなら、そう言わなければいけないと思うんですけれど」

「そんなことはお父様に任せておきなさい、ねえロナルド?」

「……」


 父は答えなかった。黙殺されてしまう。


 婚約破棄について、ウィリアムにはブラント男爵から伝えるそうだ。イヴリンは会うことはもちろん外出まで禁止され、昨日から連絡手段が完全に絶たれている。


(……まだ決まったわけじゃないのに)


 連れて行かれる公爵の屋敷で、正式に婚約するかどうかが決まるそうだ。しかし父親がどれだけ強く命令したところで、公爵のほうでイヴリンを気に入らないかもしれない。一度挨拶した程度の自分のどこを気に入ったか知らないが、「思っていたのと違う」と言われる可能性もある。


 すると意外なことに、男爵が口を開く。


「……いいだろう。――ホーキンス! ヘザーグリーンに向かう前に、馬車をセントジェームズへ回せ」




 ロンドン郊外へ向かうはずだった馬車をきゅうきょ、首都の中心部へ向かわせる。イヴリンにはもうひとつ気になることがあった。サマンサに尋ねる。


「あの。どうしてあんなに荷物を持っていくんですか? お父様もお義母様も、それにわたくしのドレスまで何着も。今日中に帰るんですわよね? あんなに着替えを持っていく必要が……?」

「イヴリン。公爵様にいろいろなあなたを見ていただくためよ。せっかくこれだけ美しい娘を持ったのですもの、自慢したいお父様の気持ちがわからないの?」

「はあ……」


 馬車の荷台に山のように積んでいる。日帰りの外出にはどう考えてもあんなに必要ないのだが、そう言われてしまうとイヴリンも首を傾げる。


 そのとき、急に馬車が止まった。しばらく動かない。


「どうした? ホーキンス、おい、何故止まるんだ」

「旦那様! どうやら前のほうで事故があったようです。馬車が道を塞いでいる様子で」

「なんだと……」


 御者によると、事故を起こした馬車が道を塞ぎ、それが撤去されるまで往来もストップするしかないようだ。待つしかない。


「……?」


 イヴリンはハっとした。

 

 突発的な事故により、馬車が渋滞状態となったリージェント・ストリート。中には当時まだ珍しい自動車も混じるが、イヴリンが馬車の内から見つけたのはそれではない。


(あれ……もしかして?)


 小雨模様のロンドン。人通りは多くない。メッセンジャーボーイなどが、傘もささずに走る以外は。だがイヴリンが見つけた二人組は、大きな傘をさして歩道をそぞろ歩いている。


 傘を手にしたウィリアムと、その連れらしき貴婦人は。


 これから会いに行きたい相手を、思いがけず道で見つけてしまう。座席にもたれてぼんやり眺めるだけだったイヴリンは身を起こして、食い入るように見つめた。


「あれは」


 車道側を歩くウィリアム越しに、その貴婦人の顔がちらりと見えた。造花を刺した帽子の下の髪は黒。冷たいほど整ったあの横顔は、つい先日、イヴリンを招いた女性ではないだろうか。己のサロンへイヴリンを招いた、あの美貌のひと。

 

 伯爵夫人アリスを伴って歩くウィリアムは、馬車のすぐそばを通った。彼はそれでも気づかなかった。その馬車の中にいるイヴリンに。一緒にいる両親も、すぐそこにこれから会いに行く相手が通りがかるなど夢にも思わないのか、彼に気付かない。


 だから、イヴリンだけだ。非常に強い衝撃を受けたのは。他の誰も気づかないまま、イヴリンはひとり、ショックを受けている。


 何も知らないまま通り過ぎるウィリアムを、イヴリンはただ茫然と見送った。すぐそこにいる彼女には目もくれず、ただただアリスへ視線を注ぐ彼を。


 声などかけられなかった。用があるのに。

 偽装婚約の破棄を伝えに向かうイヴリンは、その当の相手を黙って見送ってしまった。


「あら。動いたわ」

 

 頭が真っ白になっていたイヴリンではなく、サマンサがふと言った。義母の言う通り、馬車はやっと動き始める。睦まじく同じ傘に入った、何も知らない彼らを置いて。


 もうすぐ子爵の自宅に着く、というところでイヴリンはやっと両親に訴えた。


「――申し訳ありません。お父様、また日を改めてはいけないでしょうか」

「何を言うんだ、イヴリン。すでにすぐそこに」

「ええ。でもそういえば、今日はお留守だと伺っていました。前にお聞きしましたの」

「留守だと?」

「はい。――お父様。また日を改めて、自分で謝罪しとうございます。わたくしはそれが誠意だと思うのです。お願いです」


 座席に座ったまま、淑やかに頭を下げた。心からの懇願だ。


 その存在と同じくらい、いつだってイヴリンの意思など無きものとする父へ。今だけはこの願いを叶えてほしいと頼んだ。


「……勝手な。行きたいと言ったり行きたくないと言ったり。お前はそんな我がまま娘だったか? どれだけ」

「ロナルド、おやめになって。いいじゃありませんか、先方がお留守なら仕方がありませんわよ」


 顔色を変えて怒る男爵を、サマンサ夫人がなだめる。妻の手が肩にかけられるが、ブラント男爵はそれすらにらんだ。


「しかし。――もういい。イヴリン、これが最後だからな。これ以上の勝手は許さん。いいか、公爵の求婚は必ずお受けするんだ」

「……はい」


 以降父は、イヴリンに目もくれなかった。口も開かない。どこか空々しい義母の世間ばかりがしばらく続いた。



 事故のせいで往来がストップしたリージェント・ストリート。それと交差したまた別の通りへと、ウィリアムは角を曲がった。連れとともに。


 ずっと続いていた話題が少し途切れたので、ウィリアムはふと尋ねる。


「濡れていないか、アリス」

「え? あら平気よ。そんなに降っていないもの」

「ならよかった。おや、道が動き出しているな。もう少し待てばよかったね」


 彼らの目的地はすぐそこだったので、止まってしまった馬車から早めに降り、徒歩で向かっていたのである。


 ウィリアムが手にした大きな傘は、必要以上にアリスへと傾いていた。彼女の外套を、少しも濡らすまいとするように。

 アリスはそれを見上げて笑った。小柄な伯爵夫人と背の高いランバート子爵との間には、大きな高低差がある。


「ねえウィリアム。ずぶ濡れじゃないの、あなたの肩。傘、こっちに傾けすぎだわ」

「え? ああ、いや。当然だろう、君のドレスを濡らしたなんて知られたら、ゴードンに顔向けできないじゃないか。僕には奥方を託された責任がある」

「相変わらず優しいわね。素敵よ、ウィリアム」


 ウィリアムと腕を組んだアリスは、彼の返答に満足気にうなずいた。


 この日の二人の目的は、百貨店へと買い物だ。もう数歩も行けばリバティ百貨店がある。用事があるのはアリスだけで、ウィリアムはお供だが。一緒に行くはずだったアリスの夫ゴードンが急用で来れなくなったため、代わりを頼まれたのだ。


 だから、逢引というわけではない。夫も公認の同伴だ。


「あなた、昔からそうよね。いつだって優しいの。それって誰にでも?」

「君のように魅力的な女性相手だからに決まっているだろう、姫君プリンセス

「プリンセス。懐かしいわね、その呼び方。わたしの騎士様(ナイト)?」

 

 そう、いつだってウィリアムはアリスの騎士だった。


 親戚同士で、幼いころからよく一緒に遊んだ幼馴染だ。一定の年齢になると引き離されたが、それでも兄妹のような親しさは変わらなかった。


「覚えてる? 水車小屋を見に行きたいって、わたしがワガママ言ったとき。他の誰もそんなもの見たって仕方がないって言ってなだめたけど、あなただけは違ったわね」

「アリスを勝手に連れ出して、領内じゅうで大騒ぎになった時のことか?」

「そう! 怒られたけど、とても楽しかったわ。子どもの頃の、一番楽しかった思い出のひとつよ。そうそう、楽しかったと言えば、羊飼いの子と服を入れ替えたこともあったわね?」


 百貨店へ向かう道中も、買い物中も。リバティのあの有名な吹き抜けの下にいる間も、二人の会話の内容は思い出話だ。今日のアリスは昔語りをしたいのか、やたらと共通の思い出を掘り起こしたがる。


 耳を貸すウィリアムも微笑んでいた。彼の腕へと細い体が頼りなくもたれかかってくる。甘い声で語り続ける、艶のある唇もある。自分のよりずっと下にあるせいで、首を傾けないとまともに顔も見えない身長差も――。


「……?」


 そこで違和感をおぼえた。腕を組んだ時のこの感じ。何かが違う気がした。


(まあいいか)


 奇妙な違和感はあったが、そのまま流してしまう。これがアリスなのだから。ウィリアムにとって、かけがえのない女性。たったひとりの大事な人。昔から変わらない。我がままは何でも許すし、頼られたら応じないではいられない。いつだってそうだ。


 この道楽者で軽い軽いマダムキラーが抱える、たったひとつの弱点がアリスだ。恵まれた生まれのわりに暗い子ども時代を過ごした彼には、幼馴染である彼女だけが光明だった。


「――あの頃、毎晩神様にお祈りしたものよ。どうか神様、ウィリアムのお父様を懲らしめて下さいって」

「……」

「三年も会話を禁じたままにしておくなんて。使用人とも、家族とも。信じられない、本当にひどい人ね」


 ウィリアムの父親は異様な性格の持ち主だ。


 動物の剥製、奇形の器械人形。絵画を集める息子とは違い、怪奇趣味だった父は奇妙で珍しい物を集めるのを好んだ。集めたそれらを眺めては満足にふけり、飽きたらまた新しい物を買い求める。だが好むのは非生物ばかり。生物――人間とは滅多に関わろうとしない。家族はもちろん、使用人とも極力口をきかないくらいだ。


 一方で、他人には非常に厳しかった。特に、長男で、跡取りでもあるウィリアムには。


 父親の命を受けた使用人によって、普段から生活を厳しく取り締まられる。子どもにありがちな罪のない悪戯でも許されない。家庭教師は鞭を持って跡取り息子を矯正することを奨励された。


 最たる仕打ちは、三年間、家族や使用人と口をきくことを禁じられた罰だろうか。悪戯で画家レナールに怪我を負わせかけたウィリアムも悪い。だが自分が課した罰を忘れ、長男を家中で孤立させたまま三年放置した父親も非道だろう。


 英国貴族の子弟は早いうちから寄宿学校に入る。しかしどちらいうと繊細な子どもだったウィリアムは、寄宿学校が馴染まなかった。級友からのいじめを訴えても逃げることなど許されない。それでいつしか彼は道化になっていた。狭くて残酷な、子どもの世界を生き延びるため。それでも自宅よりは、父親のいる場所よりはましだった。


 “わたしだけはウィリアムの味方よ”。

 暗い子ども時代を過ごしたウィリアム。当時の味方は、遊び友達だったアリスだけ。


 だからウィリアムは今でも、アリスからの頼みは断れない。初恋の相手だからという以上に、恩義を感じている。それはたとえ、彼女が人妻になったとしても同じだ。



 商品棚にある、蝶を図案化した美しいランプを眺めながらアリスが言う。


「お父様のお加減は?」

「……どうだろうね。連絡があるとすれば弁護士からだろうな」


 学業を終えたウィリアムは、当然、実家になど帰らなかった。大陸へ向かい、しばらくイギリスにも帰らず、なるべく家族とは関わらなかった。徹底的に避ける息子に父親は激怒したそうだが、今も無視してロンドンに家を構えている。これだから大人はいいと、ウィリアムは心底思う。


 そして実は、すぐ下に弟がいる。ウィリアムとは真逆の性格で、鈍感な人間だ。だからこそ弟のジェイムズは、ウィリアムと衝突せずにいられる。気も合わず、理解もし合えないが。

しかし独身でいられるもの、そのジェイムズのお陰だ。いずれウィリアムが相続するあれこれは、その弟のジェイムズがまた受け継げばいい。あちらはすでに妻子持ちだ。


「でも。ときどき耳に入るわよ、あまりお加減がよくないって。会いに行かないの?」

「アリス。こればかりは君の頼みでも無理だ。わかるだろう」


 そんな話題はもういい。そういう気持ちを込めて、ウィリアムは笑みかける。にこりと笑うと、並ぶランプに手を向けて言った。


「せっかくこうして一緒に出掛けているんだ。プレゼントしよう、どれがいい?」

「本当!? 嬉しい」


 兄のような男の、気前のいい申し出を素直に喜ぶアリス。嬉しそうに品物を見比べるその頭には、もうさっきの話題はないようだ。単純で、だからこそ憎めない天真爛漫。昔から無邪気な少女だったが、今でも若い娘のようにはしゃぐ幼馴染に、ウィリアムは苦笑した。


(やれやれ。――あの子も、これぐらい素直でもいいのに)


 こっそり肩をすくめた。パリで土産を買うと伝えたらすげなく断り、婚約指輪すら頼めばあっさり返して寄越すあの娘。本当に変わった令嬢だ、イヴリンは。物堅い。甘え方というものを知らないようだ。


 やがてアリスが指を差したのは、アメジストで飾った一品。


「そうねえ、ウィリアム。これはどう?」

「君が気に入ったなら、いいんじゃないかな……」


 ああ、と思った。だからこそ、そうしようと思ったのだと納得した。


 幼いころの自分と同じくらい、他人への甘え方を知らない彼女。手土産ていどの物すら断る偽装婚約者に、指輪の返還を頼んだ理由。ウィリアムは、そんなイヴリンを驚かせてみたくなった。そういうことらしい。




 しかし、さしもの彼もそのイヴリンに何が起こっているか、いまだに知らなかった。




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