14.大嫌いな人種
大事なのはエセルだ、とイヴリンは自分に言い聞かせる。女たらしの子爵に遊ばれている場合ではない。美術館の中、小声で話しかける。
「うまくいっているでしょうか?」
「どうだろう」
色々と問題のある人だが、相談できる相手はそのウィリアムしかいない。互いの距離がさっきより近くなったのを幸い、イヴリンは自分の懸念を彼に聞かせる。
「グレイ先生は優しい人なんですけど、頼りなくて。ちゃんとエセルを守ってくれているかしら」
「頼りない? あのガヴァネスのことか」
「ええ。エセルは引っ込み思案だから、誰かがうまく手伝ってあげないと。家族以外の男の人としゃべったことがないんですもの」
深窓の令嬢ならばそれが当然だ。エセルが今まで話したことがある異性は、父親と叔父と従兄弟たち、それと使用人ぐらいのはず。かつていたイヴリンの取り巻きは、直接口をきく前に排除してきたので。
(……あれ?)
はっ、とイヴリンは思い出す。嫌な記憶が蘇ってしまった。妹も自分も今よりもっと幼く、子どもだった頃のこと。母親が生きていた時、その友人宅で出会った黒髪の少年を。あの男の子は許し難い行いをした。
「……ウィリアム、やっぱり放っておけません! わたくしがエセルを守らないと。あの子を男の人と一緒にしておくなんて」
「そんなに心配しなくてもガヴァネスが一緒じゃないか。それに第一、あれは見合いの前哨なんだぞ。邪魔してどうするんだ」
「でも!」
自分がそばで見守っていれば、エセルの魅力をうまく伝えられるかもしれない。イヴリンはそう思う。エセルは大人しいが、優しい気遣いもできる少女だ。それをライル青年にも知ってもらいたかった。
「エセルの良さを知ってもらわないと。わたくしがちゃんと伝えなければ」
「イヴリン」
さっそく行こうとしたイヴリンだが、がっちり組んだ婚約者の腕がそれを許さない。ウィリアムの視線はまるで明後日の方向にむけられていたのだが、彼はそのまま語った。
「人柄の良し悪しなんて、他人からああだこうだと教えるものじゃないよ。その人自身を自分の目で見て判断できる、誰でもね」
「……」
「エセルにもできるはずだ。ライル君の目も節穴じゃないよ、たぶん」
そのあと続けた言葉は小さすぎて聞き取れなかったが、こう聞こえた。「信じてみたら」と。
イヴリンはそれ以上何も言えなくなる。足も止まった。
(……別に、エセルを信じていないわけじゃないわ)
イヴリンはエセルの姉だ。その自分が、どうしてこんな出会ったばかりの道楽者に説教されなければならないのか。理不尽だ。エセルの良さは他の誰よりイヴリンが知っているのだから。
蘇るのはひとつの記憶。
《 がらんとした部屋に雨音が響く。
涙は止まらない。
そこへ差し出された一枚のビスケット――。 》
イヴリンはこっそり溜息をついた。エセルは自分よりも他の誰かを大事にできる、優しい少女だ。その心根の優しさが、誰かの目に留まらないはずがない。エセルにも良縁が必要だが、あの妹を娶った者も幸運に違いない。そう信じている。
妹の見合いに割って入るのはやめ、代わりにイヴリンは横の偽装婚約者をちらりと見上げた。
「あなたの人柄もあなた自身が証明していますわね」
「へえ? それがどんなものか、ぜひとも聞かせてもらいたいな。――いや」
面白そうに答えたウィリアムだが、すぐに首を振った。
「聞かないでおこう。なにしろ偽装だからね」
「そうですわね」
うなずきながらイヴリンは、エセルたちから離れるように歩を進めた。ウィリアムを引っ張るような形で。そして思い出す。この展示室にはイヴリンのお気に入りがある。
「見たい絵がありますわ。お付き合いいただける?」
「今の言い方はなかなか可愛かった。そんなふうに僕の天使に頼まれたら、どんなことでも付き合わないわけにはいかないね」
こういう発言が彼の人柄を存分に証明していると、イヴリンは内心で苦笑した。だがそんな気持ちも、その絵の前に立てば忘れてしまう。
その絵画は部屋の隅にあった。
描かれたのは白いドレスの二人の少女。背景はどこかの林で、春の新緑が柔らかな色合いとタッチであらわされる。そして少女たちは花を摘んだ籠を手に、倒木と切り株にそれぞれ腰かけている。少女のドレスに落ちる木漏れ日の表現が秀逸で、全体を通じて明るい色使いがうららかな春を謳いあげる。見ていて楽しくなる絵だ。
「『春の寄り道』か。オーギュスト・レナール」
「そう。肖像画じゃない作品は珍しいでしょう」
「レナールは肖像画家だからな、上流階級御用達の」
少女のうちのひとりは手元の花を見ているが、もうひとりは画面の中からこちらを、鑑賞者を見つめている。幸せそうに笑みかけるその姿は、思わずイヴリンも笑顔になるほど明るい。だが彼女たちがどこの誰なのか、画家は明かしていない。謎の少女たち――姉妹だ。二人はよく似ている。
「そういえば、レナールには子どもの頃会ったことがある」
「え? 本当に!?」
「描いてもらった絵があるな、実家に。あまり見たいものじゃないが、自分の子どもの頃の絵なんか」
「そんなすごい……ずるい」
「それがまた憎たらしそうな顔で描かれているんだ。さすがレナール、よく見抜いたものだよ」
上流階級御用達の肖像画家、という名の通りの人物だったはずだ。裕福で地位のある英国貴族ならば顧客になるには充分。イヴリンは素直にずるいと思った。本当にこの画家が好きなのだ。当時のエピソードを披露するウィリアムに、しばし聞き入る。
「うらやましいです。実際お会いして、絵まで描いてもらえるなんて!」
「危うく彼の腕を折るところだったけどね、いたずらが過ぎて。罰としてそのあと三年ぐらい父に……」
と、なぜかそこでウィリアムの言葉が止まる。にこやかな表情も消えた。虚空を見つめて止まっている。放心したように。
「ウィリアム?」
「なんでもない」
呼びかけると、ハッと我に返ったようだ。イヴリンに目を向けると、安心させるように笑ってみせた。とても優しそうに目を細め、そして――。
「……!?」
がっちり挟んでいた彼女の腕を放すと、そのまま手を腰へと回してくる。何をするのかと固まっていたら、強く引き寄せられた。彼のほうでもこちらに屈んでくる。キスされるのではないかと思うほど近づくウィリアムを、思わずイヴリンは止めた。胸を押して。
「あの、ちょっと」
押しのけ、ついでに腕からも逃れる。今度はするりとすぐにほどけた。
距離を空けて、やっとイヴリンは安心できる。弱々しい口調になってしまったが、それでも抗議した。
「そういうのは、困ります。偽装なのに」
「――ごめん。わかっている。今のは僕が悪かった」
イヴリンに押された拍子に落ちた帽子を拾いながら、ウィリアムは謝った。拾った帽子をじっと見つめ、もう一度繰り返す。
「悪かった。君をそういう目で見ているわけじゃない」
「……」
「つい反射的に……いや、余計に悪いか。とにかくすまない」
帽子をかぶり直し、目元を隠したウィリアム。明るく軽い、いつもの雰囲気が消えている。
「どうかし……」
「ランバート卿!」
だがイヴリンが尋ねる前に、別方向から呼ばれた。女性の声だ。切羽詰まったように大きな声でウィリアムを呼んだのは、中年の貴婦人だった。高価そうなドレスを着ているが、手袋も帽子もなく、かなり取り乱した様子だ。
「フェザーストン夫人」
「ランバート卿! ああよかった、やっと見つけましたわ」
それこそ何かのロマンス小説の、ワンシーンのようだった。とつぜん現れた貴婦人がウィリアムに駆け寄って、その両手をつかむまでの一連の一幕は。
イヴリンは唖然とした。周囲の客も振り返って見ている。だが唖然とした彼女らの前で、そのメロドラマはまだ続く。両手を取られたウィリアムだが、相手を落ち着かせるように優しく尋ね返した。
「どうしたんです? こんなに息を切らして」
「夫が。またあの人があなたを追い回していると聞いて、急いで捜しに来ましたの! お怪我はない?」
「将軍が? さあ、何も知りませんが」
「まああ、ご無事でよかったこと! こうしてお会いできるまで、あたくし生きた心地もしませんでしたのよ」
心配そうにウィリアムの表情をのぞきこむ貴婦人は、その全身をじろじろと見回した。本当に怪我でも負っていると思ったのだろうか。
たっぷりした茶褐色の髪を持つ、なかなか美しい顔立ちの女性だ。明らかにウィリアムよりもずっと年上で、かの大英帝国の女王のごとく、堂々と貫禄のある体型をしているが。
(フェザーストン、将軍? それって、もしかして)
イヴリンはうすうす察する。現れた貴婦人が、先日の茶番の原因となった女性だと。
そのフェザーストン将軍の妻は、ウィリアムの無事を確認して安心したのだろう。横にいるイヴリンの存在にやっと目を向けた。
「あら。こちらのお嬢さんはどなた? あなたのお連れ?」
「ああ。――彼女はなんでもありませんよ、フェザーストン夫人。少し待ってもらえますか、僕からも話がありますので」
あっさりそう言ったウィリアムは、今度はイヴリンに向けて告げる。
「イヴリン、こちらのご婦人と少し話があるんだ。悪いが今日はここまでにしよう。ライル君にも伝えておいてもらえるかな、僕はエントランスにいると」
「え? ええ、わかりましたけど」
「すまない、頼んだよ」
イヴリンにはそれだけ言うと、女たらし子爵はフェザーストン夫人へと笑いかける。夫人に何やら耳打ちすると、展示室から仲良く連れだって去った。
残されたのはイヴリンだ。他の客の視線が彼女に集中するなか、ぽつんと立ち尽くした。
「……」
今のはいったい何だったの、と呆れた。呆れすぎて目まいすら覚える。
女たらしの道楽者、という言葉そのものだった。既婚のマダムを相手に危険な遊びを楽しみ、またその夫から追われる危険を犯している。知ってはいたが、実際に目の当たりにするとは思わなかった。本当に見下げ果てた人間らしい、あの偽装婚約者は。イヴリンの大嫌いな人種だ。
周囲の視線の中、イヴリンは昂然と頭を上げる。あんな最低の恋人に振られた、哀れな娘だと思われたくなかった。何事もなかったように平然と、ことさら優雅に歩を進めてみせる。
(実際、違うんだもの。こんなの偽装、茶番だわ。最低)
こんな茶番は早くやめたい。心の底からそう望む。早くエセルの夫となる最良の相手を見つけ、きっぱり婚約破棄してしまいたい。でなければイヴリンは。
「……本当にひどいんだから」
さっきのウィリアムの態度だ。例の貴婦人が登場する前のこと。
やや崩れたハンサム顔にも関わらず、どうして彼がそれほど女性に人気があるのが少しわかった気がした。ぜったいに認めたくないが、胸がまだ騒いでいる。
当然のように腰へと回ってきた腕。イヴリンを引き寄せた時の手慣れた様子。何よりもその笑顔。蕩けるような、とはあのことだろう。もともと優しい地顔がもっと優しくなり、愛撫するような視線がイヴリンに向けられた。強引に誘惑するというより、魅了して惑わした。あれでは誘われた女性は、みずから進んで彼の手に落ちてしまう。
「好きになるな」と宣言するぐらいだから、ウィリアムにイヴリンを誘惑するつもりがあるとは思えない。本人も「そんな目で見てない」と否定した。つまりあれは、不意をつかれた反射だ。隣にいるのが誰か、つかの間忘れたに違いない。
だからこそひどい。マダムと遊んでいることよりも、反射であそこまでできてしまうことがひどいのだ。できればしばらく会いたくない、イヴリンは心の端でそう願った。
*
するとイヴリンの願いはあっさり叶った。
「『しばらくパリへ行ってきます』……?」
その日の夜のこと。叔母の家へ夕食に招かれたイヴリンのもとへ、偽装婚約者の従僕が主人の手紙を持って訪ねて来た。ウィリアムはしばらくパリへ旅に出るという内容の。
「急ですわね。何か急な用事でもおありなのかしら」
「いえ、御前のパリ行きは以前から予定されていました」
「そうでしたの……」
手紙を持ってきたオコナーを前に、なんだ、とイヴリンは拍子抜けする。願うまでもなく会わずに済んだ。バリー家の居間に通された妖精従僕は慇懃に問う。
「お嬢様のお返事もお預かりいたしましょうか?」
「いえ、特には――」
恋人同士でもないのに、ウィリアムへ手紙を書く理由がない。特に伝えたいことも。
「返事を書かないの、イヴリン? そんなにつれなくしては、子爵がお気の毒よ」
「そうですわよ、お姉様。待っていてもらって、お返事を書けばよろしいのに」
しかしその場にはリビー叔母もエセルもいた。美術館から直行したのでグレイ先生も、帰宅したユージン叔父も。おそらくその場の全員がこう考えている。離れ離れになる婚約者に、恋文のひとつも書けばいいのに、と。
オコナーの細い目は、何を考えているのか語らない。ただひとり真実を知るにも関わらずこんな申し出をする従僕を、イヴリンはちょっと恨めしく思った。
「……そうですわね。オコナー、少し待ってもらえる?」
「かしこまりました。旅のお支度は整っておりますので、ご存分にどうぞ」
ご存分にという言葉に苦笑し、叔母の書見台を借りる。ペンを手に取り、少し考えてから書き始めた。
(『お気をつけていってらっしゃいませ。お帰りの時までに、わたくしたちの計画をもっと進めておいてみせます。ですからこちらのことはご心配なく。ご紹介ありがとうございました、頑張ります』。うん、これでいいわ)
書くとすればイヴリンと偽装婚約者の共同計画の件しかない。礼状だ。今日の収穫、真面目で実直、将来有望な弁護士志望のライル青年と引き合わせてもらったことへの感謝だけ伝えればいい。
(うまくいけば、社交界デビューより先に婚約が決まるかも)
デビュー前に相手が決まっているのもよくあることだ。イヴリンは内心でほくそ笑む。
最愛の妹には最高の良縁を。頭にそれしかない姉は、心を新たに決意する。必ずライル青年を、エセルのために捕まえる、と。それを手紙にしたためた。
そして。
「……」
さらに一言だけ付け加えた。「わたくしにお土産は不要です。偽装ですから」と。
ウィリアムの手紙に何気なく書かれた文章。「今日は途中でいなくなってすまなかった。お詫びに君への贈り物をパリで捜すから、許してほしい」という一節への返答だ。




