21.雨宿りな追憶
「『この前は美術館だったんだから、今度は博物館で出会うというのはどうだろう? ロゼッタ・ストーンの前で出会うとか、きっと強烈な印象に残ると思うんだが』……。もう、ふざけてるの?」
遊び半分ではないかと思われる提案に、イヴリンはこっそり不満の声を上げた。
なかなか直接会う機会を得られないため、ウィリアムとは手紙で打ち合わせをするようになった。どうやって結びつけるか、二人の計画はシンプルだ。エセルと新しい良縁候補ジェフリーを「自然な流れ」で出会わせ、そしてあわよくば恋に落ちるよう仕向けること。
ウィリアムの提案に一理あるのはわかる。社交界デビューしていないエセルは、まだ舞踏会などの夜会に出られない。昼間の集まりで引き合わせるか、または偶然を装ってどこか適当な場所で出会わせるか。そして彼は博物館を推すそうだ。
「場所、ねえ……。ここはどうかしら? 変? それとも遠いかしら」
偽装婚約者からの手紙を畳み、イヴリンは顔を上げた。視線の先では、エセルが軽やかな足取りで芝生の上を歩いている。花柄のコットンワンピース姿が可憐で、妖精の羽根がないのがおかしいくらいね、とイヴリンは相好をくずした。
「半年ぶりではないですか? ねえ、イヴリン姉様、それぐらい経ちますわよね!」
「そうだった? そうねえ、最近なんだかバタバタしていたものね」
今日、イヴリンとエセルは久しぶりに姉妹二人だけで出かけている。場所はロンドン南西のキュー・ガーデンズ。スケッチブックと色鉛筆を携えて、王立植物園の珍しい植物をスケッチしに来た。
夏が終わるとイギリスは一気に秋だ。木の葉が落ちるにはまだ早いが、天気の悪い日が増えてきた。二人は曇り空の下、歩道をすすむ。
庭園の敷地は広大で、珍しい植物、有用な植物を世界中から集めている。見学するだけでも充分楽しめる場所なので、とりあえずガラスと鉄でできた巨大な温室パームハウスへと向かう。
「でもあんまり変わった物を描いていたら呆れるのかしら。花の絵でも描いているほうが女らしいと思うんでしょうね」
「イヴリン姉様? 何のお話ですか」
「ううん、いいのよ。ここは見学だけにしましょう」
畳んだ手紙を道具入れの袋にしまい、パームハウスの入口へと進んだ。姉妹水入らずで出かけるのは久しぶりだ。気の重い悩み事はしばらく忘れて、南国植物の見学に専念した。
しかし温室を出て、いい景色を探してしばらく歩道を歩いていた時だ。
「大変! 雨が降ってきました」
重い曇り空はとうとう雨を抱えきれなくなった。強い雨が降り出し、二人を打つ。屋根のあるところへ行かなければと、慌てて走る。すると誰もいない東屋が見つかり、そこへ飛び込んだ。
イヴリンは屋根の下から空をのぞいた。
「困ったわね。傘はないし……ホーキンスが捜しに来てくれるのを待ちましょうか」
むりやり出て行くには雨が強すぎた。馬車に残してきた御者が捜しに来てくれるまで動けない。広い敷地内のどこにいるかもわからない自分たちを探すのは骨が折れるだろうと、御者のホーキンスの苦労を思う。
雨音が続く。厚い雲が立ち込めた空は暗く、すぐに止みそうになかった。植物園を訪れた他の客が何組か、足を早めて歩道を通り過ぎていく。運よく持っていたのか、それぞれ傘をさして。
黙ってその光景を見つめているうちに、気温まで低くなってきた。もう一枚ショールを持ってくればよかったと、イヴリンは無意識に片手でもう片方の腕をさすった。肌寒い。
(雨か……)
イヴリンは雨があまり好きではない。思い出すからだ。亡き母のお葬式の日も、こんな風に暗い雨の日だった。姉妹の実母エヴァは、急な病であっけなく逝った。
他家の貴婦人と変わらず、姉妹の世話は使用人任せだった母。だがイヴリンは好きだったし、母も母で、彼女なりに自分たちを愛してくれたと思う。過ごす時間は短かったが、その時間の中で、社交界がどれだけ華やかなで楽しい場所か、よく思い出話を聞かせてくれたものだ。美しく優雅な男爵夫人エヴァは、イヴリンの憧れの存在でもあった。
だから悲しかった。イヴリンはあのときほどつらい思いをした日はない。
広い屋敷の中、声を潜めて葬式の段取りを相談し合う大人たち。忙しく動く使用人にも、男爵夫人の急逝に慌てる親類たちにも、母親を亡くしたばかりの姉妹を気遣う余裕はなかった。
放っておかれ、忘れられて。幼いイヴリンには、世界が急に変わったように思えた。冷たく悲しくて、よそよそしい世界。ひとりぼっちになったのだと感じた。
雨は、あの日の気持ちを呼び覚ますから嫌いだ。だが。
「!」
過去を思い出していたイヴリンは、不意に現在に戻る。今、そばにある温もりを感じた。
冷えたイヴリンの手をとった、もうひとつの手があるから。
あの日と同じで、今も隣にいるエセル。姉と手をつないだエセルは、照れくさそうに笑った。
(エセル……)
途端に過去のつらい気持ちは消え去る。エセルはたったひとつの仕草でイヴリンの心を温めてみせた。大切な大切な妹。エセルは変わらない。変わらない、優しい少女だ。
お葬式の日のこと。イヴリンがひとりで泣いていたら、小さな手がビスケットを差し出してきた。
あの時のエセルはたった六つだったが、悲しむ姉を慰めせてくれた。自分も涙を流しながら、泣いているイヴリンに自分の好物のおやつを差し出した。ささやかな、でもとても大きな献身。あの日からエセルは、イヴリンの最愛の宝物だ。
今も隣にいる妹を、ぎゅっと抱きしめたいという衝動にかられた。だが代わりにその手を強く握る。微笑み合った。
言葉はない。雨の中を行き交う人通りはすっかり絶えて、雨の音だけがその場にある。
しばらく手を繋いだまま雨を眺めていたら、また新たに足音が響いて来た。ぴしゃぴしゃと激しく水をはねている。
イヴリンがそちらを見ると、ひとりの紳士が歩み寄ってきている。黒く大きな傘を差しているため、相手がフロックコート姿だということしかわからない。服装からして御者ではない。その紳士は歩道を外れ、この東屋へとまっすぐ歩を進めている様子だった。早足で。
「ウィリアム?」
まさかそんなはずはない、と思いながらも無意識につぶやいた。相手があまりに迷いなく近づいて来るせいだ。
しかし、傘の下からのぞいた顔は別人のもの。イヴリンは自分でも知らないうちにため息をつく。
「失礼ですが、イヴリン・ブラント男爵令嬢では?」
黒い傘の下で目を輝かせているのは、温厚そうな雰囲気の青年だった。ジェフリー・ドレイクは傘を持ち上げると、帽子の端を上げてイヴリンに挨拶する。どこか嬉しそうに。
「こんにちは。偶然ですね、覚えていますか、僕のこと?」
「まあ、こんにちはドレイクさん! 驚きましたわ、まさかこちらで会うなんて」
にこにこと笑うジェフリーは、傘を畳んで東屋に入ってくる。大柄な彼はイヴリンを見下ろして言った。
「覚えていてくれて嬉しいな。雨に感謝だ」
「はい?」
「いえ、こちらの話です。もしかしてそちらのお嬢さんは」
「ええ。こっちは妹のエセルですわ、お話ししていた」
なんという幸運、とイヴリンは心の中で快哉を上げた。自分が一瞬落胆したことなど、すぐ忘れて。
(まさか偶然ここで会えるなんて! 運命的だわ)
ここで偶然を装って会わせたらいいのではと内心考えていたイヴリンは、ただちにそれが叶ってしまった。これこそ運命の出会いなのではと、勢い込んでエセルを紹介した。
初対面の男性の前で、エセルは半分イヴリンに隠れながらぎこちなく挨拶する。奥ゆかしいエセルに対し、ジェフリーは朗らかに笑った。微笑ましい、とでもいうように。
「いやあ、うかがっていた通りのお嬢さんですね、イヴリン嬢にそっくりだ。それで、お二人は今日どうしてこちらに? その荷物、もしかして」
「ええ、今日はスケッチをしようと思って。でも何かを描く前に雨が降ってきてしまいましたわ」
「ああ。もしかして雨宿り中でしたか」
「傘をうっかり忘れてしまって。あなたはしっかりしてらっしゃるのね」
今日はたまたま用意がよかっただけです、とジェフリーは謙遜した。
姉妹と少しばかり世間話をした後、ホーキンスの名前と特徴を聞くと、ジェフリーは東屋から出て行ってしまう。しばらくして戻って来た時には、その御者を連れていた。探してきてくれたらしい。
なんて親切なのかしらと、イヴリンは感激しながら礼を伝えた。照れくさいのか、ジェフリーはイヴリンの顔から目を逸らしつつ言う。どこか上ずったような口調で。
「これぐらいは当然のことですよ! あの、ホーキンスの傘にも三人は入らないでしょう? よろしければ僕もあなたがたを馬車までお送りします。どうぞ」
どうぞと言って、ジェフリーは手を差し出した。イヴリンに向けて。
だがイヴリンとしては、ここはぜひエセルと二人で傘に入ってほしかった。
「ありがとうございます。では妹をお願いしますわね」
「え。あ、いや。イヴリン嬢、僕の傘のほうが大きいですよ、濡れずにお連れできます」
「よかったですわ、エセルのドレスが濡れませんわね。本当に助かります」
イヴリンは御者のさす傘に入ると、先に立って歩き出した。引っ込み思案な妹を、さっき会ったばかりの男性と二人にして大丈夫なのか、心配はある。しかし。
(しっかり、エセル! ああでも、これはわたくしにも試練だわ。いきなり相合傘なんて許せない、死ねばいいのに……って違うでしょ! これもエセルの幸せのためなんだから)
妹には内心でエールを送る姉は、一方で、割って入って邪魔したくなる自分を必死になって抑える。視界に入れると嫉妬で我を忘れてしまうかもしれないので、後ろを見もしない。
だから彼女は気づかなかった。
雨の中を共に歩くエセルとジェフリーの会話が、あまり弾まないことに。黙りがちなジェフリーの視線が、ずっとイヴリン自身に向けられていたことにも。そしてジェフリーにはジェフリーの考えがあって庭園に来ていたのだが、それにももちろん気づかない。
縁結びがうまく滑り出したと喜ぶイヴリンが、非常に気を良くしながら帰った自宅。しかしそこでは思いがけない相手が彼女を待っていた。
イヴリンの帰りを待っていたのは、ウィリアムからの使いだ。子爵の従僕は、なぜか玄関からではなく、裏口から尋ねてきた。そしてオコナー自身は思いがけない人間ではないが、持ってきた伝言が予想外の内容だった。
「指輪を返してほしい、ですって?」
「はい。御前はお貸ししている指輪が急に入用となったそうで。大変申し訳ないと繰り返していましたが」
「……わかったわ」
首を傾げながらも、イヴリンは自室から指輪を持ってくる。白い封筒にエメラルドの指輪を入れ、オコナーに渡した。いきなりどうしたのかと、気になって尋ねた。
「何かにお使いになるのかしら? ひょっとして……本気で婚約したいお相手でも?」
「私めにはわかりかねますが。しかしすぐにあなた様に返すと申しておりましたよ、御前は。ちょっとお借りしたいそうです」
「借りているのはわたくしのほうですのに。どうぞ、ご自由に持って行って」
すぐに返すという言葉に、なんだ、と思う。ますます意味がわからない。
「ではお預かりします、お聞き届けいただきありがとうございました。――どうぞお楽しみに」
細い目をきゅっと弓型に曲げ、オコナーは謎の微笑みを浮かべた。




