仕事と愛の板挟み
夫が妻に「数日、出張で留守にする」と言うのは、現代日本では普通のことだと思う。
でも、この国エスティスで外交武官として働くオルセードは、私にそう告げたことはない。もし出張すべき仕事があっても、断れる限り断るだろうと思う。
なぜなら、私とオルセードは魔術によって魂同士が結びついているからだ。数日離れているとオルセードは衰弱し、やがては死んでしまう。
もしオルセードが何日もかかる出張に行くなら、彼は私に「ついてきてくれ」と頼むだろう。このエスティス滞在がそもそも長期出張で、私がついてきている、という形なのだけれど。
ある日、官邸に出勤していったオルセードが、まだ昼にもならないのに公邸に帰ってきた。
「シオン」
「どうしたの?」
私室に入ってきたオルセードに、私は短く尋ねた。
彼の顔はこわばっている。そして、すぐには用件を切り出すことができないようだった。
何かあったのだ。
向かい合って立ち、彼が話し出すのを待っていると、やがてオルセードは絞り出すように言った。
「数日、仕事でここを離れなくてはならなくなった」
「わかった。大事な仕事なら、仕方ない」
私はうなずく。
珍しいな。でも、なるほど、私にわざわざついてきてもらうのが申し訳ないと思ってこんな様子なのか。
相変わらず、生真面目な人だ。自分のことで、私を振り回したくないと思っている。
「すぐに私も準備するから。何日くらいかかるの?」
メイドのネビアを呼んで支度をしようと、呼び鈴の紐に手を伸ばしかけた私を、オルセードの声が止めた。
「シオン、そうじゃないんだ。頼みがある」
「……何?」
オルセードの目を見ると、彼は一瞬、視線を外した。
そして改めて、私の目を見つめる。
苦しげな声が告げた。
「腕輪を、使わせてくれ。……君を連れて行くことができない」
私は息を呑んだ。
腕輪、というのは、チェディスの魔導師ハルウェルが作ったものだ。二つで一組になっていて、魔石という石を二つに割ったものをそれぞれ仕込んである。
この石を私とオルセードがそれぞれ身に着けていれば、二人がそばにいるのと同じ効果が得られるので、オルセードは私のそばを長期に渡って離れることができる。
とても便利な石だけれど、オルセードはある時から、それを一度も使っていない。
ハルウェルはかつて、オルセードの命を救うために私をこの世界に堕とした。けれど、救った後は私をオルセードから引き離しておくため、腕輪に魔石を仕込んで私の腕に外れないように着けたのだ。
何も知らない私は、北方の寒村で謎の腕輪をはめたまま、奴隷同然の生活を送った。
オルセードによって私が村から救い出された後、腕輪は破壊された。けれどその後も色々あって、石の入った腕輪は新しく作り直されたのだ。そして、私たちがエスティスに来た今でも、この公邸にある。
そんな嫌な思い出のある腕輪──私の身に起こったことを、これを見るたびに思い知らされる、腕輪。
だからオルセードは、腕輪はしまい込んだままにしていた。
私に嫌な思いをさせてまで、自分が生き延びようとは思わない……オルセードはそんな人だ。
そのはずだった。
「本気?」
私は静かに聞いた。
オルセードは、まるでそうすることが誠意だというように、私の目を見つめたままうなずいた。
「ああ。……詳しいことを言えなくて、済まない」
カチャ、という音に視線を落とすと、しまい込んであったはずのあの腕輪が、彼の手に二本とも握られている。
本気なんだ。
「……どうして?」
そうオルセードに尋ねた声が、我ながら弱々しくて、私は一度口をつぐんだ。まるで、泣きそうな子どもか、それとも恋人に裏切られた女みたい。
「シオン」
オルセードの声に、焦りと苦悩がにじむ。一瞬、片手が浮いたのは、私に伸ばそうとしたのだろうか。
けれど、その手は再び、だらりと下がった。
私は気を取り直し、はっきりと聞く。
「理由は言えないの?」
「……言えない。だが、必ず成し遂げなくてはならない仕事なんだ」
彼はとうとう視線を逸らすと、すぐそばのテーブルに腕輪の一つを置いた。
そして、もうひとつを私の目の前で、自分の左手首にはめる。
顔を上げたときには、オルセードはもう何かを吹っ切った表情をしていた。感情を抑えた低い声が告げる。
「いつものように、君を抱きしめたいが、こんなことをしておいてその資格があるとは思っていない。……数日で戻る」
オルセードは足早に、私の部屋を出て行った。
扉が閉まる。
力が抜けた私は椅子に腰かけると、テーブルに置かれた腕輪を見つめた。
「……夫婦の危機?」
茶化しでもしないとやっていられない。
正直に言って、私は今、かなりのショックを受けている。
大嫌いなこの腕輪を、あのオルセードが私に、身につけろと言った? 信じられない。
思わず拳を握りしめる。
「どういうつもり? 前は、こんな腕輪必要ない! なんて大声出してたくせに」
彼はいつも、私を一番に考える人だ。それを上回る『仕事』って何? しかも言えない理由って? 本気でわからない。
私は一度、大きく深呼吸した。
嫌々ながら、腕輪を取り上げる。
それでも私は……オルセードを信じているのだ。
彼は私に無理強いしながら、自分にも無理強いしている。何か大きな理由があるからだ。
だったら、私にできるのは、待つことだけ。
「腕にはめるのは嫌だから、紐でも通して首に下げておこう……」
私は紐を探そうと、重い腰を上げた。
† † †
オルセードが公邸に帰ってきたのは、それから四日後のことだった。
すでに夜になっていて、夕食を終えた私は食堂を出ると、ホールから階段を上がりかけていた。
そこへ、玄関からオルセードが入ってきたのだ。
目が合う。
おかえりなさい、という言葉をどんな口調で言うべきなのか迷っているうちに、オルセードは口を真一文字に結んだまま、早足でホールを横切り階段に近づいてきた。
その勢いに、少し怖くなってその場で立ちすくんでいると、彼はそのまま階段を上がるなり私の手首のあたりを探るように見た。すぐに、その視線は私の喉元に上がる。
大きな手がサッと伸び、オルセードの手が、私の首にかかっていた紐を探り当てた。そのまま紐を引いて襟元から腕輪を引っ張り出し、私の頭から抜く。
「……ありがとう。……済まなかった」
彼はささやくように言って、私に背を向けた。腕輪を手に、階段を下りていく。
「全くもう……」
私は一つため息をつくと、ゆっくりと階段を下り、オルセードの後を追った。
オルセードは自室には戻らず、一人で書斎にいた。
小さなランプがひとつ、灯っているきりで、書斎は薄暗い。大きな窓から星空が見えている。
そっと中に入っていくと、ソファでうなだれていたオルセードが顔を上げた。
ソファの前のテーブルには、二つの腕輪が置かれている。
「もう、必要ないんでしょ? いつまでも見てないで、しまっちゃってよ」
私はテーブルセンターを手に取ると、わざと乱暴に腕輪にバサリとかけてみせた。オルセードの視界から、腕輪を消すために。
そして、彼の隣に腰かける。
うつむいているオルセードに、静かに告げた。
「誘拐事件が、あったんじゃない?」
ハッ、とオルセードが顔を上げ、私を見る。
「なぜ、それを」
「外交武官であるあなたが深く関わる事件なら、小チェディスがらみじゃないかと思って。何か変わったことがないか、様子を見に行ったの」
小チェディスは、チェディスから移住してきた人々が作った町だ。チェディスの外交武官であるオルセードのテリトリーである。
散歩がてら、ネビアと一緒にそこを歩いてみたら、一軒の店の様子がいつもと違っていた。そこはチェディスの豪商の店で、主人は大きな船を所持していて独自のルートで商品を仕入れている。
いつも大勢の客で賑わっているその店が、閉まっていたのだ。
私は調べたことを彼に話す。
「使用人を訪ねていって、話を聞いたの。そうしたら、主人夫妻には六歳になる一人息子がいて、よく店にも遊びに来るのに、急に来なくなったって。オルセードが動いているとしたら、その子に何かあったんだと思った。それで、誘拐じゃないかって考えたの。……子どもは助かった?」
オルセードは再び私から視線を逸らすと、黙ってうなずいた。
私は小さく、ため息をつく。
「良かった。本当に、そう思う」
「シオン……」
「つまり、こういうことでしょ?」
私は、オルセードの心の中で起こったであろう葛藤を、順に言葉にしてみせる。
「誘拐事件の第一報が入って、オルセードは人質を救出しに行かなくてはならなくなった。犯人との交渉次第では、何日かかるかわからない。でも、オルセードは私を現場に連れて行こうとは思わなかった。どうしてかっていったら、それは……私が、誘拐事件の被害者だから」
「……そうだ」
ゆっくりと顔を上げたオルセードは、潤んだ瞳で私を見つめた。
「君を家族から引き離す原因になった俺が、誘拐事件に関わる。……シオンは、子どもの家族が我が子を心配する様子を見たら、自分の家族と重ね合わせるだろう。そんな場所に、君を連れていくことはできなかった」
「でも、この仕事を他の人に任せるっていう選択肢は、あなたにはなかったんだよね」
「当たり前だ。君を救えない俺が、小さな子どもを救うことまで放棄するなんて、あり得ない。もし放棄したら、君に軽蔑されるだろう。……しかし」
可哀想なオルセードは、絞り出すように続ける。
「救ったら救ったで、シオンはどう感じるだろう、と思った。俺が救った子は両親の元に戻る、でも、俺は君を両親の元へは戻せない……」
「そうね。その子が羨ましい、と思うよ」
「…………」
「だから、私に何も言えなくて、ただ腕輪を持たせたんだよね」
私はそっと、オルセードの肩に触れた。
彼の瞳に、語りかける。
「腕輪を使うのが一番いい方法だったと、私も思う。決断してくれて、ありがとう」
オルセードが、私の目を見つめる。
気持ちを探るように。
確かに、私は子どもを心配する両親を、とても見てはいられないだろう。
でも、私のような事件が繰り返されてはいけないと思ったから、ハルウェルとの関わりの中で、禁術が再び使われないようにと願った。誘拐事件だって同じだ。
腕輪を身に着けたときの嫌な気持ちは、オルセードに向けるべきものじゃないということも、私はもうわかっている。
「オルセード、間違わないで。そもそも犯人がその子を誘拐なんてしなければ、オルセードは苦しまなかったし私が腕輪を身につけることもなかった。この件に関して、あなたが罪悪感を覚える必要なんてない。その犯人、ちゃんと罰して」
「俺は二度と、君を傷つけたくなかったんだ。それなのに、腕輪を」
「わかってる。でも、私はもう、こんなことで傷つかない。もしまた同じようなことが起こったら……傷ついた人を救うことを最優先で考えてね」
私は、微笑んでみせる。
「おかえりなさい。疲れたでしょ」
「シオン」
オルセードは、何か言いかけて──
──私を胸に引き込み、強く抱きしめた。
「やっと、シオンを抱きしめられる……! もう、こうすることは許されないかと思った」
広い胸から、声が響く。今までどこにいたのか、少し土くさい。そして、オルセードのにおいがする。
「こ、こっちだって、どうなるのかと思った。よりによって腕輪を着けろだなんて。私より大事なことでもできたのかって」
まるでヤキモチを焼いてるみたいな台詞だと、あわてて撤回しようとしたけれど、その前に彼はサッと身体を離して私を見た。
「そんなこと、あるわけないだろう!」
深い緑の瞳が、情熱を宿す。
「俺には、君より大事なものなんてない」
「オル……」
唇が重なった。
ソファの背と、オルセードの大きな身体に挟まれて、ほとんど動けない。私はされるがまま、彼の口づけを受け止める。
「シオン……」
「……ん」
熱い唇は頬にも触れ、少し腕がゆるんだかと思うと耳のあたりにも触れ──
──そこで止まった。
「……?」
顔を動かしてみると、オルセードは、目を閉じていた。
ずるずると身体がすべり落ち、あわてて体勢を整えると、私の膝にオルセードの頭が乗る。
膝枕だ。深い寝息が聞こえてくる。
「……四日がかりだし、疲れてるんだな」
仕方なくその体勢のまま、私もソファの背にもたれた。
腕輪を身につけている間、毎晩、嫌な夢を見たので、私もちょっと寝不足なのだ。
まだ腕輪はそこにあるけれど、オルセードと一緒だから大丈夫。
彼が帰ってきたから。
私は、オルセードの寝顔を少し見つめてから、自分も目を閉じたのだった。
【仕事と愛の板挟み 完】
Happy new year!
なろうさんの続編や商業書籍を含め、今もたくさんの方に読んで頂いている作品で、ありがたいなぁと思っていたら番外編を思いつきました。お久しぶりです。
本年もよろしくお願いします。




