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2.崖っぷちな令嬢


 さかのぼること、二十数分前。

 その夜イヴリンは、ある舞踏会に出席していた。そしてショックを受けていた。


「――ああ? さっきのあの娘が噂の“社交界の女王”なのね。初めて見たわ」

「そう。あの金髪の、ピンクのドレスの子。あれが“社交界の女王”、ブラント男爵家の娘よ」

「それにしても“社交界の女王”って……ふ、ふふふふ。生意気にもほどがありますわよね。しかもあのひどいドレス! 母親の衣装箱から引っ張り出してきたみたい」

「田舎男爵ふぜいの娘ですもの、流行なんて知らないのよ。しかも成金でしょ、あの家は」


 華やかなドレスで着飾った娘たちが、笑い含みにそう語っている。金糸銀糸で飾った扇子で上品に口元を隠してはいるが、その笑いの底には、隠しようのない揶揄の響きがこもっていた。


 しかし自分たちの真上に、噂の本人イヴリンがいるとは、まったく気づいていない。


 天井高い舞踏室には、二階に相当する部分に回廊がめぐらしてあった。その回廊の上で、イヴリン・ブラント男爵令嬢は自分に関するうわさ話を耳に入れてしまったのである。


 イヴリンは男爵家の長女だ。おととしめでたく十七歳となり、社交界デビューを果たした。デビューというのはすなわち婚活市場へのデビューである。その日を指折り数えて待っていたイヴリンはあの春、かたく誓ったものだ。必ず良縁をつかんでみせる、と。


 田舎の男爵領から、大英帝国の中心地ロンドンへと気合を入れて乗り込んだ。女王陛下への拝謁も無事済ませ、お茶会に舞踏会、イヴリンのようなデビュタントが経験するイベントはどれも成功した。うまくいくように努力してきた。


 そして思惑どおり、その年、イヴリンという存在はロンドン社交界の話題をさらった。


 長くつやのある髪は黄金のように輝き、大きな瞳はエメラルドのごとく澄んだ緑。まろやかな女性らしい体型に、ほっそりと長い手足。雪花石膏(アラバスタ)から掘り出したような美貌は可憐にして端麗、美の女神より惜しみなき贈り物をもらっている、などと語られたものだ。


 生まれ持った武器はこの美貌だけというイヴリンだが、おかげで社交界デビュー二年目にして、こう呼ばれるようになった。


『社交界の女王、麗しのイヴリン』、と。


 そして現在、三年目の社交季節シーズン。婚活の一環としてとある舞踏会に出席したイヴリンは、少女たちの話を耳にしてショックを受ける。


 だが真下にいる、イヴリンと同年代らしき娘たちの話はまだ終わっていない。


「本当に生意気よね。いくら美人でもたかが男爵家の娘よ。美しくて、それでもっと高貴な方々なら他にいくらでもいらっしゃるのに。その中で女王を気取ろうなんて……滑稽を通り越して哀れだわあ」

「あらあら。哀れだなんて、同情してあげる必要ないわよ。本人は知らないもの」

「そうよ、知らないから平気なのよね。今年なんて、舞踏会だろうが晩餐会だろうが、会につくものぜんぶ見境なしに押しかけているらしいじゃないの。たかが成金が、厚かましいと思われているとも知らないんだわ」

「ねえ。ここでも得意そうな顔していたではありませんの。女王だなんて呼ばれて有頂天なのよ。私は世界で一番美しいんだわ、とでも思ってますわね、きっと」

「そうかしら? でもねえ」


 ひたすら笑われている。


 少女たちの会話を要約すると、『社交界の女王』というのは決して誉め言葉ではないということだ。“まるで女王のごとくお高く止まったブラント男爵令嬢”を、こっそり笑うための言葉らしい。


 それだけでも充分イヴリンには衝撃だったのだが、彼女はさらに肩を落とすことになる。こんな言葉が聞こえたからである。


「でもねえ、わたくしにはわからないわ。だってどうやったら得意そうにしてられるというの? だって彼女、今夜なんてずっと壁の花をしているじゃないの!」


 そんな言葉を合図にして、少女たちの笑いは一気に明るくはじけた。

 イヴリンはもう聞いていられなかった。


 欄干から手を離す。ふらり、とその場から一歩下がった。


 彼女たちの話は事実だ。

 今夜の舞踏会で、イヴリンはずっと壁の花をしている。ダンスに誘ってくれる相手がいない。男性の出席者が少ないせいでもあるのだが、ただの一度も声がかからないのはこれが初めてかもしれない。回廊にいたのも、他の娘がどんどん誘われていくのを横で見ているのがつらいからである。


 社交界の女王とまで呼ばれる自分が、なぜ。

 イヴリンがずっとそれを考えていたところに聞こえたのが、さきほどの話だった。


 馬鹿にされてたんだわ、とイヴリンは口の中でポツリとつぶやいた。


 くちびるをかんだ。手をぎゅっと握り込んだ。しかし涙は意地でもこらえる。


 三回目の社交季節シーズン

 結婚なんてすぐに決まる、とイヴリンが思っていたのは本当だ。客観的に見ても彼女は美しい。健康で、人柄も明るくついでに話し上手だ。縁談など山のように来てもおかしくない、いや来るべきだろう。家の事情で持参金がほぼないに等しいことが欠点とはいえ。


 しかし結果はというと、三回目にして壁を飾る花となっている。

 これでは社交界の女王というよりも、売れ残りかけた崖っぷち令嬢だ。それがイヴリンの現実である。


「誰かに何か生意気なことでも言ったのかしら……気をつけたつもりなのに」


 こうなった原因を考えた。『社交界の女王』などと、イヴリンが自分で名乗った覚えはない。気がついたら呼ばれていたのだ。いったいどこでどう間違えたらこんなことになるのか。


「どうしよう……エセル」


 イヴリンにとって唯一無二の宝物の顔が頭に浮かぶ。そう、すべてはあの子のためだ。


 イヴリンにはどうしても良縁をつかまなければならない事情がある。それを考えると、こんなところで立ち止まっている場合ではないと焦る。焦ってはいるが、何をどうしたものか。わからなくなった。


「はあ……」


 ため息をついたイヴリンの下では、さきほどしゃべっていた娘たちが、みなそれぞれ申し込みを受けてダンスの場へと踊り出て行った。恥ずかしそうに、だが嬉しそうに。しかし二階にいる社交界の女王を誘い出す人はいない。


 ここでイヴリンの心はぽっきり折れた。舞踏室から目をそむけ、回廊をとぼとぼと歩き始める。そして衝動的に、二階の別室へとつながる扉を開いてみた。そこは暗い廊下だったが、かまわず進んだ。


 こうしてブラント男爵令嬢は、婚活会場である舞踏会からひとり哀しく姿を消した。


 舞踏会の会場となっているのは、ある貴族が所有する屋敷だ。上流階級たちが集う、ロンドンの社交場のうちのひとつとして使われている。そしてあてどなく廊下を歩くイヴリンは、ふと思い出す。


「そういえば、『マーチ姉妹の肖像』がここにあるんじゃなかったかしら」


 イヴリンの好きな画家の絵が一枚、この屋敷に収蔵されていると事前に聞いていた。それを見てみたくなってきた。


 途中ですれ違った給仕から場所をきくと、朝食室に飾られているとのこと。

 勝手に入るのは無作法だとわかっていたが、一目だけだからと自分に言い訳する。


 部屋はすんなり見つかった。静かにそっと入る。扉を閉めると舞踏会から届く喧騒も止んだ。部屋の灯りは消えているが、窓から瓦斯灯の光が入る。そして大きな暖炉の上に目当ての絵があった。


「やっぱりちょっと暗いわね」


 イヴリンは苦笑した。残念ながら暗すぎて絵の内容がよく見えない。肩を落とし、それでやっと冷静になった。こんなことをしている場合じゃないでしょう、と自分を叱咤する。


 舞踏室に戻るか、それとももう帰るか。どちらにせよ部屋を出ようと、イヴリンがきびすを返した時だ。


「――!」


 部屋の扉がいきなり開き、誰かが入ってくる。飛び込んできた、といったほうが正しい勢いだった。イヴリンは隠れる間も逃げる間もない。その何者かは、何やら慌てている様子だった。


「! おい、誰かいるのか?」


 驚いたのはイヴリンだけではなく、相手も同じだった。ここに先客がいるとは思わなかったらしい。


「あの、わたくしは別に。ただ絵を」


 ただ絵を見たかっただけですわ、と言う前に相手は彼女のところへ歩み寄ってきた。イヴリンはとっさに身動きできない。見上げると、入って来たのは夜会服姿の紳士だ。知らない人間で、さっきの舞踏室で見た覚えもない。


 その時だ。廊下を走る乱雑な音がした。こちらに近づいてくるらしい。その音に振り返った紳士は、困ったようにつぶやく。


「まずいな、見つかったかも」

「何事ですの? 勝手に入ったことは謝りますけれど、でも」

「失礼、お嬢さん。悪いが静かにしてもらえますか――いや、それよりも」

 

 静かにしてほしい、と一度は頼んだ彼だが、再度イヴリンに目を向けた。何を考えたのか、はっと息をのむ気配がした。


「協力してくれないか。君も、目の前で人がマスケット銃で撃たれるのを見たくないだろう?」

「え!? う、撃たれるって、どうして」

「説明は後で。いいか、君はただ『イエス』と答えてくれるだけでいい。芝居だよ、ほんの数分でいいんだ。ひと芝居付き合ってくれ」


 紳士がそこまで説明したとたん、その場が一気に騒がしくなる。扉が再び開き、人がなだれ込んできた。


 怒鳴り声がひびく。年配の男性のものらしかった。


「ランバート! そこにいるのはわかっているぞ」

「やれやれ、こんなところまで追ってくるとは。いったい何しに来られたのですか、フェザーストン将軍?」


 ランバートと呼ばれて答えたのは、たった今イヴリンに頼みごとをした紳士だ。激しい怒鳴り声に対して平然と答えている。


 誰かが部屋のランプに火をともした。明るくなった部屋で、やっと彼女はその紳士の顔が見えた。後から入って来た人々も。軍服姿の老人がいて、それが「将軍」と呼ばれた人だと察した。


 そしてイヴリンは息が止まるかと思った。老人は、本当に銃を構えている。


「やっと見つけたぞ、のらりくらりとウナギのように逃げおって。だがもう逃がさん、今夜こそ貴様をこの銃の餌食に」

「将軍、ご高説を止めて申し訳ありませんが、しかし邪魔しないでくれますか。僕はいま、人生で最も大事な用事に取りかかったところなのです」

「なんだと?」


 銃口を前にしてもなお泰然自若とした紳士は、激怒する老人のほうを見もしなかった。その視線はイヴリンに向けられている。いかにも真剣そうに彼女を見つめている。


 イヴリンの右手をうやうやしく取ると、その場にひざまずく。そして言った。


「僕と結婚してくれますね?」


 この状況にイヴリンはいまだついて行けていない。唖然とする彼女の右手を、相手の手が一瞬強く握る。それで我に返る。芝居を頼まれたことを思い出した。


「は……はい」

 

 だからイヴリンはおずおずと答えた。「イエス」と。人が撃たれるのは見たくないので。




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