紫の花、再び(キキョウ視点)
「あのね、キキョウ。大事な話があって」
うつむいて、言いにくそうに口ごもったシオン様は、それでも最後は顔をお上げになりました。黒い瞳が、私にまっすぐ向けられます。
「今度、オルセードがエスティスに行くことになったの。お父さんの次の駐在武官として。それで、私も一緒に行こうと思います」
呆気にとられた私は、しばらく口をぽかんと開けっ放しにしてしまいました。
つい先日もシオン様が、行方不明になったオルセード様をあのハルウェル様と一緒に探しに行くとおっしゃった時も、とても驚いたものです。だって、シオン様はずっと、オルセード様とハルウェル様を避けていらしたのですから。
それが、今度は海の向こうへ、オルセード様とご一緒に行かれる……?
「理由を……どうか理由を、お聞かせ下さい」
私は思わず、すがるように言ってしまいました。
「でなくては私、そうですかいってらっしゃいませ、なんてとても申し上げられません!」
「うん。話します」
シオン様はしっかりとうなずかれました。
ああ、珍しくご自分から術薬を用意なさっていたのは、このお話のためだったのね……
「私は、キキョウも、このお屋敷の使用人さんたちも、家庭教師の先生も、とても好きです。でもキキョウも知ってる通り、私がチェディスで暮らしているのは無理矢理連れてこられたせい。この国や、私に償うと言ってるオルセードには、複雑な気持ちを持ってるの。この辺は、今はまだ、詳しく言えないけど」
シオン様の言葉は、シオン様と初めてお会いしたときのことを、私に思い出させました。
◇ ◇ ◇
一年前の、冬。
レジークの領主であるオルセード様の使いの方から、「すぐに屋敷に来てほしい」という連絡を受けた私は、きっと急な女性のお客様がいらしたんだと、大急ぎでお屋敷に向かいました。伯爵邸に女性のお客様がいらっしゃるときは、オルセード様はいつも私にお世話のお仕事を下さっていたのですが、事前に予定が決まっているのが普通で、こんなに急なのは初めてのことでした。
お屋敷に到着してみると、まだオルセード様もお客様もいらしておらず、どこかお出かけ先から私に連絡を下さったようです。
執事さんと話をし、とにかくお湯を沸かしてもらっている間に、馬車が到着しました。お客様は執事さんが別館に案内したようです。その間に、私はオルセード様に呼ばれました。
「大事にしたい女性がいる。彼女の世話を、君に頼みたい」
えっ!?
つ、ついにオルセード様にもそういう方が! と胸を高鳴らせた私に、オルセード様は眉根を寄せて、こうおっしゃいました。
「名前はシオン。まだ十七、八くらいの年だと思う。身体を壊しているので、ここで療養させたい」
「まあ、お若いのにお気の毒に……承知いたしました。オルセード様とは、どういったご関係の方なのですか?」
貴族のお仕事は、人間関係をしっかりと把握しておく必要があります。私は当たり前のように、そうお聞きしました。
すると、オルセード様はさらに厳しい表情になって、絞り出すようにこうおっしゃったのです。
「俺などとは関わりなく暮らしていた人だ。それなのに、俺の命を救ったために誘拐同然に北部の村に連れ去られ、劣悪な環境で働かされていた」
「えっ……?」
「詳しいことが言えなくて済まない。とにかく、俺の命の恩人が、俺のせいで身体を壊し、家族とも引き離された。それは真実だ。償いたいし、償わなければならない。君になら彼女の世話を頼める、手を貸してほしい」
「は、はい、もちろんお手伝いします」
ご婚約とか、そういう話かと思ったらそうではなかったので、私はみっともなくも一瞬うろたえてしまいました。
どうにか頭の中を切り替え、急いで別館に向かいます。
人生で一番花開く年の若い女性が、ひどい目に遭っていたなんて。想像するだけで胸が苦しくなります。ゆっくりお休みになれるようにして差し上げなくては。
ノックをして部屋に入ると、窓際で立ちつくしていたその人は、こちらを振り向きました。
一瞬、息を呑みました。ひとつに結んだ髪も、瞳も、黒。何だか吸い込まれそうです。この方が、シオン様……
オルセード様にお聞きしていたとおり、シオン様はひどく不健康そうに痩せ、緊張しているのか身体を強ばらせているように見えます。
私はシオン様にどうにか安心していただこうと、笑顔を作って話しかけました。
「ようこそいらっしゃいました。長旅でお疲れでしょう、ご入浴はいかがですか?」
シオン様はかすれた声で小さく、お礼の言葉を口になさいました。
浴室にご案内すると、先に頼んでおいたお湯が浴槽に用意されています。お着替えを手伝おうとすると「自分でします」とおっしゃいました。言葉が少しぎこちなく、オルセード様のおっしゃる通り、チェディスで生まれ育った方ではなさそうです。相当ひどい目に遭われたようですから、身も心も傷ついていらっしゃるはず。注意深くお世話をしなくては。
いったん客室を出て別館の衣装部屋に走り、シオン様のお身体に合いそうなお召し物を一式選んでとって返しました。脱衣所にタオルと着替えを置き、居間の暖炉の火を調節したりお飲物を用意している間に、シオン様が浴室を出る音。けれど、なかなかこちらにおいでになりません。
声をかけて脱衣所に入ると、お召し物の背中のボタンに苦労なさっているようです。
「お手伝いしますね」
怖がられないように、私はゆっくりとシオン様に近づきました。
そして、シオン様の背中側に回って、ハッとしました。
ワンピースドレスの下、下着からのぞく華奢な背中に、長い傷跡のようなものが……
切り傷ではなさそうです。……鞭?
痛ましく思いながらそっとボタンをとめると、シオン様は小さく会釈なさいました。貴族ではなさそうだけれど、ずいぶんきちんとしたお方……と思いながら、私はシオン様の髪を梳きます。
きっと、健康を取り戻されたらもっともっとお美しい髪になるわ。
シオン様に「キキョウ」という名を頂き、私とシオン様との短い日々は、そんな風に始まったのです。
償う、とおっしゃっていたオルセード様ですが、シオン様の方はオルセード様を拒絶なさっておいででした。お身体のこともあり、ほとんどお部屋で過ごしていらっしゃるので、オルセード様は私を呼び出してはシオン様の具合をお尋ねになりました。
一度、お屋敷にやってきたハルウェル様にも呼び止められたことがあります。
「あの女はどうしてる? オルセードに取り入ったりしてないだろうな?」
そのおっしゃりように、私はぎょっとしてしまいました。一体、オルセード様やハルウェル様とシオン様の間に、何があったのでしょう。
とにかく、私の主人はシオン様です。
笑うことのないお顔で、淡々とお話しになるシオン様。でもそれは心に傷を負ってらっしゃるからのようで、もしかしたら元々はもっとお元気に話す方かもしれません。さりげなく私が働きやすいように気を使って下さる一方で、時々放心したり、馬車の鞭の音に怯えたり。オルセード様やラーラシア様などにお会いすると緊張なさり、すぐに私を目で探したり……
私はお世話をさせていただきながらも、シオン様の一番の味方でいたい……失礼かもしれませんが、「守ってあげたい」、そんな思いを募らせていきました。
そうして半年以上が経った頃、オルセード様が行方不明になった事件を機に、何かが変わりました。
オルセード様はシオン様への気持ちを隠さなくなり、ハルウェル様はシオン様を傷つけるような言動をなさらなくなり、そしてシオン様は少しお元気に……目が、力強くなられたのです。
◇ ◇ ◇
「私はこの国では異邦人で、故郷にも帰れないけど……オルセードもエスティスに行けば、異邦人になる。二人で、新しく始めることにしたの」
シオン様は、そんな風におっしゃいます。私はどうにか理解しようと努めながら、お聞きしました。
「ええと……オルセード様は常々、シオン様に償うのだとおっしゃっていて、シオン様はそれを嫌がってらっしゃるように見えたのですが、それが変わる……?」
「そう。今までは、何もかも持ってるオルセードが私の望みを叶えようとしていたけど、それって結局は施しっていうか……私だけが一方的に依存してるみたいで、嫌だったの。少しでも、違う形になるのが嬉しい」
シオン様は微笑みを浮かべました。ごく薄い笑みでしたが、そんな表情をなさるようになったことが嬉しく、私はホッとしました。
おそらく今、シオン様は簡単にまとめておっしゃったのでしょう。
でもきっと、これでいいのです。何かが、解決したのです――全てではなくても。
「……わかりました。そういうことでしたら、安心してお見送りできます」
心配が完全に消えたわけではありませんが、私は笑顔を作ってうなずき、続けます。
「次にお会いするときには、きっとシオン様はもっと元気におなりですね」
「うん、きっと」
シオン様はすぐに、そうおっしゃったのですが――
少し、ほんの、少しだけ。
いつもシオン様の言葉に感じていた冷たい温度が……揺らいだのを感じました。
「シオン様」
お名前を呼ぶと、シオン様は「何?」と首を小さく傾けます。
「……いえ」
何故でしょう……今、シオン様を引き留めたくなってしまったのです。どうしてそう思ったのでしょう。
エスティスに出発する春を待つ、チェディスの冬。
シオン様は一度、体調を崩してしまわれました。シオン様はここに来られた頃、喉や肺をお悪くしていて、今もそこが弱いのか風邪をお召しになると咳がひどく出ます。今回は熱も出てしまいました。
オルセード様は、
「キキョウ、おそらく君が最もシオンに行き届いた世話ができると思う。よろしく頼む」
とおっしゃいました。が、その一方でひどく心配なさり、いつもなら数日おきに王国軍本部にお出かけになっていらしたのに、ご自邸から全くお出かけになりません。ご自室よりもシオン様のお部屋にほど近い別館の応接間で、一日のほとんどを過ごしていらっしゃいました。
数日が経ち、私が「微熱まで下がりました」とご報告すると、オルセード様はずいぶんほっとなさったようです。
「良かった……ご苦労だった、キキョウ。……シオンに、会えるだろうか」
「ええと、伺ってみます」
そうお返事したものの、寝台のシオン様の反応はというと、首を横に振って目を閉じてしまわれました。
けれど、お二人は、こんな風で大丈夫なのでしょうか。
春になったら、シオン様はオルセード様と二人、エスティスで暮らし始めるのです。今のままのご様子では、シオン様ご自身がしんどいのではないでしょうか。オルセード様のことがお嫌いでないのなら、何というか、もう少しだけでもお互いの存在の「近さ」に慣れていた方が……
余計なお世話かと思いましたが、私はこう申し上げました。
「オルセード様は、シオン様のことが心配でたまらないご様子ですよ。毎朝、お部屋の外で私を待ってらして、シオン様の様子をお聞きになります」
そう言うと、シオン様は目を開けたものの、少し眉をひそめておいでです。
私は急いで続けました。
「シオン様、オルセード様は毎日、渡り廊下を渡ってこちらに来られるのですから、春のお花をオルセード様にお願いしてしまいましょうか!」
冬の間は、特別に温室で育てたお花を飾っています。けれど、そろそろ中庭で花がつぼみをつけ始めたので、オルセード様に切ってきていただこうと申し上げたのです。暖かい部屋に置けば、すぐに開くでしょう。
「……そういうのは……いらない」
熱っぽい、しんどそうなお声で、いつもの台詞をおっしゃるシオン様。
私はうなずき、ちょっとおどけた口調で言ってみました。
「もちろん、シオン様がお嫌なのでしたら、オルセード様をこのお部屋にお招きすることはしません。別館に来られるついでにお花を切ってきていただいて、受け取るだけです。シオン様べったりのオルセード様にも、もうそれくらいで落ち着いていただかなくちゃ。いかがです?」
言い回しを変えただけですが、シオン様は考える様子をお見せになりました。
そして、私の方に顔を傾けて、おっしゃいました。
「ついでね……じゃあ、そうします」
「はいっ」
私はすぐにオルセード様の元に向かい、シオン様にお花をお持ちすることを提案しました。
オルセード様は、すらっとした茎と葉に黄色いつぼみをつけた花を一輪だけ、中庭で切ってお持ちになりました。
私がそれを花瓶に挿し、シオン様の寝台のすぐ横に置くと、シオン様は枕の上で顔を傾けて花をご覧になりました。
「これ、オルセードが選んだ花?」
微熱に潤んだ黒い瞳が、わずかに細められます。
「はい。一輪だと、ちょっと寂しいでしょうか」
「ううん……やっと少し暖かくなってきて、やっと咲こうとしてる花を、たくさん切っちゃうのは、もったいない」
その言葉に、私はちょっとドキッとしました。
オルセード様がこの花をお持ちになったときに、同じことをおっしゃったのです。
「シオンには、ここの庭は慰めなようだから、あまり切ってしまっては逆に悲しむだろう。春の便りとして、一輪だけ届けることにした」
と。
そう、お二人は、心を通じ合わせていないわけではないのです。むしろ、お互いをよく理解しつつあるのでは……?
お二人の間に起こった何か、それさえなければ、私から見るととてもお似合いのお二人。今頃とっくにご結婚なさっていたかもしれない、とさえ思います。
「庭の花が、満開になるのを見てから、エスティスに行くのかな……私」
シオン様はそうつぶやいて、じっとつぼみを見つめていらっしゃいます。オルセード様のお選びになった花を。やはりずいぶん、お気持ちが変わられたようです。
この様子なら、お二人でエスティスに行かれても大丈夫。
お二人で……
急に鼻がツンとなり、目頭が熱くなりました。
「何か、飲み物をお持ちしますね」
私は急いでそう言うと、シオン様の部屋を出ました。渡り廊下を渡り、本館まで小走りに進みます。
そして、廊下の柱の影で立ち止まると、エプロンで顔を覆いました。
シオン様は、お戻りにならないのかもしれない。
オルセード様と二人、どこか遠くへ行ってしまわれる。エスティスよりももっと遠くへ。
どうしてそう思ったのか、不思議です。でも、何故かわかったのです。シオン様の口調や、旅立つ理由、そしてお二人が歩み寄ろうとしている変化……そんなことから。
私は雇われメイドで、住み込みのメイドよりもこのお屋敷とのご縁は薄いかもしれません。
が、このお屋敷でオルセード様とシオン様がこれからもお暮らしになるのなら、ずっとご縁があるものと思っていました。
時が流れ、年を取っても、シオン様とお話できる機会さえあれば、昔を懐かしむことができる。あの時にあんなことがありましたねと、私とシオン様だけがわかるお話ができる。そう、思っていました。
それは、叶わないのかもしれない……
でも、旅立つことでシオン様の心が救われるなら。
オルセード様と幸せにおなりになるなら、それが一番いいのです。
◇ ◇ ◇
数年の月日が流れました。
夫が営んでいる革製品の店で、店番をしていると、扉につけてあるベルを鳴らして一人の男性が入ってきました。
「よう」
「……ハルウェル様」
私は驚いて、椅子から立ち上がります。
私がシオン様のお世話をしていた頃は、負の力を目に漲らせていたハルウェル様。でも、オルセード様とシオン様がエスティスに出発なさる頃には、その力が抜けて、まるで空気のような雰囲気になっていたハルウェル様。
長く伸びた赤い髪を、後ろで一つにまとめたハルウェル様は、皮肉な笑みを浮かべておっしゃいました。
「久しぶりだな、キキョウ。……いや、今はそう呼ぶ奴はいないか」
私は黙って、膝を軽く折って挨拶をします。
ハルウェル様はおっしゃいました。
「オルセードとシオンが、姿を消したぞ」
はっ、と、私は小さく息を呑みました。
やっぱり……
ハルウェル様は私をじっと見つめました。
「あまり、驚かないんだな。……エスティスでの仕事が終わったら夫婦で旅行したいと、周囲には言っていたらしい。任期中のチェディスへの報告書は、すさまじく詳細にまとめられたものが送られてきた。旅行の行き先は不明、しかも出発するときに魔石のブレスレットを置いていったそうだ。おかげで、僕には跡を追えない」
私は微笑みました。
「ご旅行、いいですね」
「お前、行き先、知ってるんじゃないのか」
「いいえ、存じ上げません」
「お前宛の手紙を調べ上げてもいいんだぞ」
「お出ししましょうか? ここ数ヶ月の手紙は取ってありますけれど、シオン様からは届いておりませんが」
ハルウェル様はさらに何か言おうと、口を開こうとなさいましたが、結局口をつぐまれました。
「エスティスに、お二人を探しに行かれるんですか?」
私は、お聞きしました。
ハルウェル様はそれには答えず、軽く舌打ちをして低くおっしゃいます。
「オルセード、僕の結婚を見届けないつもりか」
「えっ、ご結婚なさるんですか!?」
「決まったわけじゃない……意外そうに言うな。俺が子どもの頃、なぜ母について行かずに父の元に残ったと思ってる、跡を継ぐためだぞ」
……知りませんってば。
「僕の血は、残す。母も、愛する父の血を繋ぐことを望んでる。それが、僕に残された道だ」
つぶやくように言うハルウェル様を、失礼ながら、私はじっと見つめました。
お痩せになったな、と。
「シオンから連絡があったら、知らせろ。隠し事をするとためにならないぞ」
ハルウェル様はそうおっしゃって、店を出て行かれました。
まだ、シオン様のように目に力が戻っておられませんでした。揺れてらっしゃるのかも……どうしたらいいのかと。
オルセード様のいらっしゃらない中、人生を決めることが、ハルウェル様にとって良いことであるように。
そう祈らずにはいられません。
やがて、仕入れに出かけていた夫が帰ってきました。彼は大家さんから彼宛の手紙を受け取って帰ってきたのですが、そのうちの一通を未開封のまま、私に差し出しました。
宛名は、夫。差出人は、知らない男性名。
でも、その名前の横に、紫色のインクで小さな花が書いてあります。
紫の花が表すものについて、ハルウェルさまは御存じないはず。もしこのお手紙をハルウェル様が見つけても、お気づきにはならないでしょう。
私はナイフで手紙を開き、内容を三回、読み返しました。そしてすぐに、暖炉の火にくべました。
窓から空を見上げると、お別れしたあの日のような春の空。吹き込む風が、花の香りを運んできます。
――どうか、お元気で。
旅立たれたその先から、紫の花の便りが届くのを、お待ちしています。
【紫の花、再び 完】
キキョウ視点のリクエストを下さった方、ありがとうございました。
ちなみに、1月27日刊行の書籍に、オルセード視点の番外編が入っています。
現在はアルファポリスさんの方で、飯ウマお店ものの連載をしていて、なかなかなろうさんの方に投稿することができませんが、今年もこちらでも書く気満々です。どうぞよろしくお願いします!




