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18.無関心な人たち



 画用紙の中のエセルの瞳にハイライトを入れていたイヴリンだが、いつしかその手は止まっていた。


「イヴリン姉様?」


 日課の妹スケッチの最中だ。止まった手に気付いたのか、エセルが声をかけてくる。

 

「お姉様? どうしたの、ぼんやりして。もう動いていい?」

「……。ううん、なんでもないわ。エセル、お願いもう少しだけ」


 考え事をしているうちに、手を止めてぼんやりしていたらしい。我に返り、今は絵に専念する。素描とはいえ、これは日課だ。もともとは『宿題』でもあった。


「いいですけれど。イヴリン姉様、わたしばかり描かないで、たまには他の人にしては? グレイ先生に頼んだっていいのに」

「ヴェラー先生は描きたいものを書けと言ったもの。わたくしはエセルを描きたいの、それにグレイ先生もたまに描くわよ。なに、エセルはもう毎日付き合わされたくない?」

「ううん。慣れたからいいんですけど……姉様が描くとなんだか別人みたいでいたたまれなくって。わたし、そこまで可愛くないです」

「エセルより可愛い女の子はいないわ。――終わりよ、ありがとう。授業に行って」


 ためらいなくきっぱり断言しながら、イヴリンの手は画面中のエセルの頬に赤みをのせる。これで今日の分は完成だ。モデルを解放し、ガヴァネスのところへ向かわせる。


 『ヴェラー先生』は、かつてイヴリンのガヴァネスだった人だ。そして彼女がブラント家を去る時に、イヴリンにこの宿題を残していった。“一日一回でもいいから描き続けること”。それが、この毎日の妹スケッチへとつながっている。


「うーん」


 エセルが行った後、絵を眺めて首をかしげる。今日の出来栄えには納得できない気がした。構図があやふやで、エセルの表情もあいまいだ。集中して描いた感じがしない。


 そして集中できなかったのは、時折ふっと頭に蘇ってくるせいだ。


――だからマーティンも、誠実なやつだろうと思って。


 昨夜の彼の、この言葉がどうしても気になってしまう。どうしてかわからない。しかし気がついたら思い出して、ぼんやりしてしまう自分がいる。


「……。やめやめ、もう考えない」


 思考をきっぱり切り替えた。絵もとりあえず置いておき、イヴリンは自室に戻る。陶器の小物入れから取り出したのは、借り物の指輪だ。


 偽装婚約者から借りた、婚約指輪。その内側の刻印をもう一度よく見てみる。


『W to A』。

ウィリアムから、


「“アリス”へ……」


 昨夜会った伯爵夫人の名前はアリス。まさしくAだ。

 そして何より、指輪の嵌められたこの宝石。美しく深い緑のエメラルドは、イヴリンの瞳の色にもよく似ているが、それにも増して似ていたかもしれない。


 人形めいた美貌の中で、あの瞳は生き物だった。優しく微笑み、または強くねめつける、人間の目だ。セジウィック伯爵夫人の瞳もまた、澄んだ美しい緑だった。


「……これ、わたくしが持っていていいのかしら」


 指輪の刻印、宝石の色。それに何より、昨夜のウィリアムの様子はおかしかった。外から見てわかるほど動揺していた。あの伯爵夫人に会ったせいだろうか。


 自分の推測が当たっていれば、伯爵夫人アリスとウィリアムとの間には何かある。それに気づいたイヴリンは、なぜだか途方に暮れてしまう。


 するとそこへ、いきなり自室の扉が乱暴に開かれる。


「イーヴリン!」

 

 素っ頓狂、というほどの大きな声だった。子ども特有の高い声でいきなり呼ばれ、思いに沈んでいたイヴリンは全身で驚く。

 顔を上げて見ると、そこには小さな子ども。半ズボン姿の男の子が戸口に立っていた。


「エドマンド!?」

「イヴリンおねえちゃま!」


 男の子はイヴリンに駆け寄ると、バッとスカートに抱き着いてくる。少しよろめいたイヴリンは指輪を小物入れに戻し、腰を落としてエドマンドを、小さな弟を抱き締めた。


「驚いたわ、エドマンド。いつ帰ったの?」

「いまだよ! ね、マシューよりさきにキスして、おねえちゃま」


 イヴリンは微笑むと、小さなエドマンドのおねだり通り、そのふっくらした頬に親愛のキスを贈る。

 まだ四つのエドマンドは、金褐色の髪の幼児だ。イヴリンの父と、その後妻である継母との間に生まれた異母弟である。


「今日来るとは知らなかったわ」


 幼児のふくふくした頬を両手で優しくはさみ、その感触を楽しむ。可愛い盛りだ。


 しかしエドマンドに対する愛情とは別に、イヴリンの心は沈んでいく。小さな子どもが一人で、地方にあるブラント男爵領からロンドンの家に来るはずがない。誰かが連れて来たのだ。


「あ! イヴリンねえさま、みいつけた!」


 すると今度はもうひとりの異母弟がイヴリンを見つける。戸口に現れたのは、水兵のようなセーラー襟の子供服を着た、エドマンドよりも少し大きな男の子。このマシューこそブラント男爵家の跡取り息子だ。


「マシュー、イヴリンおねえちゃまはもうぼくのだよ。ぼくの勝ち!」

「ふん、言ってろエド! エセルは僕のが先だし、イヴリンにもキスしてもらうんだからな! イヴリン姉さま、僕にも僕にも」

「はいはい。いったい何を競争しているのかしらね」


 年の離れた姉のキスを、競うようにしてねだってくる弟たち。一緒にいる時間があまりないにも関わらず、母親の違う姉たちを無邪気に慕ってくれている。それはイヴリンにも嬉しいことだ。


 興奮気味な弟たちに両手を引かれながら、イヴリンは部屋を出る。階段を降りて行くと、その途中で行き合った。


「――あらあら。家に入った途端、二人とも一目散に階段を駆け上がっていくから、どうしたのかと思えば」


 この日ロンドンの家にやって来たのは、もちろん小さな弟たちだけではなかった。二人の両親も一緒だ。階段を上がってくるのはその片方、エドマンドたちの母親だった。


 ブラント男爵の二度目の妻、サマンサ・ブラント男爵夫人。息子たちと同じ金褐色の髪を持つ、朗らかな雰囲気の女性だ。モスグリーンの生地に様々な色糸で刺繍を施した、仕立ての良いケープ付きの旅行用ドレスを着ている。アメリカ出身で、ロンドン社交界に出て来ることはあまりなく、領地で一年のほとんどを過ごす。


「まあイヴリン! 相変わらず綺麗ね、ううん、前よりもずっと綺麗になったんじゃないの?」

「いえお義母様、そんなことは」

「やっぱり若いっていいわねえ、そういえば何歳になったんだったかしら? 十七? 十八?」

「もうすぐ二十歳になりますわ」

「本当に!? 驚いた!」


 言葉を交わす義理の親子。目をみはって驚いたサマンサ夫人だが、その視線はすぐに息子たちへと注がれる。サマンサ夫人は微笑むと、イヴリンと繋いでいたマシューとエドマンドの手を、自分の手へと取り戻した。

 

「気がつかなくて悪かったわね、だってこの子たちの世話があるでしょう。乳母がいるといっても、やっぱり自分で何かしてあげたいじゃない? それにハリソンばあやは油断すると甘やかしてばかりなのよ、母親の私がときちんと躾けないと」

「ええ、でも――」

「わかっているわ、それが貴族のたしなみだと言うのでしょう。でも子どもたちに何をいつ食べさせて、何をして遊ばせるとか、何時にベッドに入れるとか、どうして私が決めてはいけないのかしらね、母親なのに。――ああ、ハリソンさん」

「奥様。お子様方はわたくしにお任せを」


 噂をしていたら、その当の乳母が現れた。たった今、サマンサ夫人がイヴリンから取り上げていった子どもたちの手を、さらにハリソン乳母が持って行こうとする。


「いいのよ、ハリソンさん。私が二人を育児室に連れて行きます」

「奥様はお忙しいでしょう、侍女のスペンサーが捜していましたよ。昼食のためにお着替えを、と。旅装も解いていただかないと」

「あらそんなの、旅行鞄だけ開けておいてくれればいいのに」

「そんなわけには参りませんし、それはご自分でおっしゃって下さい。お部屋でスペンサーがお待ちしています、お早くどうぞ」


 取り付く島もない。子どもたちを取り合う母親と乳母の闘いは、ここでは乳母の勝利に終わった。

勝利したハリソン乳母がイヴリンの弟たちを階上の育児室へと連れて去る。するとサマンサ夫人は義理の娘相手に愚痴をこぼし始めた。


「いつもあの調子よ。ハリソンさんたら、まるで自分の子どものようにしているの。どちらが母親なのかわからないわ」

「あらでも、乳母ってああいうものですわ。わたくしたちの乳母だったエリオットさんも」

「子どもが母親と会うのはお茶の時間だけというのでしょう? おかしいじゃない、実の親子が触れ合う機会がそれだけだなんて。これだからイギリス人は情がないなんて言われるんだわ。私の国では――」


 英国貴族の上流夫人が、自分の子どもの世話を乳母やメイドに任せきりというのは、決しておかしな話ではない。むしろそちらが常識だ。

 だがアメリカ生まれのサマンサ夫人はそれが気に入らないらしい。マシューを産んでからというもの、乳母に反発し続けている。子育ての主導権を争って。


 義理の母親が着替えのために部屋へ戻る道すがら、イヴリンはずっとその愚痴を聞かされ続けた。待ち構えていた侍女にサマンサ夫人を譲り、やっと解放される。


「……ふう」


 あの継母は相変わらずだ。頭にあるのは大事な自分の息子たち。次に自分自身だ。


(あの様子なら気づいていないわね。よかったと思っておきましょう)


 もう一度ため息をつく。自分がほっとしているのか落胆しているのか。イヴリンにもわからない。


 サマンサ夫人は決して悪い人間ではない。無下に扱われたことはなく、厳しく何かを制限された覚えもない。本人にも、イヴリンとエセルを冷遇しているつもりなどないだろう。会えば仲良く口をきくし、先妻の残した娘たちの美貌に嫉妬する様子もない。


 ただ、ひたすら無関心なだけだ。義理の娘たちの成長や将来を案じたことがない。


 イヴリンが婚活でどれだけ苦戦しようとも、義母である自分が付き添ってやるつもりも、持参金を増額してやろうとも考えない。義理の娘の結婚を邪魔したいわけではなく、思いつきもしないだけ。


 その無関心の極めつけとして、婚約したことにも気がついていなかった。偽装だが。


「イヴリンお嬢様! どうも、ご無沙汰しておりました」

「ああ。ノーマン、久しぶりね」


 廊下では男爵家の執事のノーマンと久しぶりに顔を会わせる。そこで初めて気がついた。


 これまでひとけがなく、ほとんど静まり返っていたブラント男爵邸。しかし今は、動き回るメイドや給仕の気配がそこら中にある。使っていなかった部屋の窓を開けて掃除し、家具から掛け布を取る者たちがいる。厨房からはこれから始まる昼食に向けて、家政婦のレイトンがキッチンメイドを指揮しているだろう。ブラント家の当主が、このタウンハウスに帰還したのだから。


 使用人が増えたので、イヴリンとエセルの生活も楽になる。それだけは安心だ。

 ノーマンも当主と共に、男爵領から出て来たばかりなのだろう。その執事に尋ねる。


「お父様もご一緒ね?」

「はい。先ほどは着替え部屋におられました」

「話はできそう?」

「いかがでしょうな。昼食までにお電話を二、三本かけるとおっしゃってましたが」

「そう……」


 春の終わり頃から、夏の終わりまでの数か月。娘の偽装婚約に気づきもしないのは、父親も同じだ。こちらはサマンサ夫人とは違い、何度もロンドンに来ているが。だがブラント男爵は滅多に自宅に立ち寄らず、自分が所属するクラブで寝泊まりし、用が終わるとまた領地へ帰ってしまう。父にとって大事なのは投資と領地運営。それから議会、その後に跡取りである息子たちがくる。先妻の忘れ形見のことなど、サマンサ夫人以上に頭にない。 


 社交界デビューの時もそうだ。形ばかりお披露目の舞踏会を開くと、それでお終い。拝謁を祝うお茶会(トレーンティー)もその後の婚活にも知らん顔。イヴリンはリビー叔母たちの力を借りて乗り切るしかなかった。


 この両親がそろって何をしにロンドンへ来たのか知らないが、イヴリンはわかっていた。それは決して娘たちのためではない。

 イヴリンたちは両親にとって空気のような存在だ。だからこそイヴリンは、自分がエセルを守らなければと強く思う。


(……いいわ。このまま隠しましょう、ウィリアムのことは)


 無関心だが、婚約したとなると話は別だ。しかしいまだに何も言って来ていない。


 付き合う階層が違うのか、交友関係が重ならないのか。ブラント男爵はいまだに我が娘とランバート子爵の婚約の噂を知らないようだ。アメリカ人で、英国の社交界に疎い継母も同様。

 ならばイヴリンとしては、このまま何も知らせずにおきたい。穏便にエセルの縁談がまとまるまで、極力話さないことにした。発覚し、婚約から話を先に進められても困る。


 と、そこへ給仕がイヴリンのもとへくる。銀のお盆を手に。


「お嬢様にお手紙が届いております」

「手紙?」


 給仕が捧げ持つお盆から手紙を取り上げ、その場で開く。そのイヴリンの顔がさっと青くなった。


「どうしよう」


 差出人はウィリアム。今日の午後に訪問したい、という内容だった。




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