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16.カモフラージュな歌劇場


「聞いたよ、ライル君のことは」

「……」

「僕も彼の父親から感謝された、きっかけを作ったって。聞けばグレイ先生も、元はちゃんとした家の娘さんだったそうじゃないか、父親の急死で働かざるを得なかったようだが。苦労人なんだね」


 そう小声でささやいた。さすがに苦笑しているようだ。イヴリンの共同計画の仲間にして、偽装婚約者でもあるウィリアムは。

 

 周囲は闇に沈んでいるが、人の息づかいや衣擦れの音が、その場に大勢の人間がいることを伝えてくる。イヴリンが観ている方向は、そこだけライトが当たっていて明るい。その舞台の上では、ソプラノとテノールの二重唱が始まろうとしていた。


 イヴリンが思っていたより長く旅に出ていたウィリアムは、帰国早々彼女を誘い出した。偽装婚約中の二人は今夜、コヴェント・ガーデンにある歌劇場へオペラ鑑賞に来ている。


 不届き者な子爵は、曲の余韻がまだ残っているというのに、またも彼女の耳へとささやきかけた。


「さっきのシーン、君みたいなことを歌っていたね。『私に惚れるな』だってさ、美人というのは皆つれないんだな」

「……あのですね。初めにそうおっしゃったのはそちらでしょう」

「そうだったか? いやあ、自分で言ってなんだが、惚れるなと言われると逆に気になってしまうかもしれないな。失敗だった?」

「ご心配なく。忘れてませんわ、偽装です」


 マナー違反だと思ったが、イヴリンも黙っていられず答えてしまう。口をつぐむと、さっき貸してもらったオペラグラスを膝の上から取り上げた。


 ウィリアムが彼女を招待したのはボックス席で、他の観客とは隔てられている。そのしつらえがまた無駄に豪華で、眠ってしまいそうなほどふかふかなひじ掛け椅子からはじまり、暖炉や専用の手洗いまで備えていた。二人の背後ではいつでも用を務められるようにと、オコナーが控えている。


 オペラは幕間に入り、観客には休憩時間となった。

 「ちょっと用がある」と言ってウィリアムが席を外す。しかし戻って椅子に収まると、すぐにまたしゃべり始めた。


「それにしてもイヴリン。君がちゃんと返事をくれたことには驚いたよ。しかも律儀に一回ごとに」

「え?」

「手紙だよ。手紙のひとつも送り付けないと婚約の信ぴょう性を疑われるだろうと、適当に思いつくまま書いていただけなんだが」

「ああ、あのくだらない内容はそういうことでしたの。『赤毛組合はなぜ解散してしまったんだろうな?』なんて訊かれて、どうしろというのかと思いました」

「はは。『ズボンの泥を払ってくれる従僕がいなかったせいでしょう』、だったか。鮮やかに答えてもらえて嬉しかったよ。意外と大衆誌を読むんだね」


 ウィリアムの不在は長かったが、その間、この偽装婚約者はイヴリン宛てにまめに手紙を送ってくれていた。しかし内容はどれもこれも益体もないことばかり。もちろん恋文めいた文章でもなく、何がしたいのか今までさっぱりわからなかった。


 最初の手紙に返事を書いた流れで、無視することもできずイヴリンはいちいち返事を送った。ようするに文通していたということだ。はからずも、本物の婚約者同士のように。


「それでね、イヴリン」

「なんでしょう?」

「なんだか遠くなっていないかな、椅子」


 ウィリアムの指摘にイヴリンはギクリとする。ボックス席に置かれた二脚の椅子、そのあいだは奇妙なほど遠い距離が空いていた。手を伸ばしても届きそうにないくらい遠い。


「さっきまですぐそばだっただろう? 僕がいない隙に移動した?」

「気のせいですわ」

「オコナー」

「イヴリン様のご要望で私が動かしました」


 裏切り者、とあっさりと白状した従僕を振り返った。椅子を動かしてくれたオコナーの姿は、それこそ真っ暗闇で何も見えない。姿かたちを闇に隠した妖精従僕は、こう続けた。ごく平然と。


「賢明なご判断かと存じます」

「……おい。オコナー、僕を何だと思って」


 非常に憮然とした口調に、イヴリンは吹き出した。笑いがもれてしまう。


「ありがとう、オコナー。あなたは紳士ね」

「おそれいります。紳士に仕える者もまた紳士なのでございます」


 そんなやりとりを前に、ウィリアムがぼやいている。そこで妙な同盟を結ばないでくれ、とか何とか。自業自得だとイヴリンは思った。


 そうするうちに休憩は終わり、ふたたび幕が上がる。客席から灯りが消えた。


(落ち着かないのはこの人のせいだわ)


 そう広くもないボックス席。周囲は暗い。すぐ隣に置かれた椅子にいるのが、イヴリンは落ち着かなかった。ウィリアムを不審者だと思っているわけではないが、簡単にささやきかける位置にいるのは安心できない。ついこの前の出来事が頭に残っているため、警戒してしまう。


 何通もの手紙をやりとりしたにも関わらず、イヴリンはウィリアムがパリに行っていた理由を知らない。偽装なのだからと、尋ねることも遠慮した。しかし彼女は思う。


(マスケット銃から逃げるため……だったとか?)


 銃で狙ってくるほど怒っていた将軍の妻と、性懲りもなく会っていたウィリアム。意味ありげに言葉を交わし、その直後にパリへ旅立った。以前から予定されてはいたようだが。しかし長期間の滞在は、ほとぼりが冷めるのを待っていたとも考えられる。


 横の子爵をちらりと見た。椅子に深く腰掛けて、今はオペラに集中しているようだ。


 ウィリアムには偽装でもなんでもいいから、婚約したい理由があるのではないかと思った。自分たちが出会った夜に演じたあの茶番は、実はまだ続いている。


(もしかして、今もカモフラージュを?)


 ウィリアムとフェザーストン夫人の関係は、その夫の妄想ではなく、事実ではないのだろうか。そして彼はカモフラージュとして、イヴリンに偽装婚約を持ちかけた。そのついでに、彼女の願いであるエセルの良縁探しに付き合っている。


 次の幕間で、イヴリンは道楽者の子爵に話しかけた。


「ところでパリは楽しめました?」

「パリ? ああ、もちろん。充実した旅だったよ、いい収穫もあった」

「収穫といいますと?」

「展覧会やオークション。掘り出し物がないかとも思って見に行ったんだが、主に仕事だね」

「お仕事? お仕事をなさってるんですか、貴族なのに」

「貴族は意地でも働くなと? 仕事といっても顧問官のようなものだよ、王室が買い入れる絵画の。絵の鑑定や売買契約の助言役として、審美眼としゃべり好きを買われたんだ。個人同士の橋渡しをすることもある」

「そうだったんですか……それはお疲れ様です」


 思いがけないパリ行きの理由を知り、すこし拍子抜けした。ではイヴリンの疑いはまるで見当違いだったのか。


 疑うくらいなら、もう頼るのはやめるべきだと思っていた。エセルの良縁は、イヴリンが自力で探す。人にそしられようが陰口を叩かれようが、ふたたび社交界に出て行けばいい。たったひとりで、がむしゃらに。


 手袋の下の、左手の薬指を右手でふれる。人前に出るからと、今夜は借りた指輪を嵌めている。これを返すべきかどうか、まだ迷っている。


 すると今度はウィリアムから口火を切る。


「ライル君の父親を知っていると言っていただろう?」

「はい? ――ええ、そうお聞きしています」

「こうなったから白状するが、ライル氏は事務弁護士なんだ。我が家の」


 「弁護士?」と、イヴリンは目を見開く。貴族が財産管理に弁護士を雇うのはごく当然のことである。

だがエセルは、曲がりなりにも男爵家の娘だ。大事な妹に自分の雇い人の息子をあてがおうとしたと聞くと、イヴリンも黙っていられない。成立していないとはいえ。


「それはどういう」

「だから本当はエセルに紹介するつもりもなかった。最初に名前を言った三人にはいなかっただろう? それにマーティン自身は事務弁護士で終わる男じゃない、グレイ先生は見る目がある」


 イヴリンが非難しようとすると、彼は慌てたように付け加えた。「いずれ称号のひとつももらうだろう」という評価を思い出し、イヴリンも声を収める。


 急いで弁解していたウィリアムだが、その口調が少し弱まる。ぽつりと力なく続けた。


「父親のライル氏は、それは誠実な仕事をしてくれる、信頼できる人なんだ。だからマーティンも誠実なやつだろうと思って……。いや、もうあいつのことはいいか」

「……」


 思いがけない考えを聞かされて、イヴリンは言葉を失くす。しばし沈黙が続いた。しかしウィリアムがいきなり立ち上がる。


「イヴリン。今度は慎重に選んだ。だから僕にもう一度チャンスをくれないか。次こそ任せてくれ」

「チャンス? もう一度って」

「ちょうど今夜、ここに来ているんだ。これから紹介しよう、一緒においで」

 

 腕を差し出す態度には、有無を言わさぬものがあった。よほどの相手と会わせるつもりかもしれない。

 結局なにも言い出せず、イヴリンは三人目の良縁候補と会うことになる。


 偽装婚約者に腕を取られ、廊下に出た。するとちょうど、隣のボックス席の客も廊下へ出て来たところだった。

 無視するわけにもいかないのか、ウィリアムが話しかけた。丁重に。


「ああどうも、フェアファックス公爵。素晴らしいテノールでしたね」

「そうか、ランバート? 私はあのラウルは気に入らんがね、官能性を強調し過ぎている」

「そうでしたか? まあ、好みは人ぞれぞれですしね。ではお先に」


 つまらなそうに答えたのは、ウィリアムよりも十ほど年上らしき男性だ。名はフェアファックス公爵、すでにイヴリンも劇場へ来た時に紹介されていた。

白くなりかけた金髪は後ろにすべて撫でつけられ、眼光は鋭くきつい。口髭を生やしているが、その下の唇は薄情そうに歪めている。誇り高い英国貴族、という空気を全身から漂わせている人だ。女性の同行者がいたはずだが、席に残してきたらしい。


 イヴリンも婚約者らしく、慎ましくお辞儀をしておく。だが離れた後も、フェアファックス公爵の視線がじっと自分の背中に注がれていたことは知らなかった。




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