6 早春の挑発
私が暮らすことになった部屋は二間続きで、居間と寝室になっている。お屋敷の敷地の奥まった一角にあるんだけど、南向きで庭に面していて、療養するには最適の部屋だと思う。オルセードの部屋は二階、私の部屋の斜め上だと本人が言っていたけど、そこには特に用はない。
この部屋は元々は客間で、抑えた色合いのシンプルな調度だったけど、オルセードに何か言われているらしいキキョウが私の希望を聞いて、次々と色々な物を持ち込んだ。
その結果、ベッドカバーが華やかな柄になったり、カーテン留めに可愛い房飾りがついたりと、部屋全体が明るくなった。服もどこからかキキョウが選んで持ってきてくれたんだけど、ブラウスにロングスカート、もしくは足首まであるワンピースという上品な感じで、なんだかお嬢様になったみたい。
オルセードからは、キキョウを通じて何度かお茶の誘いがあった。私と話をして、私の要望を色々と知りたいってことらしいけど、ずっと断っている。
もし要望を伝えたとして、それを叶えたオルセードが達成感を感じるのが嫌。
……こんな考え方、ひねくれてる、と思う。私を堕としたのはハルウェルであって、オルセードが何かやったわけじゃないのに。
でも、オルセードがいなかったら……彼が死にかけさえしなければ……という思いがどうしても消えない。そしてそれ以上に、私と彼の命ががっちり結びついているのが、まるで縛られているようで息苦しい。
一つ屋根の下にいながら、私は彼と顔を合わせないまま日々を送っていた。きっとキキョウは私の様子を彼に報告してるだろうけど、そのくらいは別に構わないし。
このチェディス王国というところは、北側に山、南側に海があり、山沿い以外は割と穏やかな気候らしい。王都は海沿いにあり、私が二年いた村は正反対の山沿いにあって、まさに辺境。そして貴族のオルセードの家が治める領地はその間のやや山寄りにあった。村からここまでは丸一日強くらい馬車に乗ったみたいだけれど(ぐっすり寝ていたのでよくわからない)、ここから南側は主要な町の間に列車が通っているそうで、最初に思ったよりも昔っぽくはないようだ。
「今日は、オルセード様は王都の騎士団本部にお出かけのようですよ。夕方までに戻るとおっしゃっていましたけど」
聞いてもいないのに、キキョウは彼の予定を教えてくれる。丸一日程度なら私から離れていても大丈夫だそうで、彼はたまに出かけるのだ。
一度、たまたまキキョウがお休みで代わりのお手伝いさんも部屋にいなかった朝に、ノックの音がしたことがある。黙っていると、扉の向こうからオルセードの声がして、
「シオン。王都に出かけてくる。夜には君のそばにいる」
とか言うのでまた咳込んでしまった。いちいち言い方が微妙なんだよ。
何かあったらすぐ使いを出して呼べ、シオンに関する用件が最優先だ、とも言われているけど、騎士が途中で仕事を抜けるって許されるのかな。騎士って王様に忠誠を誓ってるとか、そういう存在じゃないの? しかも団長様。普段ほとんどこの家にいて、たまに出かけるだけなのも意外……それで仕事は回るんだろうか。団長って名誉職か何かなの?
それに、どのくらいなら離れていても大丈夫、なんていう知識があるってことは、過去にも誰かが異層から私以外の人を堕としたってってこと? ハルウェルはそういう人から秘術を知ったの? それとも、秘術が記された本か何かがある?
一瞬、堕とされた人に会ってみたいと思ったけど、自分が堕とされた後の境遇を思うと……他の人たち、どんな目に遭ったのかな……考えるの、やめよう。
私は冬の一番寒い時期を、ぬくぬくと引きこもって過ごした。衣食住や生活リズムが整ったら、咳も減ったし、ずいぶん身体も心も楽になった気がする。
キキョウにこの国の神話や歴史の本を読んでもらったり、楽器を触らせてもらったり、何もせずに一人でぼうっと窓の外を眺める日があったり。そうしている間に、春を感じさせるような、穏やかな天気の日が訪れるようになった。
庭に出て、太陽の光を浴びてみる。きれいな花に顔を近づけて、香りを確かめる。花にとまった蝶をつつこうとして、飛び立つのを目で追う。楽しい、と感じる。氷を隔てて、楽しんでいる自分を見ているような感じではあるけれど。
キキョウは事情を知らないなりに、私が笑わないことやオルセードと会おうとしないことから、自分の立ち位置を理解しているらしい。
「シオン様、お化粧はお好きですか? 髪を編み込むのは?」
そんな風に言いながら鏡の前に誘ってくれるので、
「そういうのいらない。誰かに会うこと、ないし」
と淡々と答えると、
「どなたかに見せるためじゃありません、シオン様がお好きならやりましょう?」
と笑う。雇い主には関係なく、私の気持ちだけを考えてくれているみたい。オルセードも彼女のことを「キキョウ」と呼んでいるようで、彼女の名付け親である私が彼女の主人だと、立場をはっきりさせているようだ。
健康を取り戻してきて、痩せすぎだったのが痩せぎみくらいになったし、少し女性らしくするのもいいかも。誰のためでもなく、自分のために。日本にいたときは、女子高生らしく色々おしゃれしてたんだし。
そうして、薄く口紅を引いて少しはマシになった鏡の中の自分に、笑いかけてみようとした。でも、変な風に唇の端がゆがんだだけ。あーあ、顔まで凍っちゃって……もう治らないのかな、これ。一応若いのに。
若いと言っても、こっちの女の人って十六・七で結婚するらしくて、十九の私はやや嫁き遅れ。まあこんな状況で結婚願望なんかないし、ここで養ってもらえるうちはそれでいいし、いつかここを出るときのために一人で生きられるよう勉強しておくだけだ。
身だしなみも、ちゃんとしよう。以前の自分に、少しでも近づけるように。
そうして、オルセードやハルウェルに会わないまま春になった、ある日のこと。
屋敷に、来客があった。
その日はオルセードがいなかったので、彼に会わなくて済むと思った私はキキョウと一緒に屋敷の敷地内をぶらぶら散歩していた。その途中、渡り廊下でお客に出会ったのだ。
綺麗な女の人だった。私より少し年下っぽい。緩くカールした栗色の艶やかな髪、青い瞳、薄いグリーンの細身のドレス……まるで妖精みたい。お付きの女性を従え、この屋敷の執事さんに案内されている。
「シオン様」
ロマンスグレーの執事さんは一度足を止め、私に会釈する。
「こちらにいらしたのですか。オルセード様にお客様でございます。客間でお待ちいただこうかと」
執事さんも、私についての詳しいことは聞いていないみたいだけれど、いぶかしむ様子などかけらも見せずに丁寧に応対してくれる。プロだなぁ。でも別に、お客のことまで私に報告しなくても……と思いつつ、私は黙ってうなずいた。
お客の女性は私を見て、固い表情で言った。
「あなたが、ここで暮らしているという方? どなた?」
「上原……シオン・ウエハラです。こんにちは」
私は、ただそれだけ言って軽く頭を下げる。
彼女は一瞬口を引き結んだけど、ドレスの裾を摘み、軽く膝を曲げた。
「ラーラシア・ジル・ゲイルドです」
ラーラシアさんか、名前も綺麗だな。
名乗り合ったし、これでいいだろう。私はもう一度会釈すると、彼女とすれ違おうとした。
しかし、それがよくなかった。名前を聞いて「おおっ」とならないといけなかったらしい。
「ちょっと、あなた」
強い調子で呼び止められて、私は振り向いた。ラーラシア嬢は私をまっすぐ見て、固い表情のまま言う。
「あなたがここに住み始めてから、オルセード様におかしな噂が立っているようよ。若い女性として、お気をつけになった方がいいわ」
私は瞬きをした。
ははあ。オルセードが女を囲ってる、みたいに思われてるの? でも、そんなこと言ったってなぁ。私の方は痛くもかゆくもないし、むしろいい気味というか。
……もしかしてこの人、オルセードのこと好きだったりして。
ふと、また、氷の中で怒りの熱が動いて。
私は意地悪な気分になった。
今では、オルセードが独身であることを私は知っている。彼は私に償うと言ったんだし、近くにいないといけないんだから、もし結婚してお嫁さんが来ても私を追い出すつもりはないのだろう。
まるで正妻と愛人を同じ家に置くみたいで、昼ドラかって感じだけど……オルセードは、奥さんになる予定の人に私の事をどんな風に話すんだろう。そして、もしこの綺麗なお嬢様がオルセードのことが好きなら、私と一緒に暮らすかもしれない覚悟はあるんだろうか。
軽くため息をついて見せ、ショールを肩にかけなおしながら、私は彼女から庭の方へ視線を流して言った。
「しかたないです。オルセード、私がいないと死ぬというから」
嘘は、ついていない。私がいないと、オルセードは物理的に死ぬ。
でも彼女には、オルセードが死ぬほど私を愛してる、っていう風に聞こえただろう。本当のことが言えない私にとって、誤解させるような言い回しはちょっと鬱憤晴らしみたいになってしまったけど。
ラーラシアさんの、握りしめた手が白くなった。
「……なんですって」




