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22.遅すぎなアレ

 

 ある日のブラント男爵邸。銀のお盆を持った給仕の青年が仲良しのメイドに声をかける。


「イヴリンお嬢様は居間にいるのかい?」

「ええ、奥様とご一緒に。なに、客が来てるの?」

「そう、お嬢様にお会いしたいんだってさ。ほら、いつもの若い紳士さ。今日のは新顔だったけどね。でもよっぽど夢中なんだな、えらくそわそわしてらしたよ」

「あー。お嬢様の取り巻きね、久しぶりじゃない。てっきりあのお貴族様で決まりなんだと思ってたのに」


 メイドはどこかうんざりした様子だった。かつて社交界の女王として、うわべだけはちやほやされていたブラント男爵令嬢。麗しのイヴリンを若者たちが訪ねることは、以前は日常茶飯事だったので。



 ブラント男爵令嬢を訪問しに来た新顔の紳士は、ジェフリー・ドレイクだった。男爵夫人サマンサが同席しているとわかると、彼は恥じ入るようにうつむいた。


「来て下さって嬉しいわ、ドレイクさん! この前のお礼を申し上げたかったいと思っていましたの」


 ジェフリーから会いに来てくれるなんて、とその態度にイヴリンは良い兆候を見出した。だからこそ彼女の笑顔は輝いた。


「……いえ! すみません、突然お訪ねして。その……ええと。そう、近くを通りかかったものですから」

 

 対するジェフリーはというと、いっしゅん惚ける。それは“麗しのイヴリン”の輝くような笑顔に対する反応だったのだが、残念ながら笑顔の持ち主本人は気づかない。


「まあ、近くにお知り合いでもいらっしゃるのかしら? そうだ、エセルもすぐに来ますからね」


 イヴリンは、授業中だったエセルも呼び義母と三人でジェフリーを囲む。エセルの美点を見てもらおうと、勉強部屋から下りてきた妹へピアノを弾くよう勧めた。ショパンのピアノ曲をいつくか聞かせながら、横ではイヴリンがお茶を淹れる。義母の許可が出たので、二番目に良い茶器を使わせてもらえた。


「――いかが?」

「あ、はい。美味しいです、お茶」

「ふふ。違いますわ、ピアノの話です」

「あ。――お上手だと思います、少なくともうちの妹よりは。メアリのは、妹のピアノは危なっかしてくて、いつ間違えるのかとひやひやするんですよ、聞くほうが」

「まあ、だったら妹さんはわたくしと同じ側ね。エセルは練習熱心ですの、音楽が好きで」

「あなたは絵を描くのほうが好ましい?」

「ええ」


 うなずきながらイヴリンは、ピアノの前に座るエセルに目をやった。今日は白と青のストライプ模様のワンピース。最愛の妹が姿勢よくピアノに向かい、音楽を奏でる姿はいつもの光景だ。イヴリンが今まで何度も描いてきた、愛おしい日常の風景。


(……ずっとこのままだったらだめなのかしら)


 ほんの一瞬、ジェフリーの存在も何もかも忘れて思う。イヴリンにはエセルだけがいればいい。こうして姉妹ふたりで一生暮らしてはいけないのだろうか。それで充分幸せなのに、それの何がいけないのか。不実な夫に耐える生活よりはいいはずだ。


 幼いころに抱いていた、幸せのかたち。お伽話のお姫様のように、大人になったら王子様が現れるのだと無邪気に思っていた。給仕が手紙を運んでくるように、幸せもまた銀のお盆に乗ってやってくるものだと信じていた。


 だが大人になるまでもなく、それは幻想だと理解した。悲劇や喜劇を繰り返すうちに、人生はそんなに単純ではないと嫌でも気づく。自分が望む幸せのかたちすら今のイヴリンにはあやふやだ。エセルにとって何が一番良いか、考えあぐねている。


 音楽は心地よく響いた。エセルが奏でるピアノの音は、ひとつひとつの音に真心が籠っている。こんな演奏ができる妹は、どんな幸せでも掴めるはずだとイヴリンは思いたい。


 たとえば財産も身分もない人でも、誠実にお互いを労わる関係ならば幸せなはずだ。なぜならイヴリンだって、エセルとならどんな状況でも耐えられる自信があるのだから。


(そう、他に何もなくても、誠実に想い合えるなら。それだけできっと幸せ)


 そこまで考えたところで、またもあの言葉が蘇った。


――だからマーティンも、誠実なやつだろうと思って。


 あの言葉。どうしてそれが頭に残って離れないのか、わかっている。イヴリン自身の『ただ誠実であってほしい』という願い通りに、誠実だと思う人間を選んで紹介したウィリアム。本当は彼自身が誠実だったのではないか。少なくとも、エセルの良縁候補を彼は誠実に考えて探してくれた。『マダム専門の遊び人』のくせに、そこだけは誠実だった。


(……変な人)


 イヴリンは無意識のうちに微笑んだ。あの偽装婚約者のことを思い出すと、なんだかふっと笑ってしまう。


 しかし生憎、もともと美貌に恵まれた彼女の笑顔は若者を迷わせるには充分すぎる代物だ。つまり運悪く近くにいたジェフリーは、可憐にして端麗、美の女神の化身のごとき微笑みを目にしたことになる。


「……イヴリン!」

「――!?」


 物思いから覚めたイヴリンは驚愕した。いつの間に来たのか、ジェフリーがすぐそばにいたからだ。そして何を思ったか、彼女の手を強く握った。我知らず、イヴリンは身震いした。


「しっ。静かに、妹さんに気付かれてしまいます」

「何を」

「すみません、でもどうしても黙っていられなくて。もう我慢できないんだ、イヴリン」


 男爵夫人は部屋にいなかった。居間にはピアノを奏でるエセルと、椅子に座ったイヴリンとジェフリーの三人。何も知らずにピアノに熱中するエセルの後ろで、ジェフリーはイヴリンに熱く語り掛ける。


「あの、手を放して」

「嫌だ。こっちは初めて会ったあの夜から、ずっとあなたの顔がちらついて離れないんだから。一目惚れなんだ」

「!?」

「僕はあなたに夢中だ。イヴリン、最愛の人」


 これには呆然とした。ジェフリーはいったい何を言っているのか。よりによってエセルのいる場所で、なんという話をしてくれるか。妹に聞こえたら困るし、何よりイヴリンには。


「わたくしには婚約者が」

「わかってる。ランバート子爵はいい人だ、けど女性なら誰でも構わない人じゃないか。僕はあなたが傷つくのを黙って見ていられない」

「傷ついてなんて」

「ならどうして婚約指輪をしていないんですか?」

「いえ、これはその」

「どっちにしろ、あの人は必ずあなたを傷つける。イヴリン、彼と別れて僕と結婚して下さい。僕は本気だ、絶対にあなたを悲しませないと誓う」


(な……何よこれ。なんで? 相手が違うじゃない)


 なんと悪い冗談なのだろう。ジェフリーはそういう熱烈な誓いを、エセルに向けてしてくれるはずではなかったのか。だがどうやら冗談ではないらしい。


 ジェフリーは真剣そのものだ。彼は本気で求婚している。エセルではなくイヴリンに。



 それはそれは果てしなく困ったのだが、どうにか無理だと突っぱねた。幸いエセルは最後まで気づかず、その場は穏便に終わる。ジェフリーは帰るまで「絶対に諦めませんから」と言っていたが。


 その日の午後はまた、グレイ先生のためのトワレットの準備を手伝った。四角く切り分けたリネンの生地の端をかがって、結婚する二人のイニシャルを刺繍すれば、ハンカチが一枚できあがる。そうやってひとつひとつを、丁寧に作り上げていく。


「花嫁衣装は母の物を使う予定なんです。数年前に姉がそれで式を挙げましたので、今度は私の番。いつかそうするのが夢でした」

「すてき。ねえグレイ先生、ウェディングドレスって、昔は白じゃなかったって本当なんですか?」

「そうらしいですね。でも母の時代には、ウェディングドレスといえばもうみんな白だったようですよ。女王様と同じ白いドレスを着せたいって、亡くなった祖父が用意したそうです」

「わあ、いいお話! それで、頭にはレースのべールとオレンジの花を飾るの?」

「できればそうしたいですけれど。でもマーティンが仕事についたばかりですし、あまり贅沢はできませんから」


 エセルと来年には花嫁となるグレイ先生の会話を、聞くともなしに聞いているイヴリン。だが頭の中ではまったく別のことを考えている。


(どうしたらいいの)


 せっかくウィリアムが紹介してくれた良縁候補ジェフリーが、よりによってイヴリンに求婚した。ジェフリーには悪いが、イヴリンにとって大失敗に等しい。どうしてそうなるのと言いたい。


 この失敗は取り返せるのだろうか。今はイヴリンに向いているらしいジェフリーの気持ちを、どうにかエセルへと向けられないか。


(いやそんな、さすがにそれは、失礼にもほどがあるような)


 他人の気持ちをそう簡単に操作できるはずがないし、やってはいけないのだろう。いくら好かれていても、その好意を利用するような真似はできないと思った。

一方で、エセルのほうでジェフリーのことを好きになっている可能性はまだない。それは姉の勘でわかる。その点だけは自信があるので安心している。


(……となると、やっぱり失敗ってこと? あああ)


 ため息をつきたくなる。さすがにこれは、紹介してくれたウィリアムにも申し訳ない。

 エセルが心配するので、元気のない様子など見せられないが。


 イヴリンの目的は、裕福で、それなりに身分もある男性をエセルの夫にすること。最愛の妹が、一生何不自由なく暮らせるようにしてあげたかった。


 『エセルと二人で暮らせるなら、結婚なんてできなくたっていい』。


 それがイヴリンの本音だが、無理な願いであることもわかっていた。実家の援助はあてにできない。この時代、女が就ける職業など限られている。自分は良くても、エセルに苦労はさせたくない。


 待っていても、幸せが銀のお盆で運ばれてくるわけではないから。

 だから自分なりに頑張ったイヴリンの努力は、間違っていたのだろうか。


「――イヴリン姉様、お手紙は読んだの?」

「え? なあに」

「だから、お手紙。さっき届いたでしょう、ヴェラー先生から。なんて書いてあったんですか」

「ああ……そうね」


 機械的に手を動かしていたイヴリンは、エセルに問われて書き物机を見る。さきほど届いた一通の手紙は、かつてイヴリンの家庭教師だった人の手によるものだ。


「ヴェラー先生は、前からご自分で学校を開きたいっておっしゃっていたでしょう。女生徒向けの寄宿学校を」

「ええ、よく話してくれてましたよね」

「そう。それで手紙にはね、その学校の開校のめどがついたっていうお知らせが書いてああるの。資金集めが大変だったそうだけど」

「本当に!? すごい……とってもすごいじゃないですか! 姉さま、そのお手紙わたしにも読ませて」

「それはだめ。また今度ね」

「え……どうして!? 今読ませてくれてもいいのに。わたしもヴェラー先生の生徒でしたよ、ちょっとだけ」


 納得できないのか、エセルはじっと姉の顔を見る。その視線にイヴリンは心の中でたじろいだ。元家庭教師がイヴリンに何を言って来たのか、感づいているのでは、と。


「だーめ。ヴェラー先生はわたくしに手紙を下さったのよ」

「……なんかいつもと違います、イヴリン姉様」

「え?」

「あのかたと婚約なさってから、なんだか秘密ばかりですわ。前はなんでも話してくれたのに」


 エセルはどうやら拗ねてしまったようだ。


 イヴリンが必死になって機嫌を取ったためなんとかその場は収まる。だがエセルの、どこか納得していない態度は消えなかった。



 その日の夜だ。どこかの晩餐会から帰宅したブラント男爵が、長女を書斎に呼び出した。

 

 若い頃は痩せていたが、歳を経てだいぶお腹が出てきた長身。薄茶の髪はかなり後退している。鼻筋がまっすぐ通った顔立ちは豊富に生えた頬髯のせいでよく見えないが、若い頃は美男で有名だったそうだ。


 ウィスキーのボトルをグラスへと傾けながら、ツイードスーツ姿のブラント男爵ロナルドはその長女に告げた。ユージン叔父と違って躊躇などしなかった。


「イヴリン、喜べ。お前に縁談が来た」

「……はい?」

「それも大層なお方からだ。私もまさかと思ったが、先方は是非にと言っている。フェアファックス公爵が、光栄なことにお前を妻にと望んでおられるのだ」


 不謹慎にも、イヴリンは笑いそうになった。なにしろこれは、この日二件目の求婚だったので。

 社交界の女王ブラント男爵令嬢の遅すぎなモテ期は、今になってようやく到来した。




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